坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 5月 31, 2007

神に仕えるとは

今, あなたがたは 主を 恐れ, 誠實と 眞實をもって 主に 仕えなさい. あなたがたの 先祖たちが 川の 向こう, および エジプト で 仕えた 神¿を 除き 去り, 主に 仕えなさい.
もしも 主に 仕えることがあなたがたの 氣に 入らないなら, 川の 向こうにいたあなたがたの
先祖たちが 仕えた 神¿でも, 今あなたがたが 住んでいる 地の エモリ 人の 神¿でも, あなたがたが 仕えようと 思うものを, どれでも, きょう 選ぶがよい. 私と 私の 家とは, 主に 仕える」(ヨシュア24;14-15)

今日の聖書箇所は、とても有名なところですよね。そのテーマは神様に仕えることです。ここで私に与えられた恵みは、自分にとっての偶像は何かでした。また、自分にとって偶像になりやすいものは何かでした。牧師ですので、偶像礼拝をすることはないでしょう。しかし、神様を愛するよりも、神様を忘れるようなことがあるならば、どうでしょうか。自分にとって音楽や映画が時にそれになることがある気がしました。神様への完全な熱情と初めの愛で愛することが失われることがあります。映画や音楽自体が悪いものでありません。しかし、それが神様より愛するならどうかと思いました。聖書を読むよりも、祈るよりも、説教のテープを聴くよりも、牧師としての献身を適当にするようなものならばどうか、と思います。それら偶像は、コントロールするもしくは捨てるべきものです。また、この日のQTは共に分かち合いをしました。それもすごく良い時間になりました。日曜日の朝にqtの学びを教会の子に指導しています。その中で学びをした子は、「誠実を持って神様に仕える」ことが心に留まったそうです。そこで、それを「うそをつかない」ことかな?と私に分かち合って話してくれました。面白いですよね。
そこで、私はこのような適用をしたらどう?というアドバイスをしてみました。それは、相手のためだと思って言う「小さなうそをつかないこと」と話してみました。どうでしょうか?皆さん。相手のためだと言って「小さな嘘」や会わない相手とも合わせる嘘をついていませんか。真実な態度で生きていますか?

また、イスラエルの民を導かれた神様は私を真実に導き続けてくれました。日本での献身のスタート、そして韓国での神学大学院での学び、オンヌリ教会での奉仕、そして日本の松山協同教会での奉仕、今のサラン教会での奉仕それを覚えるときに、自分が失敗しても捨てず導き、自分の器量よりも大きな祝福を注ぎ、あふれさせてくださいました。神に仕える人生は幸福だと告白できます。私と私の家は神様に仕えていきます。

断固として守るのか?

あなたがたは, モ ― セ の 律法の 書にしるされていることを, ことごとく 斷固として 守り 行ない, そこから 右にも 左にもそれてはならない(ヨシュア23:6)
見よ. きょう, 私は 世のすべての 人の 行く 道を 行こうとしている. あなたがたは, 心を 盡くし, 精神を 盡くして 知らなければならない. あなたがたの 神, 主が, あなたがたについて 約束したすべての 良いことが 一つもたがわなかったことを. それは, 一つもたがわず, みな, あなたがたのために 實現した(ヨシュア23:14)
今日の聖書の言葉は、素晴らしいですね。神様の言葉を「右にも左にもそれず」「断固として」守り行い、とあります。神様の言葉を、まさに真に受ける生き方です。人の言葉でなく、神様の言葉として歩む生き方です。神様の言葉は、聞いても聞かなくてもいい言葉でなく、聞くしかない選択の余地の無い言葉です。その理由は、神様の律法を守るなら大きな神様の祝福があり、何一つ悪いことをなされないからであり、全ての良いことがなされるからです。でも、それをなんと私は(私たちは)軽く忘れがちなことでしょうか。ですから、聖書は「約束した全てのことがなされたことを」よく知らないといけない、と言われます。もう一度、神様の恵みを思い出す賛美をきょうしながら生きます。

平和を造る人は神を怖れる

そして エルアザル の 子の 祭司 ピネハス は, ルベン 族, ガド 族, および マナセ 族に 言った. 「きょう, 私たちは, 主が 私たちの 中におられるということを 知った. あなたがたが 主に 對してこの 罪を 犯さなかったからである. あなたがたは, 今, イスラエル 人を, 主の 手から 救い 出したのだ. 」(ヨシュア22:30)
私たちクリスチャンは、神様と人の前に平和を造るものです。争いのあるところに平和をもたらすものです。しかし、現実に難しいのは何故でしょうか。分っていても難しいし、出来ない時に落ち込んでしまったりします。ルベン族や ガド族、およびマナセ族の誤解を理解を変えていくことは、神様の臨在と、神様の臨在の前に罪を犯すことを恐れたためでした。神様の臨在を覚えるときに、その交わりを壊すことを怖れ、罪を犯すことを恐れます。私たち(いや、私は)は人によって傷つけられる時に、その復讐心や痛みで苦しみます。しかし、それによって神様との関係も壊れるときがあります。主イエスはそのような相手のためにも、自分にも十字架にかかってくださいました。その神様の和解、平和を持って歩みたいと思います。
神様の臨在が、平和をもたらす愛であること信じます。

水曜日, 5月 30, 2007

見よ. 私は, ヨルダン 川から 日の 入るほうの 大海まで, それらの 殘っている 國¿と, すでに 私が 斷ち 滅ぼしたすべての 國¿とを, 相續地として, くじによってあなたがたの 部族に 分け 與えた. あなたがたの 神, 主ご 自身が, あなたがたの 前から 彼らを 追いやり, あなたがたの 目の 前から 追い 拂う. あなたがたは, あなたがたの 神, 主があなたがたに 告げたように, 彼らの 地を 占領しなければならない.(ヨシュア22;4-5)

神様は私たちと共に戦ってくださる神様です。しかし、だからといって自分が何もしないというわけではありません。祈ったら、出て行ってベストを尽くす時に、神様の奇跡が待っているのです。私たちには、神様の期待あふれた使命が残されています。そこに、人生の絶望は消されていきます。クリスチャンにとって、人生はつまらないことの繰り返し、したくないことだらけでなく、神様にある期待の人生なのです。今日、神様の下さる一日を期待して歩みます。

一騎当千

あなたがたのひとりだけで 千人を 追うことができる. あなたがたの 神, 主ご 自身が, あなたがたに 約束したとおり, あなたがたのために 戰われるからである.(ヨシュア16:10)
今日の聖書のみ言葉は、とても力強く、また懐かしいものでした。それは、依然にいた松山協同教会の初期の宣教師のフランシス先生の著書である「一人が千人を追う」を思い出したからでした。すごいですよね。一人が千人の魂を追った宣教師。そう考えると、私にとって、日々の教会の奉仕が難しいこともあります。時に、自分が牧師として影響力が足りないような、力の足りなさに落ち込むことがあります。伝道が難しいと感じるときがあります。奉仕の力の無さを感じます。人を恐れる自分を感じます。しかし、私の神は共に戦う神です。サタンが私を殺すことはできないけど、疲れさせたり、落ち込ませたり、します。しかし、神は宣言されます。

あなたがたの一人だけで千人を追うことができると。千人の魂を追い求める一人として生きます。

水曜日, 5月 23, 2007

信仰によるアイデンティ

私たちが 祭壇を 築いたことが, 主に 從うことをやめることであり, また, それはその 上で 全燒のいけにえや, 穀物のささげ 物をささげるためであり, あるいはまた, その 上で 和解のいけにえをささげるためであったのなら, 主ご 自身が 私たちを 責めてくださるように.
しかし, 事實, 私たちがこのことをしたのは, 次のことを 恐れたからです. 後になって, あなたがたの 子らが 私たちの 子らに 次のように 言うかもしれないと 思いました. 『あなたがたと, イスラエル の 神, 主と 何の 關係があるのか.
主は ヨルダン 川を, 私たちとあなたがた, ルベン 族, ガド 族との 間の 境界とされた. あなたがたは 主の 中に 分け 前を 持っていない. 』こうして, あなたがたの 子らが 私たちの 子らに, 主を 恐れることをやめさせるかもしれません(ヨシュア22:23-25)


今日は、3日続いての祭壇を作ってしまった事件についての弁明の箇所です。
誤解を解くためのスタートは、
①主ご自身が、私のしたことをご存知であることを証明したことです。
②人々の前に公明正大に証し出来ること
③自己利益でなくキリストこそ私の受ける相続財産であること
④キリストにある共同体を大切にすること言葉と行動
⑤純粋な動機を持つこと
です。しかし、誤解を招く行動をしたこと事態は、ほめられることではありません。彼らの祭壇を築くことへの動機は、信仰教育や神様への約束が他部族から認められないことを心配してのことです。これは、祭壇を築くことへの動機としては非常に人間的なものです。信仰をもってのアイデンテティが不足しているのです。もともとは、ヨルダン川の東に領地を得たことがスタートです。そのために心配の種が尽きないのです。イスラエルの他部族から信仰や神様の約束のことで除外されるかもしれない、自分たちの子供たちが信仰を引き継ぐのか、という心配なのです。そして、それが続いての心配と他部族のトラブルを起こしています。
どうしたらいいのでしょうか。私たちのしてしまった失敗は悔い改め、神様の正しい方向へ進むべきなのです。罪(ハマルティァ)は的外れです。神様の正しい方向へ向かうべきなのです。した罪や失敗は二度としないように(それでもするのが人間ですが)、神様のみこころを求め、従うこと、共同体への愛を持って行動することです。そんなルベン部族やガド部族、マナセ部族を愛してくださった神様は、私をも愛してくださっています。感謝と感動です。

誤解を避けるために

ルベン 族, ガド 族, マナセ の 半部族は, カナン の 地にある ヨルダン 川のほとりの 地に 來たとき, そこ, ヨルダン 川のそばに 一つの 祭壇を 築いた. それは, 大きくて, 遠くから 見える 祭壇であった.
イスラエル 人はこういううわさを 聞いた. 「ルベン 族, ガド 族, および マナセ の 半部族が, カナン の 地の 國境, ヨルダン 川のほとりの 地, イスラエル 人に 屬する 側で, 一つの 祭壇を 築いた. 」
イスラエル 人がそれを 聞いたとき, イスラエル 人の 全會衆は, シロ に 集まり, 彼らといくさをするために 上って 行こうとした.(ヨシュア22:10-12)

誤解を生じさせるに十分なことをしたルベン部族、ガド部族、マナセの半部族の話が今日も聖書箇所です。祭壇を築いた事件です(しかし、これは後の聖書の他の民族や王様がする失敗で、実際に偶像礼拝に発展することがあります)。何故、このような誤解を招くことをしたのか。大体、ヨルダン川の東側に領地を得る段階で、神様の約束の地へ入る前に無理を言い、いつでも誤解を招くに十分な環境を整えつつ歩んでしまった彼ら部族です。
今日の与えられた教訓は、人との関係において気をつけて生きるべきであり、そこに対する視点が神様に伺うということが無い点です。少なくとも、祭壇を築くのに祭司を通して伺うでもなく、ヨシュアに相談するでもなく、行ってしまった彼ら部族の根本的な原因は、ヨルダン川の東をとった段階と変わっていないのです。彼ら部族の問題は全イスラエルの問題となってしまいました。
①神様に聞く姿勢を持つべきこと
②共同体への影響を考えること
③共同体のリーダーに相談しなかったこと
④利己的な思いから行動してしまった
私の人間関係に誤解を避ける、神と人の関係を求めます。
こちらから、相手に挨拶し、話しかけます。

共同体の祝福とは

彼らに言った。「あなたがたは、主のしもべモーセがあなたがたに命じたことを、ことごとく守り、また私があなたがたに命じた全てのことについても、私の声に聞き従った」(ヨシュア22;2)

ルベン、ガド、マナセの半部族が離れていく箇所です。彼らは、約束の地に入る前にヨルダン川の東側に領地を得た部族です。モーセがしかたなく承認しながら、約束の地を占領するまでは共に戦うことを約束させました。そこで、彼ら部族はモーセの約束を守るのみならず、ヨシュアに従うことをしてきました。人は、自分のしたことに責任をとらないといけません。でも、実際にそれを守らない人がどれほど多いことでしょうか。また自分の姿はどうでしょうか。責任をとるクリスチャンの姿があるでしょうか。そこに、共同体を守る祝福と自分自身を守り、祝福することがあったのです。

自分のした決断に責任を持って歩みます。そこでの、不平不満でなく真実な神様への約束と愛を持って歩みます。

日曜日, 5月 20, 2007

神から与えられたもの

ケハテ 族のうち 殘りの レビ 人である ケハテ 諸氏族には, エフライム 部族からくじによって 次の 町¿が 與えられた.(ヨシュア21:20)
イッサカル 部族から, キシュヨン とその 放牧地, ダベラテ とその 放牧地,(21:28)主が イスラエル の 家に 約束されたすべての 良いことは, 一つもたがわず, みな 實現した.
(21:48)
昨日に続き、レビ族の住む地をイスラエルの諸部族から分け合います。リビングライフの解説にもあるように、これは部族のもつ土地の広さや、部族の人口による比率にあったものでありませんでした。 エフライムより大きな土地を持つイッサカルとは同じ町の数である4つの町を分け、ナフタリはエフライムより人口が多いのに、少ない3つの町だけを差し出しました。不公平のように見えます。
また、何故このようなことがあるのか、と思えます。平等でない、と思えます。しかし、神様の結論は48節にあるように神様のよいことは全て一つもたがわず実現したのです。
私が考えるべきことは、私たちは一人一人は同じ人間でなく、それぞれ神様の召しと賜物が違うオリジナルの人である、ということです。決して、比較の対称でないのです。人は平等にしろといいますが、同じであるほうがおかしく、自分のオリジナルあふれる人生を生きる喜びがないのです。また、それは神様はイスラエルの部族ごとに、自分にふさわしい土地を与え、その広さを別々にされ、部族ごとの特徴(賜物、得意)にふさわしい分け方をされたのです。それは、神様が見られるに一番よい分け方であり、一番よい生き方なのです。また、神様は喜んで与えることを祝福されます。与えることを喜ばない人には祝福がないのです。なぜなら、もともとは神様のものだからです。自分の人生を比較でなく、神様から与えられたものとして、感謝し、喜んでいるでしょうか。また、与えることを喜んでいるでしょうか。
非常に、自分にとって大きなチャレンジのあるQTでした。

土曜日, 5月 19, 2007

神様のものである

そのとき, レビ 人の 一族のかしらたちは, 祭司 エルアザル と ヌン の 子 ヨシュア と イスラエル 人諸部族の 一族のかしらたちのところに 來て, カナン の 地の シロ で, 彼らに 告げて 言った. 「主は, 私たちに 住むべき 町¿と, 家畜のための 放牧地とを 與えるよう,モ ― セ を 通して 命じられました. 」
それで, イスラエル人は,主の命令で,彼らの相續地から, 次の町々とその 放牧地とを レビ人に与えた。(ヨシュア21:1-3)
今日は、レビ族が私たちに住む町を下さい、というところです。ここで覚えたことは、レビ族が住む場所を下さい、ということは簡単であったのか、ということです。自分のいいたいことを言えないことが多くあるのでないか、と思います。逆に人は自分の主張だけをすることはないでしょうか。しかし、神様の御心であるなら正確に求めるべきであることを覚えました。また、このレビ族の求めに他の部族は答えたことです。それは、自分の既に得ている土地から再び持っていかれることでした。しかも、自分で選んでレビ族に与えるのでなく、「くじ」で持っていかれるとも思えるようなことです。しかし、彼らはそれをしました。それは、自分の得た土地は神様のものである信仰から来るものでした。神様に仕えるレビ族にささげたのです。これは10分の一献金や自分の持っているものを分かち合う、ささげる心を思わせます。思い出すことがありました。韓国での神学生時代に、お昼の食事の時間にお金が無くてご飯が食べれない人がいました。自分達外国人も「愛の食券」という神学大学院のスカラーシップ(現品配布)をもらったことがありました。また、日本教職者の方々で厳しく生活されていることを覚えました。
自分の持っているもので、分かち合うことは何か、自分のものは神様のものであることを覚えました。この地でのものは、私のものは神様のものであることを覚え、豊かな人生を生きます。自分にとって分かち合える霊的な祝福をもって日本の人々に仕えます。そういう分かち合いを待っている人のところへ遣わして下さい。

逃れの町

人が, これらの 町の 一つに 逃げ込む場合, その者は, その町の 門の 入口に 立ち, その 町の 長老たちに 聞こえるように, そのわけを 述べなさい. 彼らは, 自分たちの 町に 彼を 受け 入れ, 彼に 一つの 場所を 與え, 彼は, 彼らとともに 住む. たとい, 血の 復讐をする 者がその 者を 追って 來ても, 殺人者をその 手に 渡してはならない. 彼は 知らずに 隣人を 打ち 殺したのであって, 以前からその人を憎んでいたのではないからである(ヨシュア20:5-6)
逃れの町のQTです。誤って人を殺してしまった人が相手側の人々が感情で復讐しないように、神様と人の前の裁きを受けれるようにする場所です。私たちに、神様の公正な裁きが無く、人々の憎しみで裁かれるならどうでしょうか。永遠に和解も回復も無いのでないでしょうか。また、人を殺した人はたとえ故意に人を殺してので無いと分っても、自分の責任を持つことを要求されます。大祭司が死ぬまでその町にいないといけないのです。そこで、自分の町に帰ることが出来ずに、逃れの町で死んでしまった人もいるかもしれません。しかし、このような逃れの町があることが血の復讐のために、神様のあわれみの備えがあったのです。どれほど幸いなことでしょうか。
適用:神様のあわれみは私の中にあるのか。
   まず、私は神様のあわれみの中に入ったのか。
   そして、私は人へのあわれみの町を持っているのか?
神様の裁きは復讐は自分に下るのでなく、代わりにイエスに下ったこと、その愛に感謝し、
その愛を分かち合っていきます。



木曜日, 5月 17, 2007

これが, ナフタリ 部族の 諸氏族の 相續地で, その町々と, それらに 屬する ¿であった.
第七番目のくじは, ダン 部族の 諸氏族に 當たった. (ヨシュア19;38)

続いての相続の最後の箇所です。今日の恵みは、ずっと続いてくる相続の箇所に感じたことは、日常生活に繰り返されることに疲れたり、うんざりしたり、あきらめたりすることが多く、自分が信仰を持って向かうべきこと(ところ)、どこ(何)か、を忘れてしまうことでした。

サラン教会の大切な奉仕、哲学に「弟子訓練」があります。また、私の任されている奉仕に留学生伝道があります(今週は、ノンクリスチャンの人と3人に会え、伝道できました。ハレルヤ!)。その中で、疲れを覚えることもあり、日常にうんざりして大切なことを忘れてしまいそうなことがあります。繰り返されることに大切な奉仕をしていることを失ってしまうのです。
将来のために、現在すべきことを黙想しました。弟子訓練の学びを今日はすることができました。大きな恵みです。しかし、自分が意識していないと得ることが出来ないことです。明日のための学び(しかし、非常に大切で絶対に必要である)より、日常のことに追われがちです。
今日、信仰を持って向かうべきところ、事をします。
(大学生伝道、弟子訓練、ミニストリー、人のための組織作り、人との付き合い)説教
賛美。主の報いを信じます。

神様私の地境を広げてください

第二番目のくじは, シメオン , すなわち シメオン 部族の 諸氏族に 當たった. 彼らの 相續地は, ユダ 族の 相續地の 中にあった.(ヨシュア19;1)
その 境界線は, そこを 北のほう, ハナトン に 回り, その 終わりは エフタ · エル の 谷であった. (ヨシュア19:14)
今日は、シメオン族、ゼブルン族、イッサカル族の相続地に付いてのQTでした。ここでなんとシメオン族はユダ部族の仲に相続地を得ることになります。今日の黙想は、自然に彼ら部族の相続が出てきたのでなく、今いきなりこのように相続地が決まってので無く、今までに日ごとに生きてきた結果であることを覚えました。昨日まで一生懸命神と歩んできたことがあって、今日あっての相続であることを覚えました。

神様、どうか私の信仰の地境を広げてください。神様、どうか私のからの杯を満たしてください。

この韓国での生活に神様の恵みの満たしを体験させて下さい。

水曜日, 5月 16, 2007

相続地と境界線

ヨルダン川が東側の境界線となっていた. これは ベニヤミン 人の 相續地で, その 諸氏族の 周圍の 境界線によるものであった.(ヨシュア18:20)
最近のQTはいかがでしょうか。地名が続きますね。しかも、相続についての地名ながらも、リビングライフなどの参照の地図に出てこない部分なども。難しいQTのように感じますが、日ごとに新しい発見をさせてくださる神様に感謝します。また次に読む時に新たな恵みがある確信を感じ、楽しみに読んでいます。さて、今朝の与えられたKEYWORDは「相続地」と「境界線」です。イスラエルの部族ごとに相続地が分けられ、占領していきました。しかし、そこに境界線がありました。人間の共同体生活には、境界線が必要です。地上の境界線そして人間関係における境界線があります。こう書くと、境界線なんて人の壁を作るようだと感じられるかもしれないのですが、そうでなくて、相手のためにも、共同体のためにも、自分のためにも境界線は必要なものです。境界線という本では、子供が自分の過ちを人や親にしかられてやめるのでなく、自分自ら悟るようにする、という例を挙げています。自分の境界線を破られて相手の人が入ってきて、かえって相手のためにも、自分にも苦痛があることを書いています。

私もその部分が弱いことを感じます。しかし、キリストに示された幸福な共同体生活のために

境界線を持ちます。

火曜日, 5月 15, 2007

自ら開拓せよ

ヨセフ 族は 答えた. 「山地は 私どもには 十分ではありません. それに, 谷間の 地に 住んでいる カナン 人も, ベテ · シェアン とそれに 屬する 村落にいる 者も, イズレエル の 谷にいる 者もみな, 鐵の 戰車を 持っています. 」
すると ヨシュア は, ヨセフ 家の 者, エフライム と マナセ にこう 言った. 「あなたは 數の 多い 民で, 大きな 力を 持っている. あなたは, ただ 一つのくじによる 割り 當て 地だけを 持っていてはならない. 山地もあなたのものとしなければならない. それが 森であっても, 切り 開いて, その 終わる 所まで, あなたのものとしなければならない. カナン 人は 鐵の 戰車を 持っていて, 强いのだから, あなたは 彼らを 追い 拂わなければならないのだ. 」 (ヨシュア17:16-18)


そこで, ヨシュアはイスラエル人に言った. 「あなたがたの 父祖の 神, 主が, あなたがたに 與えられた 地を占領しに行くのを、 あなたがたはいつまで 延ばしているのか. (ヨシュア18:3)

昨日、今日のQTは非常にチャレンジのあふれるものでした。先週にサダリパーティという伝道の働きがあり、合計で14名のノンクリスチャンが来てくれました。非常に大きな祝福がありました。
しかし、その後の伝道アフターケアが非常に重要なことであると思っている時に、この聖書の箇所を読んだのでした。本質的でないほかの事をしているひまはない。すべきことをせよ、と言われていることを感じました。教会の奉仕にたくさんのことがありますが、神様の相続地を得る前にほかの事をしているのでなく、優先順位をもって伝道せよ、というメッセージでした。西江大学、高麗大学の新しい人を得よ、という祈りをもって電話をし、ノンクリスチャンに会いに行きました。非常によい祝福がありました。そのサダリパーティ以外の人にも会えて伝道できるという恵みがありました。このソウルを私に与えて下さい。

神は私たちを失望させない

ところが, マナセ の 子 マキル の 子 ギルアデ の 子 ヘフェル の 子 ツェロフハデ には, 娘だけで 息子がなかった. その娘たちの名は, マフラ , ノア , ホグラ , ミルカ , ティルツァ であった.彼女たちは,祭司 エルアザルと,ヌンの子ヨシュア と,族長たちとの前に進み出て, 「私たちの親類の間で私たちにも相續地を与えるように,主はモ ― セに命じられました」と言ったので,ヨシュアは主の命令で,彼女たちの父の兄弟たちの間で,彼女たちに相續地を与え た.(ヨシュア17;3-4)
今日の聖書箇所は、息子たちがいなくて娘だけで、相続に問題が起こるという内容です。クリスチャンの人はふとすると聖人らしくて、あまりに相続するとか、自分の持つべき権利を主張するのを間違っているとか考える勘違いが無いでしょうか。まるで、欲深いかのような、もしくはこういう権利を主張する時に、隠してしまうような衝動がないでしょうか。
しかし、神様に与えられたものを管理し、そのことを享受すべきことを苦手や間違った聖人意識から放棄するのではありません。神様に与えれたものを得るために、人に対して主張するのは難しいことかもしれません。しかし、神様から与えられたものを放棄するのはもっとよくないことです。彼女たちは、間違いなく弱者でした。しかし、彼女たちは祭司、ヨシュア、族長たちに(神様の前に指導者、民族のリーダー、政治的なリーダーに)当然の相続地を願い求めます。言うべき人に願い求めます。また、ヨシュアたちも主の命令として彼女たちに相続地を与えます。

適用:①神様の前に求めるべき信仰の相続地は何か?必要を訴える堂々とした信仰。
   ②弱者を忘れるようなことがないか、その人へ配慮は。
   神様は決して失望させる方でなく、私も神様への期待にこたえる人生を送りたいです。
   日ごとに教えられることがあるヨシュア記です。

土曜日, 5月 12, 2007

彼女がとつぐとき,オテニエルは彼女をそそのかして, 畑を父に求めることにした.彼女がろばから降りたので,カレブ は彼女に、「何がほしいのか.」と 尋ねた. 彼女は言った.「私に祝いの品を下さい.あなたはネゲブの地に私を送るのですから,水の泉を私に下さい.」そこで彼は、上の泉と下の泉とを彼女に与えた。(ヨシュア15:19)

随分、遅れてのQTですが、恵みを書きたいと思います。カレブが自分の娘アクサをオテニエルに与える時に、オテニエルがアクサをそそのかして畑を求めた事件です。カレブは非常に紳士的に
自分の娘に頼まれたことを了承します。ここでした黙想は、もしもカレブが土地を信仰に得た、というよりも貪欲な人であるならば、「そそのかされた」アクサに泉を与えないか、もしくは一言を言ったことでしょう。しかし、そういう記事が無いのです。カレブが謙遜な信仰の人で、自分の土地に固執したり、土地や所有物が自分の目的にかわることがなかったのです。
今日、奉仕することや出会う人のことを覚えました。カレブのような信仰の謙遜な人として接することを祈りました。その日、カレブの恵みが私にありました。その恵みが出会う人を通して与えられました。自分の目的は所有や土地でないこと、信仰の地を目指します。

私は何を残すのか?

「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人苦役に服する奴隷となった」(ヨシュア16:10)
昨日に引き続いて、追い払うことが出来ない「(昨日はユダ)エフライム」族です。何で、今日も同じことが繰り返されるのだろうか?と思いました。そこで、黙想したことは
①神の命令はカナン人を追い出すことであった。
②その理由は、カナン人の罪を追い出し、その影響を受けないため
でした。しかし、それをユダ族もエフライム族も出来ませんでした。ヨセフ、モーセからの神様の約束の地を得ることは誠実に成就されても、その祝福を受けても、450年以上かかってもなしてくださった祝福にけちをつける言葉がこれです。罪を犯す、誘惑のあることを残してしまったのです。罪の影響を受ける人から離れることができなかったのです。罪を追い出すことが出来なかったのです。先祖であるヨセフ、モーセからの祝福が今のエフライム族に実現したのに、子孫であるユダ、エフライム族たちは次の子孫に呪いを残してしまったのです。

信仰における霊的な戦いは、終わりのない戦いです。私は子孫に何を残すのか、と思いました。恵みを引き継がせるのか、と思いました。それとも、けちをつけるのか、追い払えない罪があった、となるのか?と思いました。しかし、私は終りのない、自分には無理な戦いを信仰を持って進みます。

私の征服されていない土地はどこか?

ユダ族は、エルサレムの住民エブス人を追い払うことが出来なかった。それで、エブス人はユダ族とともにエルサレムに住んでいた。今日もそうである。(ヨシュア15:63)
今日のQTは、伝道パーティがある木曜日に黙想させられることがありました。「追い払うことの出来なかったユダ族」を見ながら、私の中に神様に征服されていないところ、隠されているところ、また、信仰のなく追い出せずにいるところがないか、と思いました。
荒野まで、山地まで神様から預けられた土地の征服が難しく、進めていないところがないのか、思いました。カレブのような信仰を持っていくこと、霊的なリーダーについていく人々を考えました。今日のサダリパーティには、延世大学の人(友人を誘うのみならず)高麗大学や西江大学の人たちも来てくれました。これは、実は最近難しいといわれるチラシ配布で来てくれた人たちでした。私が「どうやってきてくれたのですか?」と高麗大学の人たちに尋ねたら、「あなたがチラシを配っていたじゃないですか」と言われてしまいました。思いもよらぬ反応にびっくりしながらも、信仰を持って伝道し、行動することを再び教えられました。漢陽大学の人も個人的に電話連絡で来てくれました。ハレルヤ!
サダリパーティ自体もすごく恵まれた集会になりました。

私の中の信仰のなかった土地を征服してくださる主イエスを賛美します。

火曜日, 5月 08, 2007

信仰の人カレブ

今, ご 覽のとおり, 主がこのことばを モ ― セ に 告げられた 時からこのかた, イスラエル が 荒野を 步いた 四十五年間, 主は 約束されたとおりに, 私を 生きながらえさせてくださいました. 今や 私は, きょうでもう 八十五になります.
しかも,モ ― セ が 私を 遣わした 日のように, 今も 壯健です. 私の 今の 力は, あの 時の 力と同樣,戰爭にも,また日常の出入りにも 耐えるのです. どうか今,主があの日に約束されたこの山地を私に與えてください.あの日,あなたが 聞いたように,そこにはアナク人がおり,
城壁のある 大きな 町¿があったのです.主が私とともにいてくだされば,主が 約束されたように, 私は彼らを追い拂うことができましょう.」それで ヨシュアは,エフネの子 カレブを祝福し、彼にヘブロンを 相續地として 與えた.(ヨシュア14:10-13)
今朝のQTはビジョンの人カレブの人生を見ることが出来ます。カレブは、45年前にモーセが偵察を送って、信仰の報告をした2人の人の一人であり、生き残りの一人です。
カレブにとって、45年はどのような年月だったでしょうか。神様の約束に従いながらも、他の民たちと一緒に荒野生活をし、いくらでもひねたり、ふてくされたり、投げ出せるような、不満を言える中でも、「あの日」約束されたことを「今」なしてくださることを信じ、待ち、歩み続けたのです。ですからこそ、信仰の人は85才の今も日常の出入り、戦争にも耐えることが出来、アナク人がいて、城壁のある町があっても、同じように信仰で見れたのです。

状況や年齢に左右されることがありませんでした。今は年老いて駄目だとも思いませんでした。こんなに待たされて、もうこの年だからといいませんでした。本当の青年でした。

私にとって大きな適用でした。自分の年齢、自分の状況でなくて、変わらず神様の約束を信じるチャレンジがありました。また、カレブを祝福するヨシュアの信仰にも非常に大きな恵みを感じました。神様の与えられた約束と任務を信仰を持って生きます。

一つ一つ与えら得た

ユダ 族の 諸氏族が, くじで 割り 當てられた 地は, エドム の 國境に至り, その 南端は, 南のほうの ツィン の 荒野であった.
その 南の 境界線は, 鹽の 海の 端, 南に 面する 入江から,(ヨシュア15:1,2)

今朝のQTはこれは何だ!と思いました。リビングライフの地図を見ながらどういう地域だろうか、と考えました。この地名の分け前地を通して、どのような恵みがあるのか思いました。
それは、これらの地名、これから取っていくべき地域が
私にとって神様から与えられた日ごとの課題、問題、チャレンジが神様から与えられたものであることでした。神様の計画の中にある一日に私を招き、そこでの私の向かうべき課題であることを感じました。何故なら、今日の大学の聖書研究を前にして出かける前に「少し難しい問題」が起こりました。伝道のパーティをするために必要な基礎的な問題のことで難しいことがありました。もう、準備のための時間も残されていない時でした。そのことのために大幅な変更をするのが難しい時期でした。私は、そのことを直接すぐに解決に迎える時間がなく、教会の事務の人に任せて、祈りながら大学にバスで向かうしかありませんでました。 バスを降りて大学に向かう途中に、その問題を代わりに解決できるかもしれない関連のお店があったので、入って伺いました。そうしたら、なんとその難しい問題の起こったところそのものでした。私も知らないで入ってのですが、びっくりしました。そこで、お店の人は前向きに考える、という話をしてくれました。祈りつつも、ひやひやしていました。
そのお店を出て聖書研究をして帰りました。帰ってから、その問題が解決されたことを知りました。一つ一つ、神様の与えてくださった課題へ向かい、祈らせてくださる神様に感謝します。

土曜日, 5月 05, 2007

信仰とはとまらないこと

ヨシュア は年を 重ねて 老人になった. 主は彼に仰せられた.「あなたは年を重ね,老人になったが,まだ占領すべき地がたくさん 殘っている.
その 殘っている 地は 次のとおりである.
レバノン から ミスレフォテ · マイム までの 山地のすべての 住民, すなわち シドン 人の 全部. わたしは 彼らを イスラエル 人の 前から 追い 拂おう. わたしが 命じたとおりに, ただあなたはその 地を イスラエル に 相續地としてくじで 分けよ.
今, あなたはこの 地を, 九つの 部族と, マナセ の 半部族とに, 相續地として 割り 當てよ。」

(ヨシュア13:1,6)

信仰とは、止まらない自転車のようなものです。自転車が止まると転ぶように、信仰は常に前進しつづけるものです。苦難にあり、後退しているように見えても、動いていないように見えても、螺旋階段のように成長し、神様の与えられる祝福を得るものです。ヨシュアは年老いて、カナンの占領地を全部取る前に、戦争の先頭に立つことからは引退しないといけませんでした。これは、どんなに残念で残った地や残った人々にゆだねることに大きな不安があったかわかりません。しかし、ここに神様のリーダーシップが見られます。人が変わっても必ず神様の御心はなること(人の力によっては絶対的なことがない)
そして、信仰によって次の人々にまだ占領していない地をくじで分けさせて、責任分担、動機付与を与えたのです。まことのリーダーは一人でするのでなくほかの人と働きを分担させ、その人に責任を持たせます。逆に、何でも自分でしたがるのは違うわけです。わたしも、このような弱さがあります。管理したり、自分がしないと怠けているような不安があります。
しかし、それではいけません。信仰を持って前進し続けること、また奉仕を分担させる、ビジョンを分かち合うリーダーとして信仰を持っていくことを祈ります。

今日の感謝と明日の挑戦

ヨシュア と イスラエル人とが ヨルダン川のこちら側,西のほうで, レバノンの谷にあるバアル · ガド から,セイルへ上って行く ハラク山までの地で打った王たちは,次のとおりである. ·· ヨシュア はこの地を イスラエルの部族に, 所有地, その割り當ての地として与えた。(ヨシュア12:7)
今日の聖書箇所は、時間的にすでにカナンでの戦いに勝利してすでに得た地とこれから得る地が混ざっていまる箇所です。すでにモーセ時代の占領した地域とこれから占領しないといけないことがでてきます。
ここからの黙想は、
①すでに神様によって与えられたことへの今日の感謝
②これから神様が与えてくださることへの信仰を持つこと
 勝利はすでに神様が下さったことを信じること
③自分にとって向かうべき課題、問題、挑戦、霊的な敵に避けずに向かうことでした。
昨日、今日まで導かれた神様への絶対的な感謝と信頼がどれほどあることででしょうか。
なんと、私は忘れやすく、これからのことは今までと違うのでは、と勝手な不安を持つことでないでしょうか。今の感謝とこれからの牧会者としての歩みに神様への信頼を持って、もう一度宣言し、告白し歩みます。

木曜日, 5月 03, 2007

長く戦った

「ヨシュアは、これらすべての王たちと長い間戦った」(ヨシュア11:18)
今朝のQTで与えられた恵みは、長く戦ったということでした。ヨシュアは振り返ってみれば、エジプトでの奴隷生活を経験し、モーセの下で長く仕え、戦争のときは戦いを導き、カナンを最初に偵察したときは「信仰を持って勝利できる」ことをカレブとともに主張しながらも、他の10人の不信仰な報告により、荒野での40年の生活をしたのでした。彼の人生はいわれのない苦しみや自分が悪くない、他人のために苦しむことも多くありました。また、長く人の下で仕える経験もしました。いつ、人格がひねくれてもおかしくない人生でした。また、いつ終わると分らない戦いを長く経験した人生でした。戦死でもありました。ヨシュアは知恵の霊に満ちていた(申命記34:9)ともあります。そういう彼にとって人生は戦いの連続であり、しかも戦いは長かったのです。私の人生にはやはりいろんな戦いがありましたし、今もあります。いったい、自分とっての荒野生活がいつ終わるのか、人との関係の戦い(葛藤を愛に、悪を善に変える)がいつもあります。しかし、今日ヨシュアが長く戦った、という箇所から神様の戦いの人生を、もしもヨシュアがひねくれたり、投げ出したり、したならば
そこでの戦いは敗北で終わっただろうと思いました。この信仰の戦いの人生を走り、神様の勝利を得ることを信じ、祈ります。

主のために奇跡を要求せよ

主が エモリ人をイスラエル人の前に渡したその日,ヨシュア は主に語り,イスラエルの見ている前で 言った.「日よ.ギブオンの上で動くな.月よ.アヤロンの谷で.」
民がその敵に復讐するまで,日は動かず,月はとどまった. これは,ヤシャル の書にしるされているではないか.こうして,日は天のまなかにとどまって,まる一日ほど出て來ることを急がなかった. 主が 人の声を聞き入れたこのような日は,先にもあとにもなかった.主がイスラエルのために戰ったからである.(ヨシュア10:12-14)

この日のQTは、非常に大きなチャレンジを感じるものでした。QTの分かち合いのこの場所に書きたかったのですが、正直プレッシャーを感じて書けずにいました。ですから、これは事後報告に近いものです。また、このような深い神様の真理を語るのに浅すぎる自分の信仰に不足を感じました。ヨシュアは、霊的な戦いの中で「神様に要求」するのです。しかもそれは、「主が人の声を聞き入れたこのような日は、先にもあとにもなかった」というのです。
主の栄光のために、イスラエルの復讐のために、悪への復讐のために、神の勝利のために
ヨシュアは、「日よ、ギブオンの上で動くな、月よアヤロンの谷で」と祈り願い、宣言するのです。神様のために、悪への復讐のために、このような大胆に奇跡を要求するヨシュアの信仰は。自分にとって(周りから見ると大したことがないかもしれませんが)、難しいと思える働きがありました。ソウルに来ている留学生に全員に福音を語れるように祈りつつ、その1ステップの一つの働きがありました。留学生に福音を語るにしても、まずは知り合いに、友人にならないと語ることができません。そのためにの一つの働き(伝道の前の働き)だったのですが、多くの大学で拒否されてきたことがありました。しかし、それが飛び込みのような形で申し込んだ大学で許可が下りたのです。しかも、ハングルを教える語学堂の先生たちが、授業でそれを広告してくださることになったのです。ありえない奇跡が起こりました。ハレルヤ!
ああ、自分はヨシュアのような信仰と勇気から遠いと思いました。神様は奇跡を起こされるのは、不可能でないのに、何故父なる神の権能を祈らないのだろうか、と思いました。
ヨシュアのように奇跡を要求する、宣言する信仰を持ちます。

水曜日, 5月 02, 2007

力の秘訣は何か?

「主がそのしもべモーセに命じられたとおりに、モーセはヨシュアに命じたが、ヨシュアはそのとおりに行い、主がモーセに命じたすべてのことばを、一言も取り除かなった」(ヨシュア11:15)
今朝は、驚くべき御言葉があります。「一言も取り除かなかった」です。主が言われたことを一言も除かなかった、というです。さらに驚くべきことは「モーセがヨシュアに主が言われたことを」というヨシュアに取って間接的な、また世代を超えての神様のみ言葉をたがえることなく、妥協することもなく、実行したのです。
今日の戦いは、北方カナン地域の連合軍とイスラエルが戦います。その北方カナン地域連合軍は海の砂のように多く、馬や戦車も非常に多かった、とあります。果たしてイスラエルの軍勢の数に対する記述はありません。記述がないのは、戦いは人数によるものでなく
①神様が下さる勝利(6、8節)
②ヨシュアをリーダーとした一つになることの力(7節)
③神様の下さることに従順に従うことの力です。
勝利の後に、イスラエルは今日も聖絶します。ヨシュアはともかく、イスラエルの民の中に果たして、聖絶することに嫌気がさしたり、残酷だと思ったり、ここの人々には少し哀れみがあってもいいのでないか、という思いがなかったのでしょうか。ヨシュアに文句や意見を言うものはなかったのかな?と思いました。しかし、戦いの勝利の秘訣は「神様のみ言葉を一言」も取り除かないことにある、ことをヨシュアはイスラエルの民は知って、信じていたわけです。
神様のリーダーシップは、神様のみ言葉に従うことから来るのです。
適用:神様の前に聖絶していない罪は何か?(一言も取り除かない)
   従順することに神様の力、リーダーシップがある。従順することに一言ものぞかない決心していきます

   



火曜日, 5月 01, 2007

決定的な瞬間に分る

こうして, ヨシュア はその 全土, すなわち 山地, ネゲブ , 低地, 傾斜地, そのすべての 王たちを 打ち, ひとりも 生き 殘る 者がないようにし, 息のあるものはみな 聖絶した. イスラエルの神,主が命じられたとおりであった.
ヨシュア は、また,カデシュ · バルネア から ガザ まで, および ゴシェン の 全土を ギブオンに至るまで打った.
ヨシュアはこれらすべての王たちとその地とをいちどきに攻め取った.イスラエルの神,主が,イスラエルのために戰われたからである. それで, ヨシュア は 全 イスラエル を 率いて, ギルガルの陣
に引き揚げた.(ヨシュア10:40~43)

今日の聖書箇所は、イスラエルがカナンの5つの主要都市を攻め取り、そのすべてを聖絶する内容でした。黙想したことは
①ヨシュアの神様の御旨への完全な従順と実行でした。一つでもたがえることなく行いました(これって非常にすごいことです)。
②聖絶を何故ここまでしたのか?
③勝利の秘訣はどこにあるのか(アイの戦い以来全く負けていないのは何故か)?
イスラエルのために神様が戦われた。神様がともにいることが理由。人のすることでないことが分ります。人のすることは勝利もあれば、負けもあり完全ではありません。
罪に対して、残さず、すべての範囲で、持続的に、どこにおいても聖絶すること
それは、神様とともに生きるために起こることでした。
罪の聖絶という問題を見る時に、非常に心の刺す難しいことを感じます。

時代は、目に見える部分を、結果を要求する時代です。単に、今朝のQTもイスラエルの勝利という目にめいる部分だけを考えるかもしれません。しかし、それは目に見えなくい神様の戸の関係があったから、与えれた勝利です。時代は目に見えにくい神様との関係をあまり人は問わないかもしれません。目に見える部分の働きに人は集中するかもしれません。
しかし、決定的な瞬間に神様との関係が実を結ぶ働きとなります。

今朝、もう一度、神様を愛する告白からはじめます

失敗はあっても

「私のところに上って來て,私を 助けてください.私たちは ギブオンを打ちましょう.ギブオンがヨシュア ,イスラエル人と和を 講じたから. 」 それで,エモリ人の五人の王たち,エルサレムの王,ヘブロンの王, ヤルムテ の 王, ラキシュ の 王,エグロンの王とその全陣は,相集まり,上って行って, ギブオン に 向かって 陣を 敷き,それを攻めて 戰った.
ギブオン の人々は,ギルガルの陣
の ヨシュア のところに使いをやって言った.「あなたのしもべどもからあなたの手を引かないで、早く,私たちのところに 上って 來て 私たちを 救い,助けてください. 山地に住むエモリ 人の王たちがみな 集まって, 私たちに 向かっているからです 」 そこで ヨシュア は,すべての戰う民と、すべての 勇士たちとを率いて、ギルガルから上って行った.主は ヨシュアに仰せられた「彼らを 恐れてはならない. わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ. 彼らのうち,ひとりとしてあなたの前に立ち向かうことのできる者はいない.」(ヨシュア10:4-8)

神様は不思議な形で、方法で神様のみわざをされます。ヨシュアはギブオンの人々が遠い外国から来た偽の方法を通して、結んでしまった契約についても誠実に守ろうとします。
ここから学ぶことは、何か。
それは、約束は何はともあれ守ること、自分のとった行動の責任をとること、です。
神様の属性は、誠実です。今日の戦いにおいても「恐れるな、わたしが彼らをあなたの手に渡したからだ」と何度も約束を守られます。何度も繰り返され、守られる神様の約束、御旨です。ヨシュアは失敗しても、神様の属性に似ようとして生きました。
これを見ながら、多くの教会のリーダーや自分自身を振り返りました。
多くのリーダーの失敗を責めること、また多くのリーダーもそこに閉じ込められていることが多くないでしょうか。自分もそこを責めることが多くあったように思います。
しかし、大事なことは失敗はあっても神様の属性に似ようとして歩むことでないかと思いました。神様の属性である誠実を持つことを生きます。