まことのささげものは愛からくる
マルコの福音書12;35-44
今日の聖書箇所は、1:イエスが「どうしてイエスがダビデの子ですか?」と聞く話と2:律法学者の偽善とまことの献金をしたやもめの話からなっています。さて、どうしてイエスはこの質問をされたのでしょうか?人々はイエスをダビデのことすることで単なるイスラエルの子孫、素晴らしい教師、偉大な人にしようとしていました(特に律法学者たちは)。そこで、イエスが言われたことはダビデが自分の主といった聖書箇所でした。それは、旧約聖書においていまだに聖霊様の働きが大きくされていない時期に、聖霊様によってこれから来られるメシアなる主イエスを認め、信じたことを意味します。
私たちも同じです、聖霊様によらなければイエス様が私の救い主であることを認めることも、信じることもできません。自分の知恵や力で信じたのでありません。昨日神様の恵みで、日系福音教会というとろこで、イエス・キリストを信じた証をさせていただく恵みがありました。考えてみれば、イエスを信じたくても科学や歴史や人の言葉、偉大な信じれる人がクリスチャンならば信じたい、と自分の力と人間の力、世の力に頼ってイエスを信じようとした私は決して信じることができませんでした。しかし、主イエスを信じることは聖霊様の働きによってです。そうでなくては、神様の力なしに信じることはできません。そうしてこそ、主イエスを信ずることができたことを思い出しました。感謝でした。
また、この話を群集は喜んで聞いた(37節)とあります。神様のメッセージには喜びがあります。聞く人も語る人も喜びがあります。そのような喜びをさらに伝えていきます。
また、今日の箇所で律法学者の偽善と宗教という行為をもっての罪が示されます。主イエスは人一倍の裁くがあることを示されます。そして、それと逆にやもめの献金があります。一日の賃金の64分の一と言われる額の献金ですが、すべてをささげた献金でした。なぜ、それができたのでしょうか?
①人の目を気にせずに、神様の眼を恐れたから
②神様にある経済ライフをしていた。神様から人生をお金を時間を預けられた管理者として考えて生活をした
③しかし、彼女はすべてをささげたのです。そこには、人間的な計算はありませんでした。
④神様の国の価値観をもっていたのです
⑤献金は痛みがあります、しかし、チャレンジをもつなら祝福があります。
⑥大事なものをささげるときに、必ず神様は祝福を100倍にもされます
⑦一番大事なことは、神様を心から愛していたからです。
わたしにとって、チャレンジはイエス様が好きで仕方がない人を育てることに仕えたいと思うことでした。そのために、私がすべきことは何か?私がそういう人になることです。昨日、集会のあとにある牧師先生から「牧師先生あなたのミニストリーのために」と霊的に重たいささげもの、献金をいただきました(預かりました)。また、今回の旅で私を泊めていただいたご家族には、特別な神様の愛をいただきました。何もない私を愛してくださる神様の愛を感じました。愛するからこそ、ささげることができるのだと思いました。神様を愛し、ささげていきます。何もないけど、何も返せないけど、主の愛にこたえていかせてください。
今日の聖書箇所は、1:イエスが「どうしてイエスがダビデの子ですか?」と聞く話と2:律法学者の偽善とまことの献金をしたやもめの話からなっています。さて、どうしてイエスはこの質問をされたのでしょうか?人々はイエスをダビデのことすることで単なるイスラエルの子孫、素晴らしい教師、偉大な人にしようとしていました(特に律法学者たちは)。そこで、イエスが言われたことはダビデが自分の主といった聖書箇所でした。それは、旧約聖書においていまだに聖霊様の働きが大きくされていない時期に、聖霊様によってこれから来られるメシアなる主イエスを認め、信じたことを意味します。
私たちも同じです、聖霊様によらなければイエス様が私の救い主であることを認めることも、信じることもできません。自分の知恵や力で信じたのでありません。昨日神様の恵みで、日系福音教会というとろこで、イエス・キリストを信じた証をさせていただく恵みがありました。考えてみれば、イエスを信じたくても科学や歴史や人の言葉、偉大な信じれる人がクリスチャンならば信じたい、と自分の力と人間の力、世の力に頼ってイエスを信じようとした私は決して信じることができませんでした。しかし、主イエスを信じることは聖霊様の働きによってです。そうでなくては、神様の力なしに信じることはできません。そうしてこそ、主イエスを信ずることができたことを思い出しました。感謝でした。
また、この話を群集は喜んで聞いた(37節)とあります。神様のメッセージには喜びがあります。聞く人も語る人も喜びがあります。そのような喜びをさらに伝えていきます。
また、今日の箇所で律法学者の偽善と宗教という行為をもっての罪が示されます。主イエスは人一倍の裁くがあることを示されます。そして、それと逆にやもめの献金があります。一日の賃金の64分の一と言われる額の献金ですが、すべてをささげた献金でした。なぜ、それができたのでしょうか?
①人の目を気にせずに、神様の眼を恐れたから
②神様にある経済ライフをしていた。神様から人生をお金を時間を預けられた管理者として考えて生活をした
③しかし、彼女はすべてをささげたのです。そこには、人間的な計算はありませんでした。
④神様の国の価値観をもっていたのです
⑤献金は痛みがあります、しかし、チャレンジをもつなら祝福があります。
⑥大事なものをささげるときに、必ず神様は祝福を100倍にもされます
⑦一番大事なことは、神様を心から愛していたからです。
わたしにとって、チャレンジはイエス様が好きで仕方がない人を育てることに仕えたいと思うことでした。そのために、私がすべきことは何か?私がそういう人になることです。昨日、集会のあとにある牧師先生から「牧師先生あなたのミニストリーのために」と霊的に重たいささげもの、献金をいただきました(預かりました)。また、今回の旅で私を泊めていただいたご家族には、特別な神様の愛をいただきました。何もない私を愛してくださる神様の愛を感じました。愛するからこそ、ささげることができるのだと思いました。神様を愛し、ささげていきます。何もないけど、何も返せないけど、主の愛にこたえていかせてください。
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