マルコの福音書14;66-77
ペテロ が下の庭にいると,大祭司の女中のひとりが 來て,
ペテロ が火にあたっているのを見かけ,彼をじっと見つめて言った.「あなたも,あのナザレ人,あのイエスといっしょにいましたね.」 しかし,ペテロはそれを打ち消して,「何を言っているのか,わからない.見當もつかない.」と言って, 出口のほうへと出て行った.
すると女中は,ペテロを見て,そばに立っていた人たちに,また, 「この人はあの 仲間です.」と言いだした.
しかし,ペテロは再び打ち消した. しばらくすると, そばに 立っていたその 人たちが, またペテロに言った.「確かに,あなたはあの仲間だ. ガリラヤ人なのだから. 」 しかし,彼はのろいをかけて誓い始め, 「私は, あなたがたの 話しているその人を知りません.」と言った.
するとすぐに, 鷄が, 二度目に 鳴いた. そこで ペテロは,「鷄が二度鳴く前に,あなたは,わたしを 知らないと 三度言います. 」という イエス のおことばを 思い 出した. それに 思い 當たったとき,彼は泣き出した.
人は何と社会からの、この世の権勢に弱いことでしょうか。あれほど、情熱的にイエスに従うことを主張した、言い張ったペテロがなすすべも無く、大祭司の女中からの「あなたはイエスと共にいた」という質問に「知らない」と答えます。最初は言い逃れの簡単なその場しのぎの気持ちだったのかもしれません。しかし、それは三度にわたるイエスの預言の成就になります。私たちの情熱や人格さえもなんと頼りないことでしょうか。ペテロのことだけでなく、私たちのことを言っているのです。わたしのおとです。主イエスは大事なものを失いました。それは、主イエスと共にいることです。私たちの救いは主イエスの十字架を私の罪のためであったと信じることを通して、神様とつながることです。神様の関係を回復したのです。その結果は、神様が共にいるのだから恐れるな!という約束と祝福を得たのです。ペテロは女中に「弟子である」とも言われたのでもなく、「イエスの側近」だ言われたのでもなく、共にいた、仲間だと言われることで、既に否定したのです。何と私たちは弱く、妥協し、現実生活に二重生活を持ってしまうのでしょうか。主イエスと共にいないとは
①闇の中にいること
②恐れに生きることになる
③全てを自分の力で生きることになる
④光の中にいない
⑤神様の子供としての特別な力、権利、正体を失う
⑥弱い人も強い人になれる神様の祝福を得れない
しかし、そのようなペテロに私たちに、主イエスは「あなたの信仰がなくならないように祈ってくださり、立ち上がったら、他の人を励ましてあげなさい」と言ってくださったのです。何と感謝なことでしょうか。 だからこそ、私たちは何度も倒れても立ち上がれるのです。サタンは私たちをまた失敗した、また同じ罪を犯した、とあなたは駄目だと言うメッセージを送ります。しかし、それは非真理です。真理は、主イエスは私たちを愛されているのです。
①霊的な戦いに、主イエスの愛を宣言します。
②主イエスの愛と権威を賛美します
③主イエスの十字架と復活の勝利を賛美します
④私だけでなく、倒れている人を裁かずにとりなします。
王なる主イエスに賛美します。