口にしないダブルスタンダード
詩篇78:12-22
神は,彼らの先祖たちの前で,エジプトの地,ツォアンの野で,奇しいわざを行なわれた. 神は海を分けて彼らを通らせ,せきのように水を立てられた.神は,¿は雲をもって,彼らを導き,夜は,夜通し炎の光で彼らを導いた.荒野では 岩を 割り, 深い 水からのように豊かに飮ませられた. また,岩から數¿の流れを出し、水を川のように流された. それなのに,彼らはなおも神に罪を犯し, 砂漠で,いと高き方に逆らった.彼らは 欲するままに食べ物を求め, 心のうちで神を試みた.そのとき彼らは神に逆らって,こう言った.「神は荒野の中で食事を備えることができようか. 確かに,岩を 打たれると,水がほとばしり出て流れがあふれた. だが, 神は, パン をも 與えることができようか.ご自分の民に肉を備えることができようか 」 それゆえ,主は,これを聞いて激しく怒られた. 火はヤコブに向かって燃え上がり,怒りもまた,イスラエルに向かって立ち上った.
これは,彼らが神を信ぜず,御救いに信賴しなかったからである.
これは,彼らが神を信ぜず,御救いに信賴しなかったからである.
私たちクリスチャンにとって、神様は私の救い主として信じている方のはずです。しかし、無意識のうちにもしくは、口にしなくても、神様の救いは霊的なことや、大きなことに関してなされて、自分の現実生活やお金儲けには関係ない、と2つの基準を持っていることは無いでしょうか。イスラエルの民が葦の海を、神様が分けてくださり、渡った奇跡のように、私の人間の力で渡ることの出来ない、出来なかった人生の海を、分けてくださった神様の奇跡を体験しながら、私のパン問題、生活の問題、お金の問題は別であるとしていることがあるのでないでしょうか?私の人生の問題は、いと高き方の右の手が変わったことにある、というアサフの信仰告白とは大きな違いであるのです。果たして、いと高き方が私と共に同行される、という喜びや安心を味わっているのでしょうか?大人になればなるほど、自分が子供のように神様の前に、人の前に出るのは難しくなります。しかし、父なる神様の心はどうでしょうか?父の心は、①自分の子供に最善のものを与えたい、②父の心はもっと素晴らしい完全な人生を歩んでほしい、それは子供がどのような子供であってもそうです、③父なる神様は私が苦しむなら、共に苦しみ、助けを願うなら喜んで与えてくださる方です。逆に助けを求めずに、試みるなら神様の助けが注がれるよりは、怒りが注がれます。④問題は神様にあるのでなくて、父なる神様の全能の力と愛を信じない私にあるのです、子供は父の能力を信じないことがあるでしょうか?それなら大変なことになります。まさに、父がいても孤児状態なわけです。今日、私にとって与えられたのは経済的な助け、福音を伝えることで生活をささえてくださる神様に正直に祈ることです。父なる神様の心と寄り添う一日を歩みます。父なる神様の願われる人のところに私を遣わしてください。
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