坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 2月 19, 2009

主が喜ばれる道を歩むためにとるべき方法

マルコの福音書14:43-52
立ちなさい. さあ,行くのです. 見なさい. わたしを 裏切る 者が 近づきました. 」 そしてすぐ,イエスがまだ話しておられるうちに, 十二弟子のひとりのユダが現われた. 劍や 棒を 手にした群衆もいっしょであった.群衆はみな, 祭司長, 律法學者, 長老たちから 差し 向けられたものであった. イエスを裏切る者は,彼らと前もって次のような合圖を決めておいた.「私が口づけをするのが,その人だ. その人をつかまえて, しっかりと引いて行くのだ.」 それで, 彼はやって來るとすぐに,イエスに近寄って,「
先生」と言って,口づけした. すると人々はイエスに手をかけて捕えた. そのとき, イエス のそばに 立っていたひとりが,劍を拔いて大祭司のしもべに 擊ちかかり, その 耳を 切り 落とした. イエスは彼らに向かって言われた. 「まるで 强盜にでも 向かうように, 劍や 棒を 持ってわたしを捕えに來たのですか. わたしは每日, 宮であなたがたといっしょにいて, 敎えていたのに,あなたがたは, わたしを捕えなかったのです. しかし,こうなったのは聖書のことばが實現するためです. 」 すると,みながイエスを見捨てて,逃げてしまった. ある靑年が,素はだに亞麻布を 一枚まとったままで,イエスについて行ったところ, 人¿は 彼を 捕えようとした. すると,彼は亞麻布を脫ぎ捨てて,はだかで逃げた.
いよいよ、イエスが十字架にかけられる直前の場面です。今日、ふと黙想させられたことは十字架にかかるまでの内容描写を聖書は細かく書いていると言うことでした。特に人々から裏切られ、とらえらえる部分まで、どのようにされたのか書いていることでした。剣や棒を手にした群集(責任感の無い人々、自分の名前が記されない匿名の人々)たちを使って、祭司、律法学者、長老たちによって差し向けられたものたちでした。イスカリオテのユダの裏切りの口付け、そして弟子たちの中には剣を持って立ち向かうものもおり、また全ての弟子たちが逃走するという場面がありました。今朝の黙想は
①悪を罪を犯す人は、常に隠れて責任をとらない。人を操る。
②悪に対して、悪の復讐の行動をとるのか?
③世のやり方に(世の権威やプレッシャー)に世のやり方で対するのか?
④主イエスはひとり残されても、裏切った弟子たちを裁かず、神様の御旨だけを行うことを集中された
⑤それは、いわれの無い苦しみや痛みであったが従われた
果たして、私が主イエスと共にいたのなら弟子たちと同じで逃げなかっただろうか?と思いました。逃げた気がするように思いました。今の私にとって神様に従わないことは何か考えました。それは、人間的に計算して無理だと思うこと(例えば、経済的に)に祈って、聖書を黙想して必死で求めるのか?と思いました。神様の御心を計算する前に、出来る出来ないで無く、世の方法でなく、神様に従うことを喜びとして進んで行きたいと思います。また、その心と決意を喜ばれる主イエスの前に感謝と賛美をささげます。