私は何を残すのか?
「彼らはゲゼルに住むカナン人を追い払わなかったので、カナン人はエフライムの中に住んでいた。今日もそうである。カナン人苦役に服する奴隷となった」(ヨシュア16:10)
昨日に引き続いて、追い払うことが出来ない「(昨日はユダ)エフライム」族です。何で、今日も同じことが繰り返されるのだろうか?と思いました。そこで、黙想したことは
①神の命令はカナン人を追い出すことであった。
②その理由は、カナン人の罪を追い出し、その影響を受けないため
でした。しかし、それをユダ族もエフライム族も出来ませんでした。ヨセフ、モーセからの神様の約束の地を得ることは誠実に成就されても、その祝福を受けても、450年以上かかってもなしてくださった祝福にけちをつける言葉がこれです。罪を犯す、誘惑のあることを残してしまったのです。罪の影響を受ける人から離れることができなかったのです。罪を追い出すことが出来なかったのです。先祖であるヨセフ、モーセからの祝福が今のエフライム族に実現したのに、子孫であるユダ、エフライム族たちは次の子孫に呪いを残してしまったのです。
信仰における霊的な戦いは、終わりのない戦いです。私は子孫に何を残すのか、と思いました。恵みを引き継がせるのか、と思いました。それとも、けちをつけるのか、追い払えない罪があった、となるのか?と思いました。しかし、私は終りのない、自分には無理な戦いを信仰を持って進みます。
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