坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 5月 20, 2007

神から与えられたもの

ケハテ 族のうち 殘りの レビ 人である ケハテ 諸氏族には, エフライム 部族からくじによって 次の 町¿が 與えられた.(ヨシュア21:20)
イッサカル 部族から, キシュヨン とその 放牧地, ダベラテ とその 放牧地,(21:28)主が イスラエル の 家に 約束されたすべての 良いことは, 一つもたがわず, みな 實現した.
(21:48)
昨日に続き、レビ族の住む地をイスラエルの諸部族から分け合います。リビングライフの解説にもあるように、これは部族のもつ土地の広さや、部族の人口による比率にあったものでありませんでした。 エフライムより大きな土地を持つイッサカルとは同じ町の数である4つの町を分け、ナフタリはエフライムより人口が多いのに、少ない3つの町だけを差し出しました。不公平のように見えます。
また、何故このようなことがあるのか、と思えます。平等でない、と思えます。しかし、神様の結論は48節にあるように神様のよいことは全て一つもたがわず実現したのです。
私が考えるべきことは、私たちは一人一人は同じ人間でなく、それぞれ神様の召しと賜物が違うオリジナルの人である、ということです。決して、比較の対称でないのです。人は平等にしろといいますが、同じであるほうがおかしく、自分のオリジナルあふれる人生を生きる喜びがないのです。また、それは神様はイスラエルの部族ごとに、自分にふさわしい土地を与え、その広さを別々にされ、部族ごとの特徴(賜物、得意)にふさわしい分け方をされたのです。それは、神様が見られるに一番よい分け方であり、一番よい生き方なのです。また、神様は喜んで与えることを祝福されます。与えることを喜ばない人には祝福がないのです。なぜなら、もともとは神様のものだからです。自分の人生を比較でなく、神様から与えられたものとして、感謝し、喜んでいるでしょうか。また、与えることを喜んでいるでしょうか。
非常に、自分にとって大きなチャレンジのあるQTでした。