坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 2月 14, 2009

目に見えるものに縛られるな!

マルコの福音書13;1-13
イエス が, 宮から 出て 行かれるとき, 弟子のひとりが イエス に 言った. 「先生. これはまあ, 何とみごとな でしょう. 何とすばらしい 建物でしょう. 」
すると, イエス は 彼に 言われた. 「この 大きな 建物を 見ているのですか.
がくずされずに, 積まれたまま 殘ることは 決してありません. 」 イエス が オリ ― ブ 山で 宮に 向かってすわっておられると, ペテロ , ヤコブ , ヨハネ , アンデレ が, ひそかに イエス に 質問した. 「お 話しください. いつ, そういうことが起こるのでしょう. また, それがみな 實現するようなときには, どんな 前兆があるのでしょう.」 そこで, イエスは彼らに話し始められた.「人に惑わされないように氣をつけなさい. わたしの名を名のる者が大ぜい 現われ, 『私こそそれだ. 』と 言って, 多くの 人を 惑わすでしょう. また, 戰爭のことや 戰爭のうわさを 聞いても, あわててはいけません. それは 必ず 起こることです. しかし, 終わりが 來たのではありません.
民族民族に, 國は 國に 敵對して 立ち 上がり, 方¿に 地震があり, ききんも 起こるはずだからです. これらのことは, 産みの 苦しみの 初めです.
だが, あなたがたは, 氣をつけていなさい. 人¿は, あなたがたを 議會に 引き 渡し, また, あなたがたは 會堂でむち 打たれ, また, わたしのゆえに, 總督や 王たちの 前に 立たされます. それは 彼らに 對してあかしをするためです.
こうして,
音がまずあらゆる 民族に 宣べ 傳えられなければなりません.
彼らに 捕えられ, 引き 渡されたとき, 何と 言おうかなどと 案じるには 及びません. ただ, そのとき 自分に 示されることを, 話しなさい. 話すのはあなたがたではなく, 聖
です.
また 兄弟は 兄弟を 死に 渡し, 父は 子を 死に 渡し, 子は 兩親に 逆らって 立ち, 彼らを 死に 至らせます.
また, わたしの 名のために, あなたがたはみなの 者に 憎まれます. しかし, 最後まで 耐え 忍ぶ 人は 救われます.

私たちの人生は、何と目に見えるもの縛られがちなのでしょう。また、何と目に見えるものに頼りがちなのでしょう。今日の聖書箇所は、「弟子が神様の宮」にいって「石や建物」を絶賛する話です。前には、イエスが商売人を追い出す宮きよめをする話でした。いったい、弟子たちは何を見ているのか?と思いがちな部分ですが、実際の私たちはどうでしょうか?私にとって頼っている石は何でしょうか?
私にとって、揺るがないと思っている部分は何でしょうか?私たちクリスチャンは、イエス・キリストを信じてアイデンティが変わった存在のはずです。肉的なものや目に見える部分のみならず、霊的なものがあることを知って、信じ、そこに生きるものであるはずです。そうでなければ、この世の価値観で生きるダブルスタンダードを持つクリスチャンになってしまいます。いや、それは神様の価値観にたって生きない人になることでしょう。イエスは、終末の裁きがあることを伝えます。それは、
①この偉い人(権威者)から②宗教を持つ人(内部からの攻撃)③政治的、社会的な攻撃④民族同士の攻撃、⑤地震、飢饉(自然災害)⑥家族、兄弟、父と子、子と両親(もっと信じる者から攻撃)イエス・キリストを信じるゆえに、正しい道を行くために、イエスの愛の道を歩むために、もっとも自分が信じる者から攻撃されるとあります。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は、霊の眼で見るものは祝福されるとあります。私の霊の目はどうでしょうか?私は神様のものに価値観を置いているのでしょうか。
私の頼る石は何でしょうか。私には、人間関係であると思いました。それが、時に神様より先行していることが多々あると感じました。人間関係は非常に大事です。それを壊しては何も出来ません。しかし、神様より恐れるものであってはいけません。そうなら、最後まで耐え忍ぶことは出来ません。イエスこそを恐れ、希望を置いて歩んでいきます。