坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 2月 18, 2009

新しいぶどう酒を飲むときまでをどう生きるのか?

マルコの福音書14;27-42
弟子たちが 出かけて行って,都にはいると, まさしく イエス の 言われたとおりであった. それで, 彼らはそこで過越の食事の用意をした. 夕方になって,イエスは十二弟子といっしょにそこに 來られた. そして,みなが席に着いて,食事をしているとき,イエスは言われた. 「まことに, あなたがたに 告げます. あなたがたのうちのひとりで, わたしといっしょに 食事をしている 者が, わたしを 裏切ります. 」 弟子たちは 悲しくなって, 「まさか 私ではないでしょう. 」とかわるがわるイエスに言いだした.イエスは言われた.「この十二人の 中のひとりで, わたしといっしょに,同じ鉢に パンを浸している者です. 確かに,人の子は,自分について書いてあるとおりに, 去って 行きます. しかし,人の子を裏切るような人間はのろわれます.そういう人は生まれなかったほうがよかったのです.」 それから,みなが食事をしているとき, イエス はパンを取り,
祝福して後,これを裂き,彼らに與えて言われた. 「取りなさい. これはわたしのからだです. 」
また,杯を取り,感謝をささげて後,彼らに與えられた. 彼らはみなその 杯から 飮んだ.
イエスは彼らに言われた. 「これはわたしの契約の血です.多くの人のために流されるものです.」 まことに,あなたがたに告げます. 神の 國で 新しく 飮むその 日までは, わたしはもはや, ぶどうの實で造った物を飮むことはありません. 」
そして,贊美の歌を歌ってから,みなでオリ ― ブ山へ出かけて 行った.

私たちクリスチャンが、再び主イエスが来られるときまで、もしくは天国に呼ばれるときまで、準備すべき人生は、今日は何でしょうか?それは、友を赦す人生です。また、友で無い人を、友と呼びたくない人をゆるす人生です。裏切る人を赦す人生です。主イエスはイスカリオテのユダをそのように扱われました。生まれてこないほうが良かったといわれたイエスは彼を裁くことを主なる神様に任せられました。では、私たちも主イエスの後を追うべきでないでしょうか。でも、あの人は完全に悪いし、難しいし、と言う人がいるかもしれません。そうかもしれません、しかし、彼を赦さないことでそのことのために主イエスが十字架にかかってぼろぼろになったことを覚えるべきです。わたしがゆるさないことで、神様が子なるイエス・キリストを十字架にかけたのです。そのことを覚えるときに、どうしてゆるさないままでいていいのでしょうか?また、人を赦すことは相手のためであるように思えますが、自分のためであることを覚えるべきです。人を赦す人は相手を自由にしますし、自分を自由にするのです。主イエスは、十字架にかかる前にイスカリオテのユダを赦さないことで神様の関係や、他人の関係を壊したり、せずに自分を駄目にすることもありませんでした。そして、十字架にかかる前に賛美をされたのです。賛美の出来ない状況で賛美をされる喜びを、祝福を勝ち取ったのです。主イエスの来られる時まで、主イエスの流された契約の血潮、賛美する、人生を生きます。今日も準備する人生3という感じですね。