坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 2月 23, 2009

この人に罪は見つけられない

マルコの福音書15:16-32
イエス・キリストの十字架を背負うシーンの中で、イエスは何も語られません。どれほど、つらく叫びたくなる状況で黙っておられるのです。そして、聞こえてくるのは「罵倒の声」だけなのです。彼らを滅ぶことが出来るのにされなかったイエス。その罵倒する姿は私の姿なのです。罵倒する声は、自分の罪の代わりにイエスが、罪の無い人が背負われている十字架を知らずに、もしくは罪を認めることなく生きる姿なのです。彼らはイエスに罪を見つけることが出来ずに、罵倒したことは「神殿を3日で建てる人」ということや「他人を救ったのに自分を救えない」ということでした。ユダヤ人の王であることが罪状でした。イエスが認めたことはそれだけでした。果たして、ユダヤ人の王であること、日本の王である、と言って死刑になる人がどこにいることでしょうか。イエスに罪を見つけることは出来なかったのです。イエスの最後まで罪を犯さない態度でした。また、いつでも神の全能の力を発揮できるのに、されなかったのです。イエスの義を言うことも出来るのにされなかったのです。自分の権利を捨てられた姿でした。自分は、はたして権利を主張せずに神様の救いのわざをしているのでしょうか。どれほど、黙っていることが難しいことでしょうか。今日、主イエスに出会った人々の中にクレネ人シモンがいます。彼は意図することなく、田舎から出てきたところで十字架を背負うことになりました。それは、一見不名誉なことだったかもしれません。しかし、彼は十字架を負うイエスに出会う中で、一切の弁明をされず、一切の主張をされずにいる人を見て、イエスを信じることになります。後に、ローマ人の手紙16章に出てくる祈りの人リストにアレキサンデルとルポすが出てきます。シモンは彼らの父でした。最近、悲しい事件が日本のとある教会であったことをクリスチャン新聞で読みました。残念な話で、被害者の方々への回復と事件の解決、そして悔い改めがなされることを祈ります。しかし、もっと残念なことは周りの人々の反応が問題を大きくしていることを感じます。読むのも辛い話です。私たちは、いや私は、こういう事件が起こるときにどのように対応するべきでしょうか。こういう事件は決してここにしかない事件とは思いません。きっと、他にもあるのかもしれません。私たちのとるべき態度は何でしょうか。問題を責任の無い群集や兵士のようにアナウンスして広げ、罪を罪で対応するのでなく、私のために十字架で死なれたイエスを黙想べきでないでしょうか。私が主イエスを罵倒したのに、何も言われなかったのです。死んでくださったのです。その結果、クレネ人シモンが救われ、ローマ人につながる祝福の家系が生まれました。また、私の負うべき十字架はどこにあるのでしょうか?誰を負うべきでしょうか。主イエスの十字架を、私の負うべき十字架を背負って生きます。ポートランドより。