坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 5月 28, 2009

全世界で私はクリスチャンと叫べ(イエスの証人になるとこと)

使徒行伝1;1-11
テオピロよ.私は前の書で,イエスが行ない始め,敎え始められたすべてのことについて書き, お選びになった使徒たちに聖によって命じてから,天に上げられた日のことにまで及びました. イエスは苦しみを受けた後,四十日の間,彼らに現われて,神の國のことを 語り, 數多くの確かな證據をもって, ご自分が生きていることを 使徒たちに 示された. 彼らといっしょにいるとき, イエス は 彼らにこう 命じられた. 「エルサレムを離れないで,わたしから聞いた父の約束を待ちなさい.ヨハネは水でバプテスマ を 授けたが, もう 間もなく,あなたがたは聖のバプテスマを受けるからです. 」 そこで彼らは,いっしょに集まったとき, イエス にこう 尋ねた. 「主よ.今こそ,イスラエルのために國を再興してくださるのですか.」 イエスは言われた.「いつとか,どんなときとかいうことは, あなたがたは 知らなくてもよいのです.それは,父がご自分の權威をもってお定めになっています. しかし,聖があなたがたの 上に 臨まれるとき, あなたがたは力を受けます.そして,エルサレム ,ユダヤ と サマリヤ の 全土, および 地の 果てにまで,わたしの證人となります.」 こう言ってから,イエスは彼らが見ている間に上げられ,雲に包まれて,見えなくなられた.
イエスが上って行かれるとき,弟子たちは天を見つめていた.すると見よ,白い衣を着た人がふたり彼らのそばに立っていた. そして,こう言った「ガリラヤの人たち.なぜ天を見上げて 立っているのですか. あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有樣で,またおいでになります.」

使徒行伝は、ルカの福音書に続いてルカが「テオピロ」に向けて書いた内容から始まります。ただし、ルカの福音書と違い「呼称」がありません。それは、福音書を書いたときにはテオピロはクリスチャンでなく「イエス・キリスト」の福音を初めから聞く人でした。しかし、使徒行伝ではテオピロと呼ばれ、クリスチャンとなったことが推測されます。そして、使徒行伝の内容は「イエス・キリストの昇天」と「約束の聖霊をエルサレムで待つこと」の内容のQTが今月は最初に来ています。何故、私たちには聖霊様が必要なのでしょう。すぐに伝道してはいけないかったのでしょうか。
①弟子たちは「イスラエルの再建はいつですか?」とイエスに質問します。弟子たちは復活のイエスを見ても未だに「神様の国」への理解が出来ていませんでした。それは、御言葉を未だに理解できずに、霊的な目が開かれていない状態を示します。聖霊様によらないと御言葉を理解できません、自分勝手な解釈になります。聖霊様を下さるのは御言葉を理解するためです
②私たちを捨てて孤児とはしない、と言われた神様は私たちと共に住まわれる、と言われました。聖霊様は人格的な方です。決して、何かのエネルギーのようなものでなく、私たちが賜物を持って誇るために利用するものでありません。共に住まわれる神様です。聖霊様によって神様のとなる人生が始まります。私たちの人格をイエスに似せてくださる聖霊様です。
③力を受けると言われました。しかし、未だに弟子たちは「神様の国」を「イスラエルの再建」という狭い範囲に閉じ込めたり、全世界に出て行く「イエスの証人」ということを受け止めていませんでした。イエスの証人として全世界に出て行くことをわかっていませんでした。イエスの証人とするために聖霊様は下さりました。イエスに従うためにです。
④ですから、イエスが昇天しても「天を見上げ」ていたのです。ここで御使いが言うのは「ガリラヤの人たち」という言葉です。イエスはエルサレムで祈って待ちなさい、と言われました。私たちは聖書を平面的に読みがちですが、立体的に読むなら「ガリラヤからエルサレムへの移動が数日は架かること」を思いつきます。弟子たちはイエスの昇天からもう一度、十字架にかけられたエルサレムに行くのです。数日前(40日ほど)までは恐れて家の外に出れなかった弟子たちです。聖霊様が下さるとき弟子たちの弱さは取り去れました。人格が変わったのです。イエスが十字架にかかるときに逃げた弟子が、イエスが目に見えない使徒行伝では力強くあかしし、牢獄に入り、殉教していきます。イエスの生きた時代よりも、もっと多くの人が救われ教会が出来て行きました。全世界に出て行く弟子ととなりました。
聖霊様を受けるとは、自分の力でなくて、自分の命でなくて、自分の願いどおりでなくて、神様の使命に生きる喜びを受けることです。それは、自分の力では出来ません。何故なら、自分のことさえも自分で変えることが出来ない弱い私たちだからです。しかし、聖霊様を受けるときに「神様の国の支配」が私の心の中で始まります。聖霊様を受けることは、全世界で自分がどんな場所でも、どんな人の前でもクリスチャンとして、主イエスが私の人生の主人であり、王である喜びの人生を証しすることです。全世界に出て行く私の家庭、私の仕える教会になるように奉仕し、使えていきます。世界に御言葉を奉仕する弟子の集まりの教会を建て上げていきます。