坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 2月 28, 2009

天国の計算方法は考えられないプレゼント

イザヤ40:1-8
「慰めよ. 慰めよ. わたしの民を. 」とあなたがたの神は仰せられる. 「エルサレムに優しく語りかけよ.これに呼びかけよ.その勞苦は終わり, その咎は償われた.そのすべての罪に引き替え,二倍のものを主の手から受けたと. 」
荒野に呼ばわる者の聲がする.「主の道を整えよ.荒地で,私たちの神のために, 大路を平らにせよ.すべての谷は埋め立てられ, すべての山や丘は低くなる.盛り上がった地は
平地に,險しい地は平野となる.このようにして, 主の 榮光が 現わされると, すべて者が 共にこれを見る.主の口が語られたからだ. 」 「呼ばわれ. 」と言う者の聲がする. 私は「何と呼ばわりましょう.」と 答えた.「すべての人は草, その榮光は,みな野の花のようだ. 主のいぶきがその上に吹くと,草は枯れ,花はしぼむ.まことに民は草だ. 草は枯れ, 花はしぼむ. だが, 私たちの神のことばは永遠に立つ.」
今日の聖書の箇所は私にとって約束のみ言葉であります。主なる神様は、人々の罪を許し、二倍の祝福を与えると言われます。クリスチャンの罪をゆるし、回復すると言われます。素晴らしい御言葉ですが、考えてみると、タダで罪を赦されたのではないのです。神様は自分の子供なる主イエスを十字架にかけて殺されたのです。それで、私たちの罪を赦されたのです。私たちはそれを信じるだけだったのです。人の罪を赦すのに、自分が犠牲をすることがありえるでしょうか。それだけでなく、2倍の祝福を与えると言われます。何のためにでしょうか。神様の子供として生きるためです。人生の目的を持って生きるためにです。正しい人生の方向を持つためです。正しい、本当に頼るべきものを頼って生きるためです。その時に、私たちは主の道を整えて生きることが出来ます。再び主イエスが来られる時まで、その神様の言葉に頼って、深みに網を投げ出します。信じる者にできないことは無いと信じます。アーメン

金曜日, 2月 27, 2009

何度も諦めずに語れ

マルコの福音書16;9-20
〔さて,週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは,まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた.イエスは以前にこの女から七つの惡
を追い出されたのであった. マリヤはイエスといっしょにいた人たちが 嘆き悲しんで泣いているところに行き,そのことを知らせた. ところが,彼らは, イエスが生きておられ,お姿をよく見た,と聞いても, それを信じようとはしなかった. その後,彼らのうちのふたりがいなかのほうへ步いていたおりに,イエスは別の姿でご自分を現わされた.そこでこのふたりも,殘りの人たちのところへ行ってこれを知らせたが, 彼らはふたりの話も信じなかった. しかしそれから後になって,イエスは,その 十一人が食卓に着いているところに現われて,彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった. それは,彼らが,よみがえられたイエスを見た 人たちの言うところを信じなかったからである.それから,イエスは彼らにこう言われた. 「全世界に出て行き,すべての造られた者に,音を宣べ傳えなさい. 信じてバプテスマを受ける者は,救われます. しかし,信じない者は罪に定められます.信じる人¿には次のようなしるしが 伴います. すなわち, わたしの 名によって 惡を 追い 出し, 新しいことばを 語り, 蛇をもつかみ, たとい毒を飮んでも 決して 害を 受けず, また, 人に手を置けば 人はいやされます 」主イエスは,彼らにこう話されて後, 天に上げられて神の右の座に着かれた. そこで,彼らは出て行って,至る所で音を宣べ傳えた.主は彼らとともに ¿き,みことばに伴うしるしをもって, みことばを確かなものとされた. 〕
今日の聖書箇所は、何度イエスの復活を伝えても信じようとしない弟子たちが出てきます。イエスが一番の情熱を注いで、一番イエスのみ業をみて、実言葉を近くで聞いていながら、弟子たちはそれを信じようとしません。もちろん、人間の力ではイエスの復活は信じられないことです。ここで、イエスは弟子たちに何度も伝えられ、直接に現れてイエスの復活を伝えようとします。信じるようにチャレンジをされます。今日の朝教えられたことは、これだけ弟子たちに伝えても、イエスの十字架と復活の意味を分からなかったのであるから、ノンクリスチャンが聞いても信じないことはある意味当たり前です。しかし、そこへの諦めないイエスの情熱があります。私はそのイエスの弟子たちへの、人への愛を情熱を持っているのでしょうか?今日の聖書箇所の最後は、イエス・キリストの福音を伝えよと言うことでした。それに伴い力強いしるしもあることを語っています。私たちは何よりも、しるしを現象を、目に見える部分を追い求めることがあるのでないでしょうか。しかし、大事なことはしるしでなく、みことばを確かなものにすることです。最後に、マルコは「イエスは神の右の座に上げられた」と書いて終わります。マルコはそれを目で見たことではありません。私たちもそうです。しかし、信仰を持って聖霊様によって信じているのです。今日も諦めずに福音を語り続けます。証をします。人のために情熱をもって行きます。

木曜日, 2月 26, 2009

イエスを愛する人は証人となる

マルコの福音書16;1-8
さて,安息日が終わったので, マグダラのマリヤとヤコブの母 マリヤとサロメ とは, イエスに油を塗りに行こうと思い,香料を買った. そして, 週の初めの日の早朝, 日が上ったとき,墓に着いた. 彼女たちは,「墓の入口からあのをころがしてくれる人が, だれかいるでしょうか.」とみなで話し合っていた.
ところが, 目を上げて見ると,あれほど大きな
だったのに,そのがすでにころがしてあった. それで,墓の中にはいったところ, 眞白な長い衣をまとった靑年が右側にすわっているのが見えた.彼女たちは驚いた.靑年は言った. 「驚いてはいけません. あなたがたは, 十字架につけられたナザレ人 イエス を搜しているのでしょう. あの 方はよみがえられました. ここにはおられません. ご 覽なさい. ここがあの 方の 納められた 所です. ですから行って,お弟子たちとペテロに, 『イエス は,あなたがたより先にガリラヤへ行かれます.前に言われたとおり, そこでお 會いできます. 』とそう 言いなさい. 」
女たちは,墓を出て,そこから逃げ去った.すっかり震え上がって,氣も轉倒していたからである. そしてだれにも何も言わなかった. 恐ろしかったからである.

主イエスに最後までついていった人の中出に女性が多くいます。今日の聖書に出てくるのはマグダラのマリャ、サロメ、ヤコブの母マリヤなどが出てきます。マグダラのマリヤは罪赦されたことに、こたえて生きた女性です。主イエスを愛した女性です。主イエスの葬りの準備をした女性です。彼女たちの献身は本当に偉大です。男性はみなわらないといけません。本当に尊敬に値します。彼女たちは、今日の聖書箇所で「油を塗りに行こう」と思い、早朝でかけました。そして、日の開ける頃についたとあります。いかに、彼女たちの愛が、イエスへの献身が熱く、力強いか分かりません。暗い時間帯に動くのは簡単なことでなく、危ないことであったかもしれません。それをなんとも思わない、負担に感じない彼女たちの心、献身は最初のイエス・キリストを復活を知る証人となりました。イエスを深く愛したものは、いえイエスに愛されたものは、証人となります。天使はお弟子たちにガリラヤに行かれることを伝えなさい、と言われました。彼女たちは、最初に死と悪魔を破り、黄泉より帰られた主イエスの証人となったのです。メッセージをもらったのです。ただ、恐ろしくて誰にも話さなかったとありますが。彼女たちの墓の石(人は復活しない、イエスは話された復活のことを信じられない、理解できない)は除かれていなかったのです。それは、人の力でなく聖霊様の力によってのみ取り除くことが可能です。私は、今日主イエスを愛し、愛され、その証人となれるように、クラスの人のために祈って一日をスタートしていきます。聖霊様による証人としてください。

水曜日, 2月 25, 2009

思い切って飛び込む所に主イエスと出会う

マルコの福音書15;42-49
すっかり 夕方になった.その日は備えの日,すなわち安息日の前日であったので,アリマタヤのヨセフ は,思い切ってピラトのところに行き,イエスのからだの下げ渡しを願った.ヨセフは有力な議員であり,みずからも神の國を待ち 望んでいた人であった.
ピラトは,イエスがもう死んだのかと驚いて,百人隊長を呼び出し,イエスがすでに死んでしまったかどうかを 問いただした. そして,百人隊長からそうと確かめてから,イエスのからだをヨセフに與えた. そこで,ヨセフは亞麻布を買い,イエスを取り降ろしてその亞麻布に包み,岩を掘って造った 墓に 納めた.墓の入口には
をころがしかけておいた. マグダラのマリヤとヨセの母 マリヤとは,イエスの 納められる所をよく見ていた.
十字架につけられたイエスを葬ったのは何と、議員であるアリマタヤのヨセフ、そして今日の箇所に出てきませんがニコデモが出てきます。彼らは、自分の立場上主イエス共に主旨を持つのが難しい人たちでした。また、律法を知っていても命なる主イエスにであることが出来ない人たちでした。しかし、共通点は 霊的な渇望が会った、と言うことです。この世のいろんな宗教行為、きよい行いがあっても
心を満たすことが出来ないことがあったのです。彼らは教師と呼ばれる人たちでした。しかし、聖書を教えても、知っていても、主イエスに出会うことがなかったのです。BORN AGAINしていなかったのです。今日、主イエスが十字架にかかってなくなられるのを見て「思い切って」イエスの体を葬ることをしたのです。今日私にとって、思い切ってするべきことは何でしょうか。献身するべきことは何でしょうか。人の目を気にせずにするべきことは何でしょうか。イエスについていた女性たちは十字架から墓までついていきました。最後までついていった彼女たちは証人となったのです。それは、イエスにどれほど愛されたのか知っている献身でした。私は今日、主イエスを証します。また、主イエスを優先にした行動を取ります。やはり、朝のQTは最高ですね。

火曜日, 2月 24, 2009

人生で一番辛いことは何か?

MARK15:32-39
キリスト , イスラエルの王さま.たった今, 十字架から 降りてもらおうか. われわれは, それを見たら信じるから.」また,イエスといっしょに十字架につけられた者たちもイエスをののしった. さて, 十二時になったとき,全地が暗くなって,午後三時まで 續いた. そして,三時に,イエスは大聲で,「エロイ ,エロイ ,ラマ ,サバクタニ . 」と叫ばれた.それは譯すと「わが神,わが神. どうしてわたしをお見捨てになったのですか.」という意味である. そばに立っていた幾人かが,これを聞いて,「そら,エリヤを呼んでいる.」と言った.すると, ひとりが 走って 行って, 海綿に 酸いぶどう 酒を 含ませ, それを 葦の 棒につけて, イエスに飮ませようとしながら言った. 「エリヤがやって來て,彼を降ろすかどうか,私たちは見ることにしよう. 」 それから, イエスは大聲をあげて息を引き取られた.
神殿の幕が上から下まで眞二つに裂けた.
イエスの正面に立っていた百人隊長は, イエス がこのように 息を 引き 取られたのを 見て, 「この方はまことに神の子であった. 」と 言った.

人生で一番辛いことは何でしょうか?経済的な苦しみでしょうか?健康を失うことでしょうか?家族を失うことでしょうか?学業の失敗でしょうか?仕事の失敗でしょうか?人間関係を壊すことでしょうか。全て苦しみや痛みのあるものです。しかし、私たちが普段なんとも思わずに生きている中で、失われても悲しくないような生き方をしている、価値観を取り違えている、ような一番大事なものがあります。それは、神様の関係を失うことです。神様に捨てられることです。主イエスは、十字架にかけられるまで、ほとんど必要なこと以外は沈黙を守りました。ユダヤ人の王であること以外は、ののしられても何も言い返すことはありませんでした。しかし、叫ばれたことがあります。わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?私は神様に関係が無いことや、薄いことに叫びがあるのだろうか?また、ノンクリスチャンや他の人との関係の中でクリスチャンとして神様の子供であることを関係を認め、告白しているのだろうか?と思いました。人は死ぬときは嘘をつきません。主イエスは死ぬまで神様との関係を持った生き様を、告白をされました。その結果は、敵であるローマの百人隊長が神様の子供であることを告白したのです。神様の関係が強い人は、神様の関係を渇望する人は、周りの人を変えます。主イエスは十字架で神様の関係を罪によって捨てられることで、私たちに神様の関係を回復してくださいました。そのことをどれだけ、感謝しているのか?賛美しているのか?貴重に思って生きているのか?考えました。神様の関係を強く持っていきます。

月曜日, 2月 23, 2009

この人に罪は見つけられない

マルコの福音書15:16-32
イエス・キリストの十字架を背負うシーンの中で、イエスは何も語られません。どれほど、つらく叫びたくなる状況で黙っておられるのです。そして、聞こえてくるのは「罵倒の声」だけなのです。彼らを滅ぶことが出来るのにされなかったイエス。その罵倒する姿は私の姿なのです。罵倒する声は、自分の罪の代わりにイエスが、罪の無い人が背負われている十字架を知らずに、もしくは罪を認めることなく生きる姿なのです。彼らはイエスに罪を見つけることが出来ずに、罵倒したことは「神殿を3日で建てる人」ということや「他人を救ったのに自分を救えない」ということでした。ユダヤ人の王であることが罪状でした。イエスが認めたことはそれだけでした。果たして、ユダヤ人の王であること、日本の王である、と言って死刑になる人がどこにいることでしょうか。イエスに罪を見つけることは出来なかったのです。イエスの最後まで罪を犯さない態度でした。また、いつでも神の全能の力を発揮できるのに、されなかったのです。イエスの義を言うことも出来るのにされなかったのです。自分の権利を捨てられた姿でした。自分は、はたして権利を主張せずに神様の救いのわざをしているのでしょうか。どれほど、黙っていることが難しいことでしょうか。今日、主イエスに出会った人々の中にクレネ人シモンがいます。彼は意図することなく、田舎から出てきたところで十字架を背負うことになりました。それは、一見不名誉なことだったかもしれません。しかし、彼は十字架を負うイエスに出会う中で、一切の弁明をされず、一切の主張をされずにいる人を見て、イエスを信じることになります。後に、ローマ人の手紙16章に出てくる祈りの人リストにアレキサンデルとルポすが出てきます。シモンは彼らの父でした。最近、悲しい事件が日本のとある教会であったことをクリスチャン新聞で読みました。残念な話で、被害者の方々への回復と事件の解決、そして悔い改めがなされることを祈ります。しかし、もっと残念なことは周りの人々の反応が問題を大きくしていることを感じます。読むのも辛い話です。私たちは、いや私は、こういう事件が起こるときにどのように対応するべきでしょうか。こういう事件は決してここにしかない事件とは思いません。きっと、他にもあるのかもしれません。私たちのとるべき態度は何でしょうか。問題を責任の無い群集や兵士のようにアナウンスして広げ、罪を罪で対応するのでなく、私のために十字架で死なれたイエスを黙想べきでないでしょうか。私が主イエスを罵倒したのに、何も言われなかったのです。死んでくださったのです。その結果、クレネ人シモンが救われ、ローマ人につながる祝福の家系が生まれました。また、私の負うべき十字架はどこにあるのでしょうか?誰を負うべきでしょうか。主イエスの十字架を、私の負うべき十字架を背負って生きます。ポートランドより。

日曜日, 2月 22, 2009

機嫌を取るために人を殺していないか?

マルコの福音書15:1-15
夜が 明けるとすぐに,祭司長たちをはじめ,長老, 律法學者たちと, 全議會とは 協議をこらしたすえ, イエスを縛って連れ出し, ピラトに引き渡した. ピラトはイエスに尋ねた. 「あなたは,ユダヤ人の王ですか.」イエスは答えて言われた.「そのとおりです.」 そこで,祭司長たちはイエスをきびしく訴えた.
ピラト はもう一度イエスに尋ねて言った.「何も答えないのですか.見なさい. 彼らはあんなにまであなたを訴えているのです. 」 それでも,イエスは何もお答えにならなかった. それには ピラト も 驚いた. ところで ピラトは,その祭りには, 人¿の 願う 囚人をひとりだけ 赦免するのを 例としていた. たまたま,バラバという者がいて,暴動のとき人殺しをした暴徒たちといっしょに 牢にはいっていた. それで, 群衆は 進んで 行って, いつものようにしてもらうことを, ピラト に 要求し 始めた. そこでピラトは,彼らに答えて, 「この ユダヤ 人の 王を 釋放してくれというのか.」と言った.ピラトは,祭司長たちが, ねたみから イエス を 引き 渡したことに, 氣づいていたからである.しかし, 祭司長たちは 群衆を 扇動して, むしろ バラバ を 釋放してもらいたいと 言わせた. そこで, ピラトはもう一度答えて, 「ではいったい, あなたがたが ユダヤ 人の 王と 呼んでいるあの人を,私にどうせよというのか. 」と 言った.
すると彼らはまたも「十字架につけろ. 」と 叫んだ.
だが,ピラトは彼らに, 「あの 人がどんな 惡いことをしたというのか. 」と 言った. しかし, 彼らはますます 激しく「十字架につけろ. 」と 叫んだ.
それで, ピラトは群衆のきげんをとろうと思い,バラバを釋放した. そして, イエス をむち 打って後,十字架につけるようにと引き渡した.

最近、日本である教会の牧師のスキャンダルについてのインターネットの記事、またそれに対する人々の反応を見ました。残念なことです。その先生の悔い改めと被害者の癒しを祈ります。また、それと同時に、その事件に関するサイトやコメントを見たのですが、非常に残念な印象を受けました。私たちは世の中の不条理やおかしい、あってはならない事件、また時に自分がその被害者であるときに痛みを叫びます。しかし、そこで終わってはいけないと思います。今日の聖書箇所から「群集たち」を扇動する祭司たちの姿があります。それはあってはならない宗教指導者の姿です。彼らは自分たちは群集と言う責任の無い、不特定多数の人々を操り、 自分たちは隠れて罪を犯したのです。彼らは神様を知っている人々です。旧約聖書を知り、律法を守る人々です。あってはならない姿なのです。ピラトはそういう群集と祭司を見て「ねたみ」から引き渡したの知ったとあります。人はねたみから人を殺します。実際の殺しでなくても、その人を無視する、活かさない、その人を用いない、その人を駄目にする、追放する、といろいろな罪が犯されます。また、そんなピラトは群集の機嫌をとろうとして「イエスを十字架に付ける」としたとあります。機嫌を取るために人を殺したのです。私たちは機嫌を取るために、自分の体面のために、自分の立場を守るために、どれほど罪を犯したり、間違いを犯し、神様の御心を守らないことでしょうか。イエスこそが、一番言われないの無い罪の身代わりとなり、あってはならない被害者であったのです。しかし、イエスは一言も弁解されませんでした。ユダヤ人の王ですか?という問いに答えたのみでした。私たちは黙っているべきとに黙らず、言うべきときに言わないことがないでしょうか。また、あってはならない事件に巻き込まれ、その事件に縛られたり、自分から罪へ罪の反応で返すことが無いでしょうか。私たちのすべきことは何でしょうか。十字架にかけられたイエスを伝えることです。十字架にかけられたイエスの後を追うことです。私たちはあってはならない事件のあったときに、イエスの姿を追っていく幸福を得たいと思います。

土曜日, 2月 21, 2009

主イエスとともにいることを賛美せよ

マルコの福音書14;66-77
ペテロ が下の庭にいると,大祭司の女中のひとりが 來て,
ペテロ が火にあたっているのを見かけ,彼をじっと見つめて言った.「あなたも,あのナザレ人,あのイエスといっしょにいましたね.」 しかし,ペテロはそれを打ち消して,「何を言っているのか,わからない.見當もつかない.」と言って, 出口のほうへと出て行った.
すると女中は,ペテロを見て,そばに立っていた人たちに,また, 「この人はあの 仲間です.」と言いだした.
しかし,ペテロは再び打ち消した. しばらくすると, そばに 立っていたその 人たちが, またペテロに言った.「確かに,あなたはあの仲間だ. ガリラヤ人なのだから. 」 しかし,彼はのろいをかけて誓い始め, 「私は, あなたがたの 話しているその人を知りません.」と言った.
するとすぐに, 鷄が, 二度目に 鳴いた. そこで ペテロは,「鷄が二度鳴く前に,あなたは,わたしを 知らないと 三度言います. 」という イエス のおことばを 思い 出した. それに 思い 當たったとき,彼は泣き出した.
人は何と社会からの、この世の権勢に弱いことでしょうか。あれほど、情熱的にイエスに従うことを主張した、言い張ったペテロがなすすべも無く、大祭司の女中からの「あなたはイエスと共にいた」という質問に「知らない」と答えます。最初は言い逃れの簡単なその場しのぎの気持ちだったのかもしれません。しかし、それは三度にわたるイエスの預言の成就になります。私たちの情熱や人格さえもなんと頼りないことでしょうか。ペテロのことだけでなく、私たちのことを言っているのです。わたしのおとです。主イエスは大事なものを失いました。それは、主イエスと共にいることです。私たちの救いは主イエスの十字架を私の罪のためであったと信じることを通して、神様とつながることです。神様の関係を回復したのです。その結果は、神様が共にいるのだから恐れるな!という約束と祝福を得たのです。ペテロは女中に「弟子である」とも言われたのでもなく、「イエスの側近」だ言われたのでもなく、共にいた、仲間だと言われることで、既に否定したのです。何と私たちは弱く、妥協し、現実生活に二重生活を持ってしまうのでしょうか。主イエスと共にいないとは
①闇の中にいること
②恐れに生きることになる
③全てを自分の力で生きることになる
④光の中にいない
⑤神様の子供としての特別な力、権利、正体を失う
⑥弱い人も強い人になれる神様の祝福を得れない
しかし、そのようなペテロに私たちに、主イエスは「あなたの信仰がなくならないように祈ってくださり、立ち上がったら、他の人を励ましてあげなさい」と言ってくださったのです。何と感謝なことでしょうか。 だからこそ、私たちは何度も倒れても立ち上がれるのです。サタンは私たちをまた失敗した、また同じ罪を犯した、とあなたは駄目だと言うメッセージを送ります。しかし、それは非真理です。真理は、主イエスは私たちを愛されているのです。
①霊的な戦いに、主イエスの愛を宣言します。
②主イエスの愛と権威を賛美します
③主イエスの十字架と復活の勝利を賛美します
④私だけでなく、倒れている人を裁かずにとりなします。
王なる主イエスに賛美します。

金曜日, 2月 20, 2009

主イエスの言われることは一致する

マルコの福音書14;53-65
彼らが イエス を 大祭司のところに 連れて 行くと, 祭司長, 長老, 律法學者たちがみな, 集まって來た. ペテロは, 遠くから イエス のあとをつけながら,大祭司の庭の中まではいって行った.そして,役人たちといっしょにすわって,火にあたっていた.
さて,祭司長たちと全議會は, イエスを
死刑にするために,イエスを訴える 證據をつかもうと 努めたが,何も見つからなかった. イエスに對する僞證をした者は多かったが,一致しなかったのである. すると數人が立ち上がって,イエスに對する僞證をして,次のように言った.
「私たちは,この人が『わたしは 手で 造られたこの 神殿をこわして, 三日のうちに,手で造られない別の神殿を造って見せる. 』と 言うのを 聞きました.」 しかし,この点でも 證言は 一致しなかった.
そこで大祭司が立ち上がり,眞中に進み出てイエスに尋ねて言った.「何も 答えないのですか.この人たちが, あなたに 不利な 證言をしていますが, これはどうなのですか. 」
しかし, イエス は 默ったままで, 何もお 答えにならなかった. 大祭司は, さらに イエス に 尋ねて 言った. 「あなたは, ほむべき 方の 子, キリスト ですか. 」
そこで イエス は 言われた. 「わたしは, それです. 人の 子が, 力ある 方の 右の 座に 着き, 天の 雲に 乘って 來るのを, あなたがたは 見るはずです. 」
すると,大祭司は,自分の衣を引き裂いて言った.「これでもまだ,證人が必要でしょうか.
あなたがたは, 神をけがすこのことばを 聞いたのです.どう考えますか. 」すると, 彼らは 全員で, イエス には
死刑に 當たる 罪があると 決めた. そうして, ある 人¿は, イエス につばきをかけ, 御顔をおおい,こぶしでなぐりつけ 「言い當てて見ろ」などと言ったりし始めた. また,役人たちは,イエスを受け取って, 平手で打った.
神様の御心を求め歩む人には、人生には、その共同体には一致があります。一致した恵みがあります。しかし、罪を犯すときには、闇の勢力には一致がありません。神様の御心を求め歩む人には言い訳がありません。神様が責任をとってくださるからです。ですから、献身があります。神様が最終的に祝福を下さるからです。しかし、私たちは何と言い訳をし、一致が無いことでしょうか。献身が無いことでしょうか。計算をして生きていきます。
主イエスは私のために、十字架にかかるために「罵倒され」「殴られ」「裏切れ」ました。私は主イエスのためにどれだけ、殴られていることでしょうか。どれだけ、主イエスの御心に従うために損をしていることでしょうか。どのような中にあっても、黙っておられた主イエスのように、神様の御心を行う主イエスのように感謝を、損をする一日を歩んで生きたいと思います。また、悪巧みに乗らずに神様の御心を行うように、境界線を持って歩んでいきます。

木曜日, 2月 19, 2009

主が喜ばれる道を歩むためにとるべき方法

マルコの福音書14:43-52
立ちなさい. さあ,行くのです. 見なさい. わたしを 裏切る 者が 近づきました. 」 そしてすぐ,イエスがまだ話しておられるうちに, 十二弟子のひとりのユダが現われた. 劍や 棒を 手にした群衆もいっしょであった.群衆はみな, 祭司長, 律法學者, 長老たちから 差し 向けられたものであった. イエスを裏切る者は,彼らと前もって次のような合圖を決めておいた.「私が口づけをするのが,その人だ. その人をつかまえて, しっかりと引いて行くのだ.」 それで, 彼はやって來るとすぐに,イエスに近寄って,「
先生」と言って,口づけした. すると人々はイエスに手をかけて捕えた. そのとき, イエス のそばに 立っていたひとりが,劍を拔いて大祭司のしもべに 擊ちかかり, その 耳を 切り 落とした. イエスは彼らに向かって言われた. 「まるで 强盜にでも 向かうように, 劍や 棒を 持ってわたしを捕えに來たのですか. わたしは每日, 宮であなたがたといっしょにいて, 敎えていたのに,あなたがたは, わたしを捕えなかったのです. しかし,こうなったのは聖書のことばが實現するためです. 」 すると,みながイエスを見捨てて,逃げてしまった. ある靑年が,素はだに亞麻布を 一枚まとったままで,イエスについて行ったところ, 人¿は 彼を 捕えようとした. すると,彼は亞麻布を脫ぎ捨てて,はだかで逃げた.
いよいよ、イエスが十字架にかけられる直前の場面です。今日、ふと黙想させられたことは十字架にかかるまでの内容描写を聖書は細かく書いていると言うことでした。特に人々から裏切られ、とらえらえる部分まで、どのようにされたのか書いていることでした。剣や棒を手にした群集(責任感の無い人々、自分の名前が記されない匿名の人々)たちを使って、祭司、律法学者、長老たちによって差し向けられたものたちでした。イスカリオテのユダの裏切りの口付け、そして弟子たちの中には剣を持って立ち向かうものもおり、また全ての弟子たちが逃走するという場面がありました。今朝の黙想は
①悪を罪を犯す人は、常に隠れて責任をとらない。人を操る。
②悪に対して、悪の復讐の行動をとるのか?
③世のやり方に(世の権威やプレッシャー)に世のやり方で対するのか?
④主イエスはひとり残されても、裏切った弟子たちを裁かず、神様の御旨だけを行うことを集中された
⑤それは、いわれの無い苦しみや痛みであったが従われた
果たして、私が主イエスと共にいたのなら弟子たちと同じで逃げなかっただろうか?と思いました。逃げた気がするように思いました。今の私にとって神様に従わないことは何か考えました。それは、人間的に計算して無理だと思うこと(例えば、経済的に)に祈って、聖書を黙想して必死で求めるのか?と思いました。神様の御心を計算する前に、出来る出来ないで無く、世の方法でなく、神様に従うことを喜びとして進んで行きたいと思います。また、その心と決意を喜ばれる主イエスの前に感謝と賛美をささげます。

水曜日, 2月 18, 2009

神様の前に素直な人か?

マルコの福音書14;27-42
イエス は, 弟子たちに 言われた. 「あなたがたはみな, つまずきます. 『わたしが 羊飼いを 打つ. すると, 羊は 散り 散りになる. 』と 書いてありますから.
しかしわたしは, よみがえってから,あなたがたより先に,ガリラヤ へ 行きます.」 すると,ペテロがイエスに言った.「たとい全部の者がつまずいても, 私はつまずきません. 」
イエスは彼に言われた. 「まことに,あなたに告げます.あなたは, きょう, 今夜, 鷄が 二度鳴く 前に, わたしを 知らないと 三度言います. 」 ペテロは力を¿めて言い張った. 「たとい, ごいっしょに 死ななければならないとしても, 私は, あなたを 知らないなどとは 決して 申しません. 」みなの者もそう言った.
ゲツセマネ という所に來て,イエスは弟子たちに言われた. 「わたしが 祈る 間, ここにすわっていなさい.」 そして, ペテロ , ヤコブ , ヨハネ をいっしょに 連れて 行かれた. イエス は 深く 恐れもだえ 始められた.
そして彼らに言われた. 「わたしは 悲しみのあまり 死ぬほどです. ここを 離れないで, 目をさましていなさい. 」
それから,イエスは少し進んで行って,地面にひれ伏し,もしできることなら,この時が自分から過ぎ去るようにと祈り, またこう 言われた. 「アバ , 父よ. あなたにおできにならないことはありません. どうぞ, この 杯をわたしから 取りのけてください. しかし, わたしの 願うことではなく, あなたのみこころのままを, なさってください. 」
それから, イエス は 戾って 來て, 彼らの 眠っているのを 見つけ, ペテロ に 言われた. 「シモン . 眠っているのか. 一時間でも 目を 覺ましていることができなかったのか.
誘惑に 陷らないように, 目を 覺まして, 祈り 續けなさい. 心は 燃えていても, 肉體は 弱いのです. 」
イエス は 再び 離れて 行き, 前と 同じことばで 祈られた.
そして, また 戾って 來て, ご 覽になると, 彼らは 眠っていた. ひどく 眠けがさしていたのである. 彼らは, イエス にどう 言ってよいか, わからなかった.
イエス は 三度目に 來て, 彼らに 言われた. 「まだ 眠って 休んでいるのですか. もう 十分です. 時が 來ました. 見なさい. 人の 子は 罪人たちの 手に 渡されます.
立ちなさい. さあ, 行くのです. 見なさい. わたしを 裏切る 者が 近づきました. 」

今日の箇所は、ゲッセマネの祈りをされる主イエスと絶対にイエスを知らないと言わないと誓ったペテロの2つの好対照な話が出てきます。ペテロはイエスを絶対に否認しないと「言い張った」とあります。 逆に、主イエスの父なる神様への態度は非常に素直な弱さや痛みを差し出す祈りであり、だからこそ、血と汗を流す祈りとなったのです。だからこそ、神様に頼り、神様の関係を持つ祈りとなったのです。私たちは果たして神様に前に素直に自分の痛み、弱さを差し出して必死に主イエスだけに頼っているのでしょうか?

新しいぶどう酒を飲むときまでをどう生きるのか?

マルコの福音書14;27-42
弟子たちが 出かけて行って,都にはいると, まさしく イエス の 言われたとおりであった. それで, 彼らはそこで過越の食事の用意をした. 夕方になって,イエスは十二弟子といっしょにそこに 來られた. そして,みなが席に着いて,食事をしているとき,イエスは言われた. 「まことに, あなたがたに 告げます. あなたがたのうちのひとりで, わたしといっしょに 食事をしている 者が, わたしを 裏切ります. 」 弟子たちは 悲しくなって, 「まさか 私ではないでしょう. 」とかわるがわるイエスに言いだした.イエスは言われた.「この十二人の 中のひとりで, わたしといっしょに,同じ鉢に パンを浸している者です. 確かに,人の子は,自分について書いてあるとおりに, 去って 行きます. しかし,人の子を裏切るような人間はのろわれます.そういう人は生まれなかったほうがよかったのです.」 それから,みなが食事をしているとき, イエス はパンを取り,
祝福して後,これを裂き,彼らに與えて言われた. 「取りなさい. これはわたしのからだです. 」
また,杯を取り,感謝をささげて後,彼らに與えられた. 彼らはみなその 杯から 飮んだ.
イエスは彼らに言われた. 「これはわたしの契約の血です.多くの人のために流されるものです.」 まことに,あなたがたに告げます. 神の 國で 新しく 飮むその 日までは, わたしはもはや, ぶどうの實で造った物を飮むことはありません. 」
そして,贊美の歌を歌ってから,みなでオリ ― ブ山へ出かけて 行った.

私たちクリスチャンが、再び主イエスが来られるときまで、もしくは天国に呼ばれるときまで、準備すべき人生は、今日は何でしょうか?それは、友を赦す人生です。また、友で無い人を、友と呼びたくない人をゆるす人生です。裏切る人を赦す人生です。主イエスはイスカリオテのユダをそのように扱われました。生まれてこないほうが良かったといわれたイエスは彼を裁くことを主なる神様に任せられました。では、私たちも主イエスの後を追うべきでないでしょうか。でも、あの人は完全に悪いし、難しいし、と言う人がいるかもしれません。そうかもしれません、しかし、彼を赦さないことでそのことのために主イエスが十字架にかかってぼろぼろになったことを覚えるべきです。わたしがゆるさないことで、神様が子なるイエス・キリストを十字架にかけたのです。そのことを覚えるときに、どうしてゆるさないままでいていいのでしょうか?また、人を赦すことは相手のためであるように思えますが、自分のためであることを覚えるべきです。人を赦す人は相手を自由にしますし、自分を自由にするのです。主イエスは、十字架にかかる前にイスカリオテのユダを赦さないことで神様の関係や、他人の関係を壊したり、せずに自分を駄目にすることもありませんでした。そして、十字架にかかる前に賛美をされたのです。賛美の出来ない状況で賛美をされる喜びを、祝福を勝ち取ったのです。主イエスの来られる時まで、主イエスの流された契約の血潮、賛美する、人生を生きます。今日も準備する人生3という感じですね。

火曜日, 2月 17, 2009

準備する人生2

マルコの福音書14:1-17
イエス が ベタニヤ で, らい
人 シモン の 家におられたとき, 食卓についておられると, ひとりの 女が, 純粹で, 非常に 高價な ナルド 油のはいった膏のつぼを持って來て,そのつぼを割り, イエス の頭に注いだ.すると, 何人かの 者が 憤慨して 互いに 言った. 「何のために, 香油をこんなにむだにしたのか.
この香油なら, 三百 デナリ 以上に 賣れて, 貧乏な 人たちに 施しができたのに. 」そうして, その女をきびしく責めた.
すると,イエスは言われた.「そのままにしておきなさい.なぜこの人を 困らせるのですか. わたしのために,りっぱなことをしてくれたのです.
貧しい 人たちは, いつもあなたがたといっしょにいます. それで, あなたがたがしたいときは, いつでも 彼らに 良いことをしてやれます. しかし, わたしは, いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません.
この 女は, 自分にできることをしたのです. 埋葬の 用意にと, わたしのからだに, 前もって 油を 塗ってくれたのです.
まことに, あなたがたに 告げます. 世界中のどこででも,
音が 宣べ 傳えられる 所なら, この 人のした 事も 語られて, この 人の 記念となるでしょう. 」
種なし パン の 祝いの 第一日, すなわち, 過越の 小羊をほふる 日に, 弟子たちは イエス に 言った. 「過越の 食事をなさるのに, 私たちは, どこへ 行って 用意をしましょうか. 」
そこで, イエス は, 弟子のうちふたりを 送って, こう 言われた. 「都にはいりなさい. そうすれば, 水がめを 運んでいる 男に 會うから, その 人について 行きなさい.
そして, その 人がはいって 行く 家の 主人に, 『弟子たちといっしょに 過越の 食事をする, わたしの 客間はどこか, と
先生が 言っておられる. 』と 言いなさい.
するとその 主人が 自分で, 席が 整って 用意のできた 二階の
間を 見せてくれます. そこでわたしたちのために 用意をしなさい. 」
主イエスが来られるそのときまで、私が今準備すべきこと、落ち着いて計画を持って準備することがあります。また、日々準備をすることがあります。私たちの人生のゴールは地上でないことを覚えて、天国での主イエスの人生のために今日を生きるときに、毎日の人生に優先順位ができ、最高の幸福が待っています。香油をイエスのあしに注いだ女性は、まず
①イエスにどれほど愛されたのか知り、イエスを愛しました。私たちはここまでささげて(いや、ささげるという意識も無いことでしょう)イエスを心から愛しているでしょうか。思いも知識も感情です。
②日ごとに、過ぎ越しの祭り(イエスに罪赦されたものとして)礼拝をささげる人生を覚えているでしょうか。それでこそ、その日のしたことが全世界にかたられる、神様に覚えていただく人生でないでしょうか。そのような人生への優先意識や価値観の変化があるのでしょうか。
③礼拝が私の中で優先順位でしょうか
④また、主イエスのこられるときまで福音を伝える、香油の香りを放つ人生を歩んでいるでしょうか。
⑤貧しい人への愛も忘れてはいけない話です。
ここでは、形だけの心の無い、愛の無いことを違うとイエスは言われるのです。
主イエスを愛する人生を天国へと準備していきます。

準備する人生

マルコの福音書13;28-37
いちじくの 木から, たとえを 學びなさい. 枝が 柔らかになって, 葉が 出て 來ると, 夏の 近いことがわかります.
そのように, これらのことが 起こるのを 見たら, 人の 子が 戶口まで 近づいていると 知りなさい. まことに, あなたがたに 告げます. これらのことが 全部起こってしまうまでは, この 時代は過ぎ去りません. この天地は滅びます. しかし, わたしのことばは 決して 滅びることがありません.
ただし, その日,その時がいつであるかは, だれも 知りません. 天の 御使いたちも子も知りません.ただ父だけが知っておられます.
氣をつけなさい. 目をさまし, 注意していなさい. その定めの 時がいつだか, あなたがたは 知らないからです. それはちょうど,旅に立つ人が, 出がけに, しもべたちにはそれぞれ仕事を割り當てて責任を持たせ,門番には目をさましているように 言いつけるようなものです.
だから, 目をさましていなさい. 家の 主人がいつ 歸って 來るか, 夕方か, 夜中か, 鷄の 鳴くころか, 明け方か,わからないからです. 主人が不意に歸って來たとき 眠っているのを 見られないようにしなさい. わたしがあなたがたに話していることは,すべての人に言っているのです.目をさましていなさい. 」

この世は滅びると神様は言われます。しかし、神様の言葉は滅びない、と言います。天地は揺り動かされるとあります。それでも、揺るがない人生を歩むためにはどうしたらいいのでしょう。神様は再び来られ、私たちクリスチャンを集めます。そのために目を覚ましていなさい、といわれます。神様の下さったものを預けられたものをどのようにして生きたのか?問われるとあります。どうしたらいいのでしょうか?不安になって生きよと言うことではないはずです。では、どんな生き方を神様は語られているのでしょうか。先日まで滞在させていただいた牧師先生がこのようなことを言われました。
クリスチャンは、神様のみ言葉を持って人に伝えることは幸福だ。それは、まるで毎日100万円使って生きる幸福のようだ。これだけ使って、これを使った、という人間的な快楽でなく、神様の愛を使って生きるなら、毎年3億以上使ってるんだ、と話されました。本当だなと思いました。神様からいただいて恵みを次から次へと右から左に流し続ける人はそのような祝福を味わうんだなと思いました。
神様のみ言葉を100万円を使う喜びの人生を、神様の来られるときを楽しみにする人生を歩みます。恐れの無い人生を進みます。

土曜日, 2月 14, 2009

ゆれない信仰を築くために


マルコの福音書13:14-27
『荒らす 憎むべきもの 』が, 自分の 立ってはならない 所に 立っているのを 見たならば(讀者はよく 讀み 取るように. ) ユダヤにいる人々は山へ 逃げなさい.
屋上にいる 者は 降りてはいけません. 家から何かを 取り 出そうとして 中に 入ってはいけません. 畑にいる 者は 着物を 取りに 戾ってはいけません. だが,その日,悲慘なのは身重の女と乳飮み 子を 持つ 女です.
ただ, このことが 冬に 起こらないように 祈りなさい. その日は,神が天地を創造された初めから, 今に至るまで, いまだかつてなかったような,またこれからもないような 苦難の日だからです. そして, もし 主がその 日數を 少なくしてくださらないなら, ひとりとして 救われる 者はないでしょう. しかし, 主は, ご 自分で 選んだ 選びの 民のために, その 日數を 少なくしてくださったのです. そのとき, あなたがたに, 『そら, キリスト がここにいる. 』とか, 『ほら, あそこにいる. 』とか 言う 者があっても, 信じてはいけません.
にせ キリスト , にせ 預言者たちが 現われて, できれば 選民を 惑わそうとして, しるしや 不思議なことをして 見せます. だから, 氣をつけていなさい. わたしは, 何もかも 前もって 話しました.
だが, その 日には,その苦難に 續いて, 太陽は 暗くなり, 月は 光を 放たず,
星は 天から 落ち, 天の万象は ¿り 動かされます.
そのとき, 人¿は, 人の子が偉大な力と 榮光を 帶びて 雲に 乘って 來るのを 見るのです.
そのとき, 人の 子は, 御使いたちを送り, 地の果てから天の果てまで, 四方からその選びの民を 集めます.

終末の時代には、①惑わす人がいます。②また、人々は惑わされます。私たちはそのような時代にどのように生きるべきでしょうか?イエスはこう言われます。「だから気をつけなさい、わたしは何かも前もって話しました」と。私たちには、既に語られており、前もって準備するように言われているのです。それでも、気をつけなさいと言われているのです。留学生伝道をしていたときに、多くの学生たちがこういう話をしてくれました。日本って危ない宗教が多いですけど、この国に来て健康なキリスト教があるって知りました。また、ある学生はこう言いました。キリスト教って宗教って枠組みでなく、生きているクリスチャンの価値観が素晴らしいって思います。いつか、クリスチャンになると思います(ちょっと残念な部分もありますが)。私にとってまどわすものは何でしょうか?
①自分が握っているクリスチャン以前の価値観
②自分が大事に思っていて艱難の日に頼りたくなるほどのもの
③聖書を読まないことです。
④自分の信じている教理をしっかり学ばないことです
⑤自分は大丈夫と言う高慢
語っている人に気をつけないといけないし、語っている内容に気をつけないといけません。しかし、一番大事なのは神様との日ごとの交わりです。そこに生きる人に、ゆれない信仰をもてることを信じます。

目に見えるものに縛られるな!

マルコの福音書13;1-13
イエス が, 宮から 出て 行かれるとき, 弟子のひとりが イエス に 言った. 「先生. これはまあ, 何とみごとな でしょう. 何とすばらしい 建物でしょう. 」
すると, イエス は 彼に 言われた. 「この 大きな 建物を 見ているのですか.
がくずされずに, 積まれたまま 殘ることは 決してありません. 」 イエス が オリ ― ブ 山で 宮に 向かってすわっておられると, ペテロ , ヤコブ , ヨハネ , アンデレ が, ひそかに イエス に 質問した. 「お 話しください. いつ, そういうことが起こるのでしょう. また, それがみな 實現するようなときには, どんな 前兆があるのでしょう.」 そこで, イエスは彼らに話し始められた.「人に惑わされないように氣をつけなさい. わたしの名を名のる者が大ぜい 現われ, 『私こそそれだ. 』と 言って, 多くの 人を 惑わすでしょう. また, 戰爭のことや 戰爭のうわさを 聞いても, あわててはいけません. それは 必ず 起こることです. しかし, 終わりが 來たのではありません.
民族民族に, 國は 國に 敵對して 立ち 上がり, 方¿に 地震があり, ききんも 起こるはずだからです. これらのことは, 産みの 苦しみの 初めです.
だが, あなたがたは, 氣をつけていなさい. 人¿は, あなたがたを 議會に 引き 渡し, また, あなたがたは 會堂でむち 打たれ, また, わたしのゆえに, 總督や 王たちの 前に 立たされます. それは 彼らに 對してあかしをするためです.
こうして,
音がまずあらゆる 民族に 宣べ 傳えられなければなりません.
彼らに 捕えられ, 引き 渡されたとき, 何と 言おうかなどと 案じるには 及びません. ただ, そのとき 自分に 示されることを, 話しなさい. 話すのはあなたがたではなく, 聖
です.
また 兄弟は 兄弟を 死に 渡し, 父は 子を 死に 渡し, 子は 兩親に 逆らって 立ち, 彼らを 死に 至らせます.
また, わたしの 名のために, あなたがたはみなの 者に 憎まれます. しかし, 最後まで 耐え 忍ぶ 人は 救われます.

私たちの人生は、何と目に見えるもの縛られがちなのでしょう。また、何と目に見えるものに頼りがちなのでしょう。今日の聖書箇所は、「弟子が神様の宮」にいって「石や建物」を絶賛する話です。前には、イエスが商売人を追い出す宮きよめをする話でした。いったい、弟子たちは何を見ているのか?と思いがちな部分ですが、実際の私たちはどうでしょうか?私にとって頼っている石は何でしょうか?
私にとって、揺るがないと思っている部分は何でしょうか?私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じてアイデンティが変わった存在のはずです。肉的なものや目に見える部分のみならず、霊的なものがあることを知って、信じ、そこに生きるものであるはずです。そうでなければ、この世の価値観で生きるダブルスタンダードを持つクリスチャンになってしまいます。いや、それは神様の価値観にたって生きない人になることでしょう。イエスは、終末の裁きがあることを伝えます。それは、
①この偉い人(権威者)から②宗教を持つ人(内部からの攻撃)③政治的、社会的な攻撃④民族同士の攻撃、⑤地震、飢饉(自然災害)⑥家族、兄弟、父と子、子と両親(もっと信じる者から攻撃)イエス・キリストを信じるゆえに、正しい道を行くために、イエスの愛の道を歩むために、もっとも自分が信じる者から攻撃されるとあります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は、霊の眼で見るものは祝福されるとあります。私の霊の目はどうでしょうか?私は神様のものに価値観を置いているのでしょうか。
私の頼る石は何でしょうか。私には、人間関係であると思いました。それが、時に神様より先行していることが多々あると感じました。人間関係は非常に大事です。それを壊しては何も出来ません。しかし、神様より恐れるものであってはいけません。そうなら、最後まで耐え忍ぶことは出来ません。イエスこそを恐れ、希望を置いて歩んでいきます。

木曜日, 2月 12, 2009

まことのささげものは愛からくる

マルコの福音書12;35-44
今日の聖書箇所は、1:イエスが「どうしてイエスがダビデの子ですか?」と聞く話と2:律法学者の偽善とまことの献金をしたやもめの話からなっています。さて、どうしてイエスはこの質問をされたのでしょうか?人々はイエスをダビデのことすることで単なるイスラエルの子孫、素晴らしい教師、偉大な人にしようとしていました(特に律法学者たちは)。そこで、イエスが言われたことはダビデが自分の主といった聖書箇所でした。それは、旧約聖書においていまだに聖霊様の働きが大きくされていない時期に、聖霊様によってこれから来られるメシアなる主イエスを認め、信じたことを意味します。
私たちも同じです、聖霊様によらなければイエス様が私の救い主であることを認めることも、信じることもできません。自分の知恵や力で信じたのでありません。昨日神様の恵みで、日系福音教会というとろこで、イエス・キリストを信じた証をさせていただく恵みがありました。考えてみれば、イエスを信じたくても科学や歴史や人の言葉、偉大な信じれる人がクリスチャンならば信じたい、と自分の力と人間の力、世の力に頼ってイエスを信じようとした私は決して信じることができませんでした。しかし、主イエスを信じることは聖霊様の働きによってです。そうでなくては、神様の力なしに信じることはできません。そうしてこそ、主イエスを信ずることができたことを思い出しました。感謝でした。
また、この話を群集は喜んで聞いた(37節)とあります。神様のメッセージには喜びがあります。聞く人も語る人も喜びがあります。そのような喜びをさらに伝えていきます。
また、今日の箇所で律法学者の偽善と宗教という行為をもっての罪が示されます。主イエスは人一倍の裁くがあることを示されます。そして、それと逆にやもめの献金があります。一日の賃金の64分の一と言われる額の献金ですが、すべてをささげた献金でした。なぜ、それができたのでしょうか?
①人の目を気にせずに、神様の眼を恐れたから
②神様にある経済ライフをしていた。神様から人生をお金を時間を預けられた管理者として考えて生活をした
③しかし、彼女はすべてをささげたのです。そこには、人間的な計算はありませんでした。
④神様の国の価値観をもっていたのです
⑤献金は痛みがあります、しかし、チャレンジをもつなら祝福があります。
⑥大事なものをささげるときに、必ず神様は祝福を100倍にもされます
⑦一番大事なことは、神様を心から愛していたからです。
わたしにとって、チャレンジはイエス様が好きで仕方がない人を育てることに仕えたいと思うことでした。そのために、私がすべきことは何か?私がそういう人になることです。昨日、集会のあとにある牧師先生から「牧師先生あなたのミニストリーのために」と霊的に重たいささげもの、献金をいただきました(預かりました)。また、今回の旅で私を泊めていただいたご家族には、特別な神様の愛をいただきました。何もない私を愛してくださる神様の愛を感じました。愛するからこそ、ささげることができるのだと思いました。神様を愛し、ささげていきます。何もないけど、何も返せないけど、主の愛にこたえていかせてください。

神様の権威を認めると恐れが無い

マルコの福音書11:20-33
全能の神様の力を信じる人は、恐れがありません。神様を味方にしている人には不安があっても、必ず、完全な神様の力で立つことが出来ます。何故、私たちには恐れがあるのでしょうか。人の目を気にした祭司長、律法学者、長老たちは神様の権威を認めることが出来ませんでした。それは、彼らにとって大きな損でした。また、ゆるしの権威を受けることが出来ませんでした。
私にとって、今日と言う日はスピリチュアルジャーニーというべき旅程の中にいます。神様が下さる権威の下にいる人は、人の目を恐れる必要がありません。人と人の関係に許しが無い人は、赦されない人は、赦さない人は、常に何か、誰かを恐れます。しかし、イエス・キリストの名の下に赦した人には恐れがありません。また、神様の権威の下にある人は希望を持って祈ることが出来ます。
神様に山を与えてください、神様の働きの場所を示し、素晴らしい旅行にしてください、と祈りました。また、私自身の中に人目を気にしないで歩んでいるのか確認しました。神様を疑わずに、神様の権威の元に許しを求め、山を、祝福を求めます。

実を結ぶ人生とは

マルコの福音書11;11-19
実を結ぶ人生とはどんな人生でしょうか?
1:礼拝者として成功した人(霊とまことによって礼拝する)
これに最高の人生の価値観をおく人は必ず、実を結ぶ人生を送ります。 2:御言葉を実践して生きる人生です。
祭司や律法学者、パリサイ人、また宮の管理人は初めから堕落した宗教生活を送っていたのでしょうか?そういう人もいたかもしれませんが、途中で段々知らず知らずのうちに堕落した可能性が強いと思います。どうして、そうなったのでしょうか?宗教と言う名を持った罪は恐ろしいものです。 それは、まさに実の無い葉の茂っている木のようです。それは、心の無い行いと言うものです。外見だけと言うものです。私たちは何と、これに陥りやすいことは無いでしょうか。奉仕ということをもって恵みなしで奉仕します。義務感だけで奉仕します。礼拝の奉仕をしながら、喜びを失ってしまいます。サタンはささやきます。奉仕しろ、献金しろ、しかし説教の時間は眠れ!教会に一生懸命仕事をしろ、しかし、牧師とけんかしろ!と言います。実の無い人生とは、神様とつながっていない、関係の無い人生です。また、神様の家族、キリストの体とつながらない、キリストの十字架の血潮でつながらない、人間的な関係です。そこには、ゆるしもありません。
3:実の結び人生とは、キリストの十字架の血潮による愛と赦しの人生があるのです。
4:個人的な信仰だけでなく、共同体による関係を持ちます。
実の結ぶ人生を目指して歩んできます。

水曜日, 2月 11, 2009

あなたの主人は唯一か?

マルコの福音書12-28-34
今日のQTは、もっとも大切な律法です。普通、宗教の戒めならば「何々してはいけない」とか「宗教行事をせよ」など、もしくは宗教の崇拝をいつからいつまでせよ、とあります。しかし、まことの神様の命令は違います。唯一の主を愛せよなのです。つまり、よい行いも宗教的な行事も、心がないのならいけない、と言っているのです。また、この世のどこに、この宇宙に愛しなさい、という命令をする人がどこにいるでしょうか?家庭ならあるかもしれません。それは、神様の下さった家庭だからです。
私にとって、唯一の主人は誰でしょうか?主イエスです、と答えるでしょう。しかし、実際の生活でどれほど会社や人間関係、時に自分が主人なことでないでしょうか。
また、なぜ、神様が先に愛する対象で、次に隣人なのでしょうか。昨日、ある方からとても面白い話を聞きました。ビリー・グラハム伝道集会で主イエスを信じた人をケアするという奉仕をされたそうです。その時に来られたイエス様を信じられたという日本人女性と出会ったそうです。彼女が今日ビリーグラハム集会に来られたきっかけはクリスチャンである韓国人男性とのお付き合いからだったそうです。彼女が行ったくれたことは、今までの人生でお付き合いした男性はみな「愛をくれくれ」だったそうです。ところが、彼は愛をいつもくれる、注いでくれることに気がついたそうです。それは大きな違いだったそうです。神様を愛するからこそ、神様に愛をもらってこそ、人を愛することができるのです。しかも、それは唯一の主イエスをまっしぐらに愛してこそ可能なのです。今日は、その愛をもってこそ隣人を愛します。

火曜日, 2月 10, 2009

jesus hope of the nation

マルコの福音書12:18-27
今日の聖書箇所は、「復活はない」と主張していたサドカイ人が主イエスにひっかけ、難題をしかけようとする場面です。主イエスには、ひごとに宗教を信じている、ユダヤ教(旧約聖書を信じている人々)たちからの攻撃がありました。ノンクリスチャンからの攻撃があったのでなく、かえって神様を信じている人々からの悪巧みがあったのです。これを見て不思議に思うことがないでしょうか。なぜ、ノンクリスチャンでなくて、同じような近い立場にあるはずの神様を信じる人が攻撃するのか?しかも、たくらみをもってくるのか?
①神様の力も聖書(神様のみ言葉、メッセージ)を知らないからです。もしくは、自分勝手に解釈したり、自分の都合のいいときにだけ聞いたりするからです。もっと、ひどいのは聖書を利用して自分の立場を作ったり、相手を攻撃するからです。
しかし、そういう生き方には、神様の祝福も力も味わうことが機出ません。自分も相手も不幸な人生を歩んでしまうことになります。
②この世のたくらみに勝利されたイエスは、外部(クリスチャン以外の人)からだけでなく内部(神様を知っている人や宗教人たち)からのたくらみに心が腐ったり、傷ついたり、そこからずっと抜け出せずに生きることがありませんでした。
③かえって、神様のみ言葉(みこころ)で立ち上がりました。
それこそ、自分が死んで復活の主イエスが生きる人生でした。私たちは、ひごとの傷を受けることや難しいことで、だめになりやすいものです。知らず知らずのうちに、ダウンすることがあります。それは、じつは自分が死んでいないことなのです。私がそうです。しかし、復活の主イエスが私にうちに生きるときに、希望がある人生となります。世界の希望であるイエスは、十字架でしなれ、罪ののろいを打ち砕かれたのです。私の希望ですイエスの復活の人生を歩みます。神様の力を体験します。

両極端になるな!

マルコの福音書12;13-17
聖書は、本当に不思議なすごい書です。すごく現実に沿っています。生活の知恵でもあります。本当に何度読んでも新しい発見と、新しい恵みが読むたびにあります。飽きることがありません。こんな本は世の中に他にありません。神様の言葉はすごいと思います。
今朝の聖書のみ言葉は、イエスをと落とし得ようとするパリサイ人とヘロデ党の攻撃です。彼らはイエスがどちらに答えようとも、陥れる作戦を持ってきました。カイザルに税金を収めるといえば、ヘロデ党は賛成しますが、律法学者は売国やつどとし、神様の律法を守らないと言う予定でした。逆に、神様にのみといえば、ヘロデ党はローマの法律を破ると訴えることができました。私が今朝得た恵みは
①世の中の悪巧みや攻撃に私たちもあいます。そのようなときにどうするのかイエスの態度と知恵は私たちの模範です。一つに相手を攻撃することはありませんでした。傷つけることもなく対応しました。自分がまず感情的になって神様の義と恵みを失うことがありませんでした。会社での苦難、人の関係における悪巧み、時に教会の中であるかもしれません。人間関係の痛み、をサタンは利用します。カルト的な教会、指導者の攻撃もあるかもしれません。しかし、それに勝利できるモデルをイエスは私に下さったのです。ハレルヤ!
②社会の法律を守らない態度がありませんでした。私たちクリスチャンは時に両極端な人生の態度を持ちがちです。聖書的な態度をとり、世の中と一線を画します。しかし、クリスチャンは世の光であり、仕事や社会生活においても、イエスの模範とならないといけません。小さいイエス・キリストです。
③神様のみ言葉と世の中を別離して生きる態度があります。それも、違う態度です。
④神様のみと言葉に従うのが、まず第一です。神様のみ言葉と世の中の法律と合わないときには
神様に従わないといけません。
本当に難しい時代に私たちは生きています。見分けないといけません。主イエスはそういう苦難に全部に出会ってくださいました。主イエスはずるはされなかったのです。私たちのすべての苦難にあってくださる人生を33年間送ってくださったのです。遠くから指示するいやな人でなく、ともに苦難をあってくださる方です。その方によって勝利して生きていきます。

月曜日, 2月 09, 2009

CONERSTONEとされた私

マルコの福音書12:1-12
神様の国の建設は、逆説的な建設です。なぜなら、世間が選ぶ人々(宗教の専門家)でなく、世間が捨てる人や、このような人々が神様の国の建設に役立たないであろう、と思える人々を用いられるからです。本当に、人の目には不思議なことです(11節)今日のしもべのたとえは、「神様から神様のみ言葉の管理を任された人々」が主イエス、メシアが来られたのに拒否した。そして、ついにメシアであるイエスを殺す、ということのたとえをさしています。この御言葉の管理を任された人とは誰でしょうか?ノンクリスチャンをさしているたとえではありません。これは御言葉を教え、伝道し、御言葉に生きるようにしてく宗教家たち、律法学者、祭司長、長老たちをさしています。そして、神様の使わされた人々である預言者たちを受け入れなかったイスラエルの民を(クリスチャンと考えても良いでしょう)さしています。
私たちはどうでしょうか?神様のメッセージをまっすぐに聞いているでしょうか?聞こえのいいメッセージだけを聞こうとしていないでしょうか?また、ひと時神様に用いられ、神様のメッセージを聞いたからといって自分がヒーローになったり、神様の恵みより自分が先に栄光を受け、神様が来られているのに、自分がいつまでも主人公になったりしていないでしょうか?
奉仕をしていて、いつもこのような誘惑がないでしょうか?前で奉仕したり、司会や賛美リードをしたり、時に説教の奉仕をするときに、時に教会のリーダーとして奉仕して、自分の意見が通らないときに、また通そうとするときに、このような小さい律法学者は働きます。人の声を聞けないのは神様の声を聞けないのと同じことです。私たちはどこから神様に用いられる人となったのでしょうか?捨てられた石であった私をキリストのゆえに用いられているだけです。どうして、神様の声を素直に聞けなくなるのでしょうか?神様に用いられているだけなのに、自分の栄光として離さなくなるのでしょうか?
逆に、神様の栄光として歩んでいる人には自由があり、強さと確信があるのでないでしょうか?
神様のご介入のある一日を祈り、過ごします。

金曜日, 2月 06, 2009

残された時間の過ごし方

マルコの福音書11;1-10
さて, 彼らが エルサレムの近くに來て, オリ ― ブ 山のふもとの ベテパゲ と ベタニヤ に 近づいたとき,イエスはふたりの 弟子を使いに出して, 言われた.「向こうの
へ行きなさい. にはいるとすぐ, まだだれも 乘ったことのない, ろばの子が, つないであるのに 氣がつくでしょう. それをほどいて, 引いて 來なさい.もし,『なぜそんなことをするのか. 』と 言う 人があったら, 『主がお入用なのです.すぐに, またここに 送り 返されます. 』と言いなさい. 」
そこで, 出かけて見ると,表通りにある家の 戶口に, ろばの 子が 一匹つないであったので, それをほどいた.
すると,そこに立っていた何人かが言った. 「ろばの 子をほどいたりして, どうするのですか. 」 弟子たちが, イエスの言われたとおりを 話すと, 彼らは 許してくれた.
そこで, ろばの子をイエスのところへ引いて 行って, 自分たちの 上着をその上に掛けた. イエスはそれに 乘られた. すると,多くの人が,自分たちの上着を道に敷き,またほかの人¿は,木の葉を枝ごと野原から切って來て,道に敷いた. そして,前を行く者も,あとに從う者も,叫んでいた.「ホサナ .
祝福あれ.主の御名によって來られる方に祝福あれ。 いま來た,われらの父ダビデの國に。 ホサナ .いと高き所に.」
人生の最後や、残された時間を過ごすときに、どのように過ごすでしょうか?
①華麗に過ごすか? ②静かに過ごすか?どちらかでしょうか?また、会いたい友人に会ったり最善の時を過ごそうとするのでないでしょうか。主イエスはどのように過ごされたのでしょうか?
主イエスは、最後のエレサレム入城をロバの子に乗って入城されました。それは、人間が罪を犯して堕落以来することは不安から「帝国をつくる」ことでした。自分が王様になって人を支配することでした。しかし、十字架につかれる王様なる主イエスが乗られたのはロバの子でした。なんとも不思議な情景です。子供たちや、労働用のロバに乗って主イエスが来られ、仕える姿で来られたのです。それを更に、民衆たちがホザナと賛美して迎えたのです。私たちの心は、仕える主イエスの心が治めているでしょうか?そのような主イエスを賛美して迎えているでしょうか。残念なことに、多くの主イエスのために生きる人の最後が、美しく仕える主イエスの姿とかけ離れたものとなっていることを、私の見ている範囲で見たことがあります。とても、残念で胸の痛いことです。私自身そうならないように願い祈ります。民衆たちは、この数日後全く違う姿で主イエスをさばきました。このロバの子を送り出し、ロバに乗られた主イエスのように仕える姿で過ごします。

木曜日, 2月 05, 2009

ダビデの子とは誰か?

マルコの福音書10:46-52
彼らはエリコに來た. イエス が, 弟子たちや 多くの 群衆といっしょにエリコを出られると, テマイ の 子の バルテマイ という 盲人のこじきが, 道ばたにすわっていた.
ところが,ナザレのイエスだと聞くと,「ダビデの子の イエスさま. 私をあわれんでください.」と叫び始めた. そこで, 彼を 默らせようと, 大ぜいでたしなめたが, 彼はますます, 「ダビデ の 子よ. 私をあわれんでください. 」と 叫び 立てた.
すると,イエスは立ち止まって, 「あの 人を 呼んで 來なさい. 」と言われた.そこで, 彼らはその盲人を呼び,「心配しないでよい. さあ, 立ちなさい. あなたをお呼びになっている. 」と言った. すると,盲人は上着を脫ぎ捨て,すぐ立ち上がって,イエスのところに來た. そこでイエス は, さらにこう 言われた. 「わたしに 何をしてほしいのか. 」すると, 盲人は 言った.「
先生. 目が 見えるようになることです. 」
するとイエスは,彼に言われた. 「さあ, 行きなさい. あなたの
信仰があなたを 救ったのです.」すると,すぐさま彼は 見えるようになり, イエス の 行かれる 所について 行った.
今日の聖書箇所は、目の見えない方が「ダビデの子イエス様」へ叫び(しかも叫び続け、叫びたけ)、イエスに癒しをしてもらう部分です。この部分で学べる教訓は、
①「彼が目を見えず、ここで癒してもらうしかない」という切迫した思いを持って願ったこと。
私たちは、まだ自分で出来ると思ってここまで切迫した思いで祈っているでしょうか?
②「彼が答えられるまで、また周囲に止めろと言われても、叫び続けた」ことです。
私たちの祈りは果たしてここまで祈り続けているでしょうか?妨害に止められたり、いやそれは自分は止めているのでしょう。
③そして彼の願いは「ダビデの子なるイエス」と救い主を呼ぶ祈りでした。彼は信じて祈りねがったのです。→私たちの祈りは信じて祈っているでしょうか。ハ・ヨンジョ牧師が早天祈祷会の後でこう言われました。あなたの祈った祈りを信じて出て行きなさい、と。私たちは誰に祈っているのでしょうか?
全能の主なるイエスにです。聴かれない祈りはあるのでしょうか?
④上着を脱ぎ捨てて彼はイエスのところに行きました。当時の上着は目の見えない人や不自由を抱えた人は、特別な服を着ていました。それを脱ぎ捨てるのは、癒される信仰を持ったからです。
私たちは癒される確信を持って祈っているでしょうか。
⑤イエスは知っているのに、わざわざ彼に聞きました「私に何をしてほしいのか?」祈りは会話です。願いの一方的な言葉でありません。主イエスは知っていても、具体的に願い、会話するコミュニュケーションを願われます。私たちの祈りは具体的で、会話をしているのでしょうか?
⑥目の見えなかった人は癒しの後にイエスについていきました。イエスはあなたの信仰があなたをいやした、と言われました。祈りは信仰とセットです。私たちの祈りは信仰持っているのでしょうか。
主イエスに祈り、信じて、具体的に、会話をして祈っているでしょうか。
今朝は、将来の働きのために具体的に会話して祈りました。父なる神様に願う子供としてです。
祈りの力を体験して歩むます。

水曜日, 2月 04, 2009

栄光の座は丸く座る席と仕える席だ

マルコの福音書10:32-45
さて,一行は,エルサレム に 上る 途中にあった. イエス は 先頭に立って步いて行かれた. 弟子たちは 驚き, また, あとについて行く者たちは 恐れを 覺えた. すると, イエス は 再び 十二弟子をそばに呼んで,ご自分に起ころうとしていることを,話し始められた. 「さあ,これから, わたしたちは エルサレム に 向かって行きます. 人の 子は, 祭司長, 律法學者たちに引き渡されるのです. 彼らは,人の子を
死刑に定め,そして,異邦人に引き渡します.すると彼らはあざけり, つばきをかけ,むち 打ち, ついに 殺します.しかし,人の子は三日の後に,よみがえります. 」
さて,ゼベダイのふたりの子,ヤコブとヨハネが,イエスのところに來て言った. 「
先生.私たちの賴み事をかなえていただきたいと思います. 」 イエスは彼らに言われた.「何をしてほしいのですか. 」 彼らは言った.「あなたの榮光の座で, ひとりを先生の右に,ひとりを左にすわらせてください.」 しかし, イエスは彼らに言われた.「あなたがたは自分が何を求めているのか, わかっていないのです. あなたがたは,わたしの飮もうとする杯を飮み,わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか. 」
彼らは「できます.」と言った.イエスは言われた.「なるほどあなたがたは,わたしの飮む杯を 飮み,わたしの受けるべきバプテスマを受けはします.
しかし,わたしの右と左にすわることは,わたしが 許すことではありません. それに 備えられた 人¿があるのです. 」 十人の者がこのことを聞くと,ヤコブとヨハネのことで腹を立てた.
そこで,イエスは彼らを呼び寄せて,言われた.「あなたがたも知っているとおり,異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し,また,偉い人たちは彼らの上に權力をふるいます. しかし, あなたがたの間では,そうでありません. あなたがたの間で偉くなりたいと思う者はみなに仕える者になりなさい. あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は, みなのしもべになりなさい. 人の子が來たのも, 仕えられるためではなく,かえって仕えるためであり,また,多くの人のための,いのちの代價として, 自分のいのちを与えるためなのです. 」

主イエスの人生は、神様の絶対的な権威を認めた人生でした。それは神様の愛を信じ続けていた人生でした。神様が共に永遠におられることを喜んだ人生でした。何故なら、エルサレムに向かう途中に、十字架の受難と復活を宣言されながらも、先頭に立って自らその苦難へと向かわれたからです。神様が共にいることを永遠に喜び、愛され、愛していくことが無ければ、決してできない人生です。そうでないから、神様の横の座に着かせてください、と要求するヤコブとヨハネがいるわけです。
彼らは、そう願わないといけない不安感や、逆に他の人よりも優越感を持ってしまうのです。しかし、神様の愛を受けた人は仕える場所に行きます。また、高い位置のいることよりも、神様と共に丸く座って話すことを願います。まことの栄光の座とは、イエス・キリストの十字架の座であり、仕える人の場所です。また、それは今日のリビングライフの例話にあったイ・フン牧師先生の証のように、丸く座る集まりです。人と比較するのでなく(優越感でも、劣等感でもなく)低くなれることを喜べる場所が仕える場所です。それは、イエス・キリストの十字架によって死んだ人生です。今日の人生を感謝して生きます。

火曜日, 2月 03, 2009

信仰とは所有権の移転だ

マルコの福音書10;21-33
イエス は, 見回して, 弟子たちに 言われた. 「裕な 者が 神の 國にはいることは, 何とむずかしいことでしょう. 」
弟子たちは, イエス のことばに 驚いた. しかし, イエス は 重ねて, 彼らに 答えて 言われた. 「子たちよ. 神の 國にはいることは, 何とむずかしいことでしょう.
金持ちが神の國にはいるよりは,らくだが 針の 穴を 通るほうがもっとやさしい. 」 弟子たちは,ますます驚いて互いに言った. 「それでは, だれが 救われることができるのだろうか. 」 イエス は, 彼らをじっと見て言われた.「それは人にはできないことですが, 神は, そうではありません. どんなことでも, 神にはできるのです. 」
ペテロ がイエスにこう言い始めた.「ご覽ください. 私たちは, 何もかも 捨てて, あなたに 從ってまいりました. 」 イエス は言われた. 「まことに, あなたがたに 告げます. わたしのために, また
音のために,家,兄弟, 姉妹, 母, 父, 子, 畑を捨てた者で,
その百倍を受けない 者はありません.今のこの時代には,家,兄弟,姉妹,母,子,畑を迫害の中で受け,後の世では永遠のいのちを 受けます.

金持ちの人が、どうして天国に入るのが難しいのでしょうか?神様の国はいるのが難しいのでしょうか。それは、所有権が神様のものでないからです。信仰とは、所有権の移転を意味します。お金や時間や自分の人生が神様のものであり、神様に預けられたものであることを知る人は、信じる人は自由があります。しかし、所有権が神様にない人は自分のもでありながらも、実は自分でなくものの奴隷になって自由でないのです。そして、いつも不安であり、戦わないといけません。また、神様が人生の主人であることがどれほど素晴らしいのか、愛の主人であった人生の幸福を味わうことが出来ません。私たちの主人なるキリストは私に命を捨てて、永遠の命を下さった方です。その所有権の移転が出来る人は成熟したクリスチャンとなり、人に仕え、人と共にいて楽な人となります、癒す人となります。それは、完成形でなく現在進行形です。主人なるキリストに仕えていきます。

月曜日, 2月 02, 2009

全て持っていても一番大事なものが無い

マルコの福音書10;17-22
イエス が道に出て行かれると, ひとりの人が走り寄って, 御前にひざまずいて, 尋ねた. 「尊い
先生. 永遠のいのちを 自分のものとして 受けるためには, 私は 何をしたらよいでしょうか. 」 イエス は彼に言われた.「なぜ, わたしを『尊い 』と 言うのですか. 尊い 方は, 神おひとりのほかには, だれもありません. 戒めはあなたもよく 知っているはずです. 『殺してはならない. 姦淫してはならない. 盜んではならない. 僞證を立ててはならない. 欺き 取ってはならない. 父と 母を 敬え. 』」 すると, その人はイエスに言った. 「先生. 私はそのようなことをみな, 小さい 時から 守っております. 」 イエス は 彼を 見つめ, その 人をいつくしんで言われた.「あなたには,欠けたことが 一つあります. 歸って,あなたの持ち物をみな賣り拂い,貧しい人たちに與えなさい.そうすれば,あなたは天に宝を積むことになります. そのうえで,わたしについて 來なさい. 」 すると彼は, このことばに顔を曇らせ,悲しみながら立ち去った. なぜなら, この人は多くの財産を持っていたからである.
今日の聖書箇所は、非常に残念な場面が出てきます。正しい生き方をし、お金を持ち、正しい行いを持っていた人が、それでは、永遠の命を得れないことを知り、葛藤してイエスの元に来たのです。
しかし、そこで言われたことは「あなたの持ち物をみな売り、貧しいものに分け与えなさい」です。それが出来ずに、悲しみながら去っていったのです。イエスが言われたことは救いは無料で受けるものでした。ただで、値しない人に与えられる十字架のプレゼントでした。既にそうされたのイエスでした。
私にとって、お金でなくても大事にしているものは何でしょうか。私にとって誇りは、プライドは何でしょうか。また、自分が普段相手にしない人、価値の無い人は誰でしょうか。そのような方にイエスは救いを下さったのです。私のついていくロールモデルは、既にその姿勢を、生き方をなされているのです。何故、私たちは人生の価値観を変えれないのでしょうか。青年にとって、永遠の命とお金が代えれない物であったのです。私の人生の価値観を変えていきます。また、私の大事なものをささげていきます。また、この青年をイエスは「いくつしまれた」のです。魂を求める人の視線は、冷たい視線や判断でなく、愛でした。人に接するときに愛を持って生きることを覚えます。私の中に心の傷や癒されない思いがあるときに、そうできないときをも思いをもちます。主よ、私の中に神様の愛によって癒された心を日ごとに与えてください。  

日曜日, 2月 01, 2009

家庭が教会のように、教会が家庭のように

マルコの福音書10:1-16
イエス は, そこを 立って, ユダヤ 地方と ヨルダン の 向こうに 行かれた. すると, 群衆がまたみもとに 集まって 來たので, またいつものように 彼らを 敎えられた. すると, パリサイ 人たちがみもとにやって 來て, 夫が 妻を 離別することは 許されるかどうかと 質問した. イエス をためそうとしたのである. イエスは答えて言われた.「モ ― セ はあなたがたに, 何と命じていますか. 」
彼らは言った.「モ ― セ は, 離婚狀を 書いて 妻を 離別することを 許しました. 」
イエスは言われた.「モ ― セ は,あなたがたの心がかたくななので, この 命令をあなたがたに書いたのです. しかし, 創造の 初めから, 神は, 人を男と女に造られたのです.
それゆえ,人はその父と母を離れて, ふたりの 者が 一心同體になるのです. それで, もはやふたりではなく, ひとりなのです. こういうわけで,人は,神が結び合わせたものを 引き 離してはなりません.」 家に 戾った 弟子たちが,この問題についてイエスに尋ねた. そこで, イエス は 彼らに 言われた. 「だれでも, 妻を 離別して 別の 女を 妻にするなら, 前の 妻に 對して 姦淫を 犯すのです. 妻も, 夫を 離別して 別の 男にとつぐなら, 姦淫を 犯しているのです.」 さて, イエス にさわっていただこうとして, 人¿が 子どもたちを, みもとに 連れて 來た. ところが, 弟子たちは 彼らをしかった. イエス はそれをご 覽になり, 憤って, 彼らに 言われた. 「子どもたちを, わたしのところに 來させなさい. 止めてはいけません. 神の國は, このような 者たちのものです. まことに, あなたがたに 告げます. 子どものように神の國を受け入れる者でなければ,決してそこに,はいることはできません. 」

今日は、韓国人の友人の奉仕する開拓教会に説教の奉仕に行きました。そこでは、韓国の田舎での開拓の様子が見れました。今日の聖書箇所のその通りで、子供を祝福する時間がありました。 未来の神様の子供たちを祝福のは本当に良い時間でした。
そして、今日の聖書箇所で「結婚について」語られる部分がありました。結婚の司式をした先生がこのように言われました。結婚の司式をさせていただくのは、本当に光栄なことです。何故なら、一つの家庭を建てることは、一つの教会を建てるような事だからです。教会の奉仕のために、教職者は家庭を犠牲にすることがあります。しかし、まず家庭がファーストチャーチにならないといけません。また、教会が大事であることはもちろんであります。最近思ったことは、私が誰か人と出会って「自分がひとりでしゃべって、彼女に質問を振ったり、する」配慮が少ないと言うことです。するろ、人見知りの彼女が日本語が堪能にもかかわらず、出来ないように思われます。北野先生は愉快に話すけど、彼女は黙って信頼しているように感じさせるようです(信頼はしてくれていると思いますが)。家庭が教会のように、教会が家庭のようにならないといけないと思いました。まずは、話す配慮から仕えて生きたいと思いました。神様が出会わせてくださったことを忘れずに、まずは話す配慮をしていきます。