坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 5月 09, 2009

神様の民になるのか?裁きを待つのか?選択せよ

詩篇78:43-55
神が,エジプトでしるしを, ツォアンの野で奇蹟を行なわれたことを. 神がそこの川を血に變えられたので,その流れを飮むことができなかった. 神は彼らに,あぶの群れを送って彼らを 食わせ,かえるを送って彼らを滅ぼされた。また, 彼らの 作物を, 油蟲に, 彼らの勤勞の 實を,いなごに與えられた. 神は,音で,彼らのぶどうの木を,いなずまで,彼らのいちじく桑の木を滅ぼされた.神は彼らの家畜を,音に,彼らの家畜の群れを,疫
に渡された. 神は,彼らの上に,燃える怒りと激しい怒り, 憤りと苦しみ, それに, わざわいの御使いの群れを 送られた. 神は御怒りのために道をならし, 彼らのたましいに死を免れさせず,彼らのいのちを 疫に 渡された. . また,エジプトのすべての初子,ハムの天幕の彼らの力の初めの子らを打ち殺された. しかし神は,ご自分の民を,羊の群れのように連れ出し,家畜の群れのように 荒野の中を連れて行かれた.
今日のQTをする時に、「何が自分にとって得か損か?考えてごらん」と言われるなら、間違いなく神様の民となることを選ぶことを思います。神様の怒りは必ずあること、裁きがあり、滅亡があるならそれを怖れ、受けたくないはずです。しかし、大人になると従順に従うことへ悪いイメージがあります。これはサタンの策略です。従うことは私に良くして下さる、愛してくださる方、完全に良い計画で導かれる方なら、考えることも無く、言われる通りにしたいし、したくて仕方が無いはずなのです。世の中の無理やりの従うことや、人間関係上にやむえず従う、お金のために、生活のために従う出なく、心から従う祝福を得れるのです。神様の民になるなら、
①罪から、私たちを神様の怒りから救い出してくださいました。しかもご自分の十字架と言う犠牲を通してです。私の何か功績があったからでありません。恵みです。
②神様を礼拝するものとして呼ばれたのです。この世から、今まで慣れ親しんだことへの人生、価値観から離れる(LEAVE)があります。そして、本当に価値のある自分らしい人生へ呼ばれたのです。この世から離れる必要があります。
③神様の共同体へ呼ばれました(信仰は個人で呼ばれたのでなく、神様の民として、現代的に言うと教会へ呼ばれたのです)信仰の真価は人間関係の中で育てられます。
④神様の使命の人生へ、目的のある人生へと呼ばれたのです。そして、神様に導かれる人生には、恐れが無く、勇気があります。生きがいがあります。
神様の民となるのか?従うのか?それは、なあなあにする選択するとか出なく、したくてする選択なのです。神様の民として共同体に仕えていきます。