坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 2月 09, 2009

CONERSTONEとされた私

マルコの福音書12:1-12
神様の国の建設は、逆説的な建設です。なぜなら、世間が選ぶ人々(宗教の専門家)でなく、世間が捨てる人や、このような人々が神様の国の建設に役立たないであろう、と思える人々を用いられるからです。本当に、人の目には不思議なことです(11節)今日のしもべのたとえは、「神様から神様のみ言葉の管理を任された人々」が主イエス、メシアが来られたのに拒否した。そして、ついにメシアであるイエスを殺す、ということのたとえをさしています。この御言葉の管理を任された人とは誰でしょうか?ノンクリスチャンをさしているたとえではありません。これは御言葉を教え、伝道し、御言葉に生きるようにしてく宗教家たち、律法学者、祭司長、長老たちをさしています。そして、神様の使わされた人々である預言者たちを受け入れなかったイスラエルの民を(クリスチャンと考えても良いでしょう)さしています。
私たちはどうでしょうか?神様のメッセージをまっすぐに聞いているでしょうか?聞こえのいいメッセージだけを聞こうとしていないでしょうか?また、ひと時神様に用いられ、神様のメッセージを聞いたからといって自分がヒーローになったり、神様の恵みより自分が先に栄光を受け、神様が来られているのに、自分がいつまでも主人公になったりしていないでしょうか?
奉仕をしていて、いつもこのような誘惑がないでしょうか?前で奉仕したり、司会や賛美リードをしたり、時に説教の奉仕をするときに、時に教会のリーダーとして奉仕して、自分の意見が通らないときに、また通そうとするときに、このような小さい律法学者は働きます。人の声を聞けないのは神様の声を聞けないのと同じことです。私たちはどこから神様に用いられる人となったのでしょうか?捨てられた石であった私をキリストのゆえに用いられているだけです。どうして、神様の声を素直に聞けなくなるのでしょうか?神様に用いられているだけなのに、自分の栄光として離さなくなるのでしょうか?
逆に、神様の栄光として歩んでいる人には自由があり、強さと確信があるのでないでしょうか?
神様のご介入のある一日を祈り、過ごします。