平和を造る人は神を怖れる
そして エルアザル の 子の 祭司 ピネハス は, ルベン 族, ガド 族, および マナセ 族に 言った. 「きょう, 私たちは, 主が 私たちの 中におられるということを 知った. あなたがたが 主に 對してこの 罪を 犯さなかったからである. あなたがたは, 今, イスラエル 人を, 主の 手から 救い 出したのだ. 」(ヨシュア22:30)
私たちクリスチャンは、神様と人の前に平和を造るものです。争いのあるところに平和をもたらすものです。しかし、現実に難しいのは何故でしょうか。分っていても難しいし、出来ない時に落ち込んでしまったりします。ルベン族や ガド族、およびマナセ族の誤解を理解を変えていくことは、神様の臨在と、神様の臨在の前に罪を犯すことを恐れたためでした。神様の臨在を覚えるときに、その交わりを壊すことを怖れ、罪を犯すことを恐れます。私たち(いや、私は)は人によって傷つけられる時に、その復讐心や痛みで苦しみます。しかし、それによって神様との関係も壊れるときがあります。主イエスはそのような相手のためにも、自分にも十字架にかかってくださいました。その神様の和解、平和を持って歩みたいと思います。
神様の臨在が、平和をもたらす愛であること信じます。
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