坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 11月 27, 2008

キリストのV-DAYまで復活を宣言せよ

第一コリント15:20-28
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められています。
私たちの人生は、どれほどキリストの復活にDRIVEされて生きているのでしょうか。どれほど、キリストの命と御霊の原理に支配されているんでしょうか。そうでなければ、死の原理に支配されることになります。私たちはイエス・キリストの復活によって、復活の命をいただいて歩んでいます。しかし、イエス・キリストがこの世に再臨され、すべてのものを支配される日はまだ来ていません。けれども、いのちの勝利はすでに与えられているものなのです。勝利は決まっているんで、その日まで待つものなのです。しかし、単に待っているのでなく勝利を宣言しながら、イエスの復活の体に行きながら歩むものなのです。決して、サタンの攻撃に負けているものでなく、非真理である弱い私に支配されるのでもなく、そこにとどまること自体が、サタンの策略にはまっているのですが。復活の体にあって勝利とイエスの真理を宣言しながら生きないといけません。そうでないと喜びの人生をみすす損して歩むことになります。否定的な考えにとらわれていきることになりかねません。

自由を与えてくださった神様に賛美しながら、復活の命を感謝しながら歩み日々をもって生きたいと思います。ソウルにいる留学生に、キリストを知らない人々に復活のキリストを宣言しながら歩んでいきます。

復活は私の人生をどうかえるのか?

第一コリント15:1-11
私たちクリスチャンの信仰は、キリストの十字架により罪ゆるされ、キリストの復活により確証された人生を歩みます。そして、今の私の人生をDRIVEするのはキリストの復活です。私の古い罪の人生から、非真理に縛られたお前は駄目だと言う人生から、使命の無い、目的の無い、消えていく喜びの人生から、神様に与えられた使命を喜ぶ人生を歩んで生きたいと思います。

今日、弟子訓練の体験学校の中で復活を学びしました。その中で一人の人がキリストの命を生きることに感謝したいと言っていました。朝目覚めるときに、神様が使命があるから私の人生を上してくれていることに感謝しようと話していくれていました。復活は私の人生DRIVEしていきます。感謝と喜びと復活の命の原理にあって生きていきます

水曜日, 11月 26, 2008

素晴らしい賜物をコントロールするには

第一コリント14:13-25
異言で祈ることの賜物が多くの人々に与えられたコリント教会には、異言で祈るために混乱がありました。横から見ると馬鹿らしく思えることですが、コリント教会には自分が異言で祈ることの霊性の高さを自慢したり、出来ないことを卑下したり、という問題がありました。もしかしたら、他の教会にもこのような賜物があったのかもしれないと思うのですが、このような問題に陥らなかったのかもしれません。考えると、コリント教会に感謝しないといけないかもしれません。このようにはっきりと私たちに語られるわけです。ものごとに対しては大人になりなさい、と。私たちクリスチャンのスタンダードは「ゼ自分が優先でなく他人の有益になるために行動せよ」と言われているのです。どれほど、これを実践しているのでしょうか。どれほど、深刻に受け止めているのでしょうか。人の徳を高めることを神様に会って自分の人生のスタンダートとしていきます。そうでないと、いかに素晴らしい賜物も害にしかならないからです。教会と言う共同体を壊すだけにしかならないからです。私の賜物をコントロールする神様にある知性、心を神様にある優先順位を持って歩みます。

お互いがどうしても必要なのか?

第一コリント12:17
日本にある、もしくは韓国に住む私にとってこの時代は、感謝を忘れた時代です。特に生活の難しさや明日のパンが無い、というようなことを直面することが難しくなっています。そして、日常の生活に満たされていることに感謝を忘れているのです。教会の中でもそうでないでしょうか。違う賜物を持った人や自分の信仰と違う色を持っている人を見て、批判したり、非難したりします。しかし、聖書の語る主の体なる教会はお互いが違っても、大事に見えない部分こそが、どれほど大事なのか語っています。私の教会には、賛美のパワーポイントのチームと音響担当がいます。実はここが崩れると大変な奉仕であるにもかかわらず、多くの人は誰がしているのかさえも知りません。前にいる賛美チームは知っていても後ろのチームは知らないことが多いのです。私も同じです。自分に与えられた賜物を感謝しているのか、逆に他人に与えられた賜物や奉仕に嫉妬したり、コンプレックスに落ちっていないでしょうか。自分が無くてはならない教会の奉仕者であり、神様に与えられた賜物を認めるなら、
他人もいてもいなくても言い出なく、いなくなったら困る存在であるのです。感謝をしているのでしょうか。自分が神様によって生かされていることや、その使命に。また、他人に与えられた使命や賜物を認め、感謝しいているのでしょうか。もう一度、あなたはわたしはなくてはならない存在として感謝します。

惑わされない人生を歩め

第一コリント12:1-11
御霊の働きは主イエスを神と告白すること、そして十字架により私の罪は赦された、と信じ歩めるようにされます。クリスチャンとして新しく生まれ変われるようにしてくださいました。そこで、更に言われることが御霊の働きは多種多様であると言うことです。しかし、それで根無し草のようにあちにふらっとまた、こちらにふらっといくのでもなく、一つにしてくださるのです。神様の働きは多種多様であっても、一つの目的に向かって主イエスの教会を建てるように導かれるのです。私たちは、非真理に惑われる人でもなく、世の中に蔓延している成功主義や価値観に揺らされるものでなく、キリストにある真理に立って生きるものです。命と御霊の原理によって歩むものです。
日ごとの人間関係や、難しい状況は私の人生を惑わすものです。また、急に変化はしなくても、じりじりと私たちの歩みを真理からずらそうとしています。また、それぞれ違う賜物による人との比較意識は、私たちを高慢か、劣等感におとしめます。今日この日、主イエスの真理を「神様に愛されて尊い人生を」歩んでいることを宣言しながら歩みます。

愛が無いなら

Ⅰコリント13;1-13
頭じゃわかっていても、瞬間瞬間の反応や、実際の生活で反応しにくいのは愛でないでしょうか。
いくら聖書は、才能や知識や能力があっても、愛が無いなら意味が無いと言います。最終的には、完全な信仰さえも、愛が無ければ意味が無いと言います。私たちには、世の中の価値観が頭にこびりついて、信仰でものを見ることができません。人を才能で判断してしまいます。しかし、聖書の判断基準は愛であると言います。クリスチャンの判断基準は愛で無いといけないのです。しかしここで、疑問が起こります。信仰までも愛が無いなら意味が無いとは難しいことに感じないでしょうか。
信仰までもそうなのか?と思います。しかし、すべての能力や実力を運ぶ土台はその人に愛があるのか無いのかなのです?神様のご性質は愛です。神様の本質は愛です。
収税人のザアカイを変えたのは、知恵のある指摘でないのです。神様の愛なのです。
友となられたイエスの愛から自分から悔い改めが起こりました。
今日、私の一番近くにいる母に愛を持っていきます。起こらないように、指摘しないようにします。

水曜日, 11月 19, 2008

自分の生活の優先順位は

Iコリント10:23-33
クリスチャンにとって全てのことはしていいことです。しかし、私たちクリスチャンはあれはしていい、これはだめと基準をすでに持っていないででしょうか。また、教会に関することは聖く、世のことは別のように考えていることはないでしょうか。それでは、実はダブルスタンダードをもっていることです。また、エデンの園で始まった蛇の誘惑に今も毒される可能性があります。神様を信じることは「不自由なんだよ」と。そうでないのです、神様はすべてのことをしていい、楽しめといわれたのです。その基準を神様が下さったことを心からの幸福のために下さったことを受け取るのかどうかが問題なのです。
私たちの生活基準は、愛であるのかどうかです。神様のために、そして人をつまずかせないための行動基準は愛です。それも、神様にいただいた愛です。その愛なら犠牲が喜びです、犠牲とも考えません。そして、日常生活の霊的スケジュールを組むことを負担でなく、喜びの生活をしたくて生きています。喜びを持って神様のために、人のために今日を一日歩みます。

自分の霊的健康を守れ

Iコリント9:19-27
強い真理の上に立つ人は強さを持っています。自由を持ちます。それは、弱い人のために弱い人にもなれますし、また強いひとして歩むこともできます。奴隷のために、奴隷になれるし、豊かな人のために仕えることができます。神様のために、神様の愛する人のためにユダヤ人にも異邦人にもなれます。
そのための目標を持つ人は、普段の霊的な生活をセルフコントロールします。それは、いやいやの行動でなくて、心からの愛に満たされての行動となります。スポーツ選手は自分のすべきこと、してはいけないことをわきまえます。その普段の生活が競技の1瞬に表されて賞を受けることができるのです。同じようにクリスチャンは、神様の下さったゴールを目指して霊的な普段の生活をたてないといけません。
最近、私の生活は年末の忙しさと来年以降の働きに向けて、非常に落ち着かない生活をしています。睡眠不足でもあります。もう一度、霊的な生活を立て直していきます。

権利を守るとは?

1コリント9:1-12
今日の聖書箇所では、使徒パウロは自分が持っている権利を主張することを話しています。これは、意外と難しい話でないでしょうか。私も苦手なほうです。しかし、聖書は与えられた権利を持つことそして、責任を持つことを主張しています。また、それを信仰の成長してきた人に教えないことは「まことの仕える、使える姿勢」ではないのです。私は多くのこの部分で難しさを覚えています。キリストの福音のために耐えたパウロですが、本来の人としての道、本来のクリスチャンであるならばなおさら守るべき
「仕える人へのサポート」を語ります。若い人にも、大人の方にも権利を守ること、それは自分のためもでもあり、相手のためでもあることを教えていきます。

火曜日, 11月 18, 2008

クリスチャンの影響力とは

第一コリント人への手紙7:14
クリスチャンの影響力とは
今日は、ノンクリスチャンの夫とクリスチャンの妻にいての話です。クリスチャンである妻によってノンクリスチャンの夫が
聖められるという話です。クリスチャンは自分が弱いにように思えます。また、世の中とくれべてかっこ悪いようなイメージさえもあるかもしれません。また、夫よりも妻が強いように思えないかもしれません。
しかし、あなたはすでにイエス・キリストの十字架の血によって聖いものであると神様はいわれます。
決して、逆ではないのです。何故でしょうか?自分は弱いけど、クリスチャンである自分は誰でしょうか。
神様の子供です。すでに十字架で勝利した神様の御曹司です。私のアイデンティは世に勝ったものなのです。
私はそのような影響力を持っていることを信じているでしょうか。それとも、現状から判断しているのでしょうか。
現状で負けていることに挫折すること自体が、サタンの策略にはまっていることなのです。実は、サタンは私を挫折に陥れることの材料は提供しますが、それを決定するのは私です。いつも、私は負けている。だめだと思わせるのがサタンの策略なのです。
そこにとどまって、落ち込んでいることがサタンに負けていることなのです。
神様に会って強く、既に勝利しているイエス・キリストに会ってたちが上がる一日を過ごします。

水曜日, 11月 12, 2008

この世に生きながらも純粋なパン

Ⅰコリント5章1-13
あなたがたの 間に 不品行があるということが 言われています. しかもそれは, 異邦人の 中にもないほどの 不品行で, 父の 妻を 妻にしている 者がいるとのことです.
それなのに, あなたがたは 誇り 高ぶっています. そればかりか, そのような 行ないをしている 者をあなたがたの 中から 取り 除こうとして 悲しむこともなかったのです.
私のほうでは, からだはそこにいなくても 心はそこにおり, 現にそこにいるのと 同じように, そのような 行ないをした 者を 主 イエス の 御名によってすでにさばきました. あなたがたが 集まったときに, 私も,
においてともにおり, 私たちの 主 イエス の 權能をもって, あなたがたの 高慢は, よくないことです. あなたがたは, ほんのわずかのパン種が,粉のかたまり全體をふくらませることを 知らないのですか. 新しい粉のかたまりのままでいるために,古いパン種を取り除きなさい. あなたがたはパン種のないものだからです. 私たちの過越の小羊キリストが, すでにほふられたからです.
ですから,私たちは, 古いパン種を用いたり,惡意と不正のパン種を 用いたりしないで, パン 種のはいらない,純粹で眞實なパンで,祭りをしようではありませんか.
私は 前にあなたがたに 送った 手紙で, 不品行な 者たちと 交際しないようにと 書きました.
それは, 世の中の不品行な者, ·欲な者,略奪する者, 偶像を禮拜する者と全然交際しないようにという 意味ではありません. もしそうだとしたら,この世界から出て行かなければならないでしょう.

コリント教会に置いて、 性的な純潔は深刻な問題であると感じられていませんでした。使徒パウロはこれに厳しく語り、裁いています。他のことには愛を持っているパウロが厳しく裁いたのです。これは、現在のわたしたちには非常に心迫る話で無いでしょうか。また、自分はこれくらいたいしたことが無いと思うようなことさえも、神様は嫌われます。また、共同体への大きな影響となってしまいます。

この世の中にいると、性的な、霊的な聖さをもつことは難しいと思われます。また、それくらいしょうがいないと思います、他のあの人よりはわたしはましだ、もしくは他の人をスケープゴートにすることで納得してしまいます。しかし、聖書は言います。あなたのパン種から汚れたものを除け!と。これは、すごく厳しく怖いように感じます。しかし、それは神様の愛のメッセージなのです。そのままでは、あなたは駄目になってしまうよ、というメッセージなのです。腐ってしまうと。これを言ってくれないほうが愛がないのであります。

わたしたちにこの世にいながら、純粋で真実なパンである過ぎ越しのイエス・キリストになれと言われるのです。世の中にいながらも、影響を受けるのでなく、聖い影響力を与える人になりなさいといわれるのです。留学生のミニストリーをしていると普段牧師職をしていると体験しない場所に遭遇することがあります。留学生の誕生日会に行ったら、当然のようにみなはお酒を飲んでいました。わたしは牧師ですので、はっきり言いますからお酒を飲むことはありません。しかし、本当に久しぶりにこういう場所に遭遇したなあと思うと『何か自分が現役で無いような気がして笑えて来ました』そういう場所でも聖いクリスチャンとしての勝利を伝える人にならせてください。性的にきよめてください、という祈りをしました、感染力の強いクリスチャンになっていきます。

キリストの心を持つ人

Ⅱコリント2:6-16
しかし 私たちは, 成人の間で,知惠を語ります.この知惠は, この世の知惠でもなく,この世の過ぎ去って行く支配者たちの知惠でもありません. 私たちの語るのは, 隱された 奧義としての 神の 知惠であって, それは, 神が, 私たちの 榮光のために、世界の始まる前から, あらかじめ定められたものです.

いったい,「だれが 主のみこころを 知り, 主を 導くことができたか. 」ところが, 私たちには, キリストの心があるのです.
神様のわたしたちのために供えてくださるものは、奥義です。人間の思いかけないものであり、ありふれたものでなく、想像できないものです。それは、AMAZINGであり、WONDERFULLなものです。世界の始まる前から、あらかじめ定められた奥義としてイエス・キリストはわたしたちの罪の代わりとなってきてくださいました。それを、御霊によって悟ることが出来ました。そして何よりも大きなことは、わたしたちの中にキリストの心を持って生きることが出来るのです。この事実を現実を真理を真剣に持って生きているのでしょうか。そう考えるなら、非常に大きなことでないでしょうか。
世界に、ビジネスマンがスーツを着てキリストの心をもった人がいるのです。社会にどれほどのインパクトがあることでしょうか。今日この日、キリストの心を持って留学生の働きをします。

月曜日, 11月 10, 2008

神様の秘密を知る男

コリント2:1-5
何故なら、わたしはあなたがたの間ではイエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかには、何も知らないことにしたからです
使徒パウロは優れた人であったはずです。学問や律法において専門家であり、リーダーでありました。また、生まれつきのローマ市民権を持っていた人でありました。しかし、彼の神様への働き、福音伝道は優れた人間の力、または彼の力に頼っているものではありませんでした。彼は神様の国の奥義を知っていたのです。それは、人間が弱く力や知恵の無いところにこそ、キリストの十字架の力が働くことを知っていたのです。福音を伝えることが、御霊と神の力のあらわれであることを知って体験していたからです。わたしたちは、なんと自分の力や知恵に頼ることが多いことでしょう。口では神様に委ねますと言いつつも、実際は人間の力に頼っていることがほとんどでないでしょうか。福音の力は、神様のためにわたしが働くことをやめて、神様とともに働くことをすることに始まります。神様は会社の社長でわたしは従業員でないのです。十字架につけられたきリスト以外に何も知らないことに下とは、なんと力強く、また自由を感じる言葉でしょうか。人は知識で自分を武装しようとします。しかし、そんな必要は無いのです。最強の神様がともにおられるのです。その神様とともに留学生伝道の働きを今日もしていきます。

何故、わたしたちは誇るのか?

Ⅰコリント26_31
兄弟たち,あなたがたの召しのことを 考えてごらんなさい.この世の知者は多くはなく,權力者も多くはなく,身分の高い者も多くはありません. しかし 神は、知惠ある者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び,强い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選ばれたのです.
また,この世の取るに足りない者や見下されている者を,神は選ばれました.すなわち,有るものをない者のようにするため,無に等しいものを選ばれたのです.
これは,神の御前でだれをも誇らせないためです. しかしあなたがたは,神によってキリスト · イエスのうちにあるのです.キリストは,私たちにとって,神の知惠となり,また,義と聖めと,購いとになられました. まさしく,「誇る者は主にあって誇れ.」と書かれているとおりになるためです

何故、わたしたちは何か自分が何かやったように思うのでしょうか。そのように錯覚したところから、人生は自分のものだ、自分のポジションを自分が得たように、思うところから苦しみが始まるのです。信仰とは所有権の移行することです。自分の人生から神様に与えら得た人生となることに本当の祝福があるのです。人生の主人が、本当に素晴らしい主イエスであることを信じるときに、安心が始まるのです。多くの人が悪い主人に出会ったことから傷があり、主人や自分の王であることに大きな負担感を感じます。しかし、わたしの主人は最高のイエスであることを知ることに本当の回復があります。そして、世の悪い主人の下でも強く正しく生きる力が与えられるのです。
今日も、わたしの主人であるイエスを誇る人生を生きます。

比較するな、比較させるための行動もするな

Ⅰコリント26-31
さて,兄弟たち.私は,私たちの主イエス · キリストの御名によって,あなたがたにお願いします.どうか,みなが一致して,仲間割れすることなく, 同じ 心, 同じ 判斷を 完全に 保ってください.それは,あなたがたが私の名によってバプテスマ を 受けたと 言われないようにするためでした. 私はステパナの家族にもバプテスマを授けましたが,そのほかはだれにも授けた覺えはありません. キリストが私をお遣わしになったのは,バプテスマを授けさせるためではなく,音を宣べ傳えさせるためです.それも,キリストの十字架がむなしくならないために,ことばの知惠によってはならないのです.
●同じ心、同じ判断を 完全にもつとは、非常に高い水準のことを要求されています。使徒パウロはそのために、彼が分裂しないように『バプテスマ』をわざわざ他の人に授けたと比較や競争させないためにしなかったのです。そして、使徒パウロは自分のすべきことに集中していました。それは福音を伝えることでした。あるクリスチャンの人がとある教会の中で分裂があることを見ながらも、分裂や牧師を批判する人は何故いるのか?という話をした時に、こういう話をしました。『暇な人なんですね』これが、嫌な皮肉をいっているというよりは、事実でないかと思ったことがありました。
わたしの生きる人生はすべきことだらけです。すべきことでも、忙しいのに教会の批判をして時間を使うよりも、とりなしの祈りをするべき時間だけでも足りないのでないでしょうか。
わたしたちは福音を伝えることに集中と、価値観と比重を置く人生を生きるべきでないでしょうか。

日曜日, 11月 09, 2008

あなたの存在を感謝する理由


Ⅰコリント人へ手紙1:1-5
神のみこころによって キリスト · イエスの使徒として召されたパウロと,兄弟 ソステネから,
コリントにある神の敎會へ.すなわち,私たちの主イエス · キリストの御名を、至る所で呼び求めているすべての人々とともに,聖徒として召され,キリスト · イエスにあって聖なるものとされた方々へ.主は私たちの主であるとともに,そのすべての人々の主です. 私たちの父なる神と主イエス · キリスト から,惠みと平安があなたがたの上にありますように.私は,キリスト · イエスによってあなたがたに與えられた神の惠みのゆえに,あなたがたのことをいつも神に感謝しています.

何故、わたしたちは自分の価値を他人の価値を自分の財産の所有や学歴や自分と他人の状況によって判断したり、比較することで決めるのでしょうか。すると、自分は幸福でないし他人をも不幸にします。不平や不満の顔で周りを嫌な気分にさせます。しかし、使徒パウロは問題の多いコリント教会について、このように彼らのことを感謝します。『キリスト・イエスによってあなたがたに与えられたっ神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています』彼らが問題がありながらも、
彼がクリスチャンであるゆえに、その存在に感謝しているのです。コリント教会の人々が
①いたるところで主イエス・みなを呼び求めている(イエスの救いが必要だと自分の弱さや罪を認めている)救われる人々、可能性のある人々である
②聖徒として神様に召されたアイデンティの素晴らしさ(行いにおいて問題のある人でありながら、また罪を犯しながらも変わらない神様の救い)
③キリスト・イエスに『聖化』された義認
④主はわたしの主である
今日、弟子訓練をしながらこのような分かち合いがありました。ある人が正直に「僕はクリスチャンとして貧乏になりたくないです、神様はそのようなことなさらないでほしいです」と言いました。彼の家は難しく大変な状況にありました。そこで、もう一人の兄弟が『自分の経済状況』について貧乏であっても、借金があっても、神様が満たしてくださることを話してくれました。
最初の兄弟がこのように話してくださいました『自分を捨てることが出来たときは本当に幸福でした』考えると、わたしたちはイエス・キリストの十字架で救われたことは、私がなんだということで救われたのでない、神様の目に価値をわたしに見出してくださった救い出されたのだから、何にも言えない筈なのです。それだけで、命を救われただけで感謝なのに、あなたを愛して大事な使命を任せたい、と言われているのです。わたしたちは神様の大事な存在であり、秘密兵器なのです。
そうしたら、神様に与えられた人生(REDEEMER LIFE)を神様の期待通りに生きずにいられないのでないでしょうか。神様の価値どおりの生き方をします

土曜日, 11月 08, 2008

神様による相続地

民数記36:1-5
ヨセフ 族の 一つ, マナセの子 マキルの子ギルアデの氏族に屬する諸家族のかしらたちが進み出てモ ― セとイスラエル人の諸家族のかしらである家長たちに訴えて,
言った.「主は,あの土地をくじによって イスラエル人に相續地として 與えるように, あなたに命じられました. そしてまた,私たちの 親類 ツェロフハデ の 相續地を, 彼の 娘たちに 與えるように, あなたは 主に 命じられています. もし 彼女たちが, イスラエル 人の 他の 部族の 息子たちにとついだなら, 彼女たちの 相續地は, 私たちの 父祖の 相續地から 差し 引かれて, 彼女たちがとつぐ 部族の 相續地に 加えられましょう. こうして 私たちの 相續の 地所は 減ることになります.
イスラエル 人のヨベルの年になれば, 彼女たちの 相續地は, 彼女たちのとつぐ 部族の 相續地に 加えられ,彼女たちの相續地は,私たちの父祖の部族の相續地から差し引かれることになります.」そこでモ ― セ は,主の命により,イスラエル人に命じて言った「ヨセフ部族の訴えはもっともである.イスラエルの民であるマナセ部族は、自分たちの相続地が減ることに敏感でした。そして、その訴えはモーセに聞かれ、主の命令によって相続地が守られるようになりました。このように、マナセ部族は自分たちの相続地、名前がなくなることに敏感でした。現実的にしっかり生きている気がします。
それでは、わたしはどうかと思いました。相続する地を大事にしようとしているでしょうか。
神様の下さった地上での人生は、天国での永遠の人生へと続きます。わたしたちは地上での財産も取っている所有、立場に少しでも良くしようとします。しかし、永遠の相続に向かった思いでそのように求めるでしょうか。それとも、地上での生活がわたしにとってすべてでしょうか。
食べることや飲むことは悪いことでありません。また、相続地を得ることは、自分の所有をえることは悪いことではありません。しかし、神様を離れてそうすることに罪への誘惑が起こります。
神様にある相続地、所有を求めることと同時に、権利を主張するにせよ、永遠の相続地につながった価値観、目標を持って求めないといけません。また、何よりも永遠の相続を神様からの祝福を得る気持ちで、求めないといけません。わたしは永遠の天国につながる相続を求めて渇望しているでしょうか。それとも、地上のものだけで満足しているのでしょうか。
永遠の価値のための相続を求めてます。

金曜日, 11月 07, 2008

殺人者が自由にされた!

民数記35:31
もし, その 殺人者が, 自分が 逃げ ¿んだのがれの 町の 境界から 出て 行き,
血の 復讐をする 者が, そののがれの 町の 境界の 外で 彼を 見つけて,その殺人者を殺しても,彼には血を流した罪はない.
その 者は, 大祭司が 死ぬまでは, そののがれの 町に 住んでいなければならないからである. 大祭司の 死後には,その殺人者は,自分の所有地に歸ることができる.

あなたがたは, 死刑に 當たる 惡を 行なった 殺人者のいのちのために ·い 金を 受け 取ってはならない. 彼は 必ず 殺されなければならない.
この厳正な罪への裁きと、あやまっってひとを殺した場合におけるのがれの町を作る聖書の箇所には非常に愛と正義と責任を感じさせます。しかし、ここで一番大きなことはわたしたちがイエス・キリストを十字架にかけたことです。自分の罪は神の一人ごイエス・キリストを殺すほどの罪であったことを覚えているでしょうか。逃れの町にいるべきわたしが赦されて自由にされたことに感謝や喜びの自由がなるのでしょうか。今日も、イエス・キリストの自由を謳歌していきます。

神様の下さった境界線で生きよ

民数記34:1ー2、170-20
主は モ ― セ に 告げて 仰せられた.
「イスラエル人に命じて,彼らに言え. あなたがたがカナンの地にはいるとき, あなたがたの 相續地となる國,カナンの地の境界は 次のとおりである.

主は モ ― セに告げて仰せられた.
「この地をあなたがたのための 相續地とする 者の 名は 次のとおり, 祭司 エルアザル と ヌン の 子 ヨシュア である. あなたがたはこの地を相續地とするため, おのおのの 部族から 族長ひとりずつを 取らなければならない. その 人¿の名は次のとおりである. ユダ 部族からは, エフネ の 子 カレブ .シメオン部族からは,アミフデの子サムエル .
人々には、自分が神様から与えられた人生、使命、祝福の地があります。そして、それに対するほかの人々との境界線があります。それは、他の人々と同じものではありません。また、人生の使命や役割にもそれぞれ違うものです。わたしたちはついつい比較してしまうものでないでしょうか。
公平に扱え、と要求するのでないでしょうか。あの人はこれだけもらっている。あの人はこのような役割をしているのに、わたしはこのような役割をさせられている、と。
モーセは偉大な指導者でした。この世でもっとも謙遜な人でした。しかし、もっとも入りたかったであろうカナンの地に入ることも、あれだけ苦労した約束の地へイスラエルの民を導きいれることは出来ませんでした。人間的に見たら無念かもしれません。いや、わたしならそうです。しかし、神様のそれぞれに与えられた人生と使命にしたがって生きるときに幸福は来ます。比較するときに満足はありません、しかも、人にも悪い影響を与えます。モーセからヨシュアへ、次に世代に代わっても神様の約束は変わらないことを信じます。私に与えられた境界線をもって他の人々と生きます。

悲しみにとらわれずに前に進め

民数記33:38-39、50-55
祭司 アロン は 主の 命令によって ホル山に 登り, そこで 死んだ. それは イスラエル 人が エジプト の 國を 出てから 四十年目の 第五月の 一日であった. アロン は ホル 山で 死んだとき, 百二十三
であった.

「イスラエル人に告げて彼らに言え. あなたがたが ヨルダン を 渡って カナン の 地にはいるときには,その地の住民をことごとくあなたがたの 前から 追い 拂い, 彼らの 石像をすべて 粉¿し, 彼らの 鑄造をすべて 粉¿し, 彼らの 高き 所をみな, こぼたなければならない.
あなたがたはその 地を 自分の 所有とし, そこに 住みなさい. あなたがたが 所有するように, わたしがそれを 與えたからである.
あなたがたは, 氏族ごとに, くじを 引いて, その 地を 相續地としなさい. 大きい 部族には, その 相續地を 多くし, 小さい 部族には, その相續地を少なくしなければならない. くじが 當たったその場所が,その部族のものとなる. あなたがたは,自分の父祖の 部族ごとに 相續地を 受けなければならない. もしその 地の 住民をあなたがたの 前から追い拂わなければ, あなたがたが 殘しておく 者たちは, あなたがたの 目のとげとなり,わき腹のいばらとなり, 彼らはあなたがたの 住むその土地であなたがたを 惱ますようになる.

神様の祭司であるアロンは目の前のカナンを前にしてなくなりました。イスラエルの民は偉大な祭司を失った悲しみ乗り越えて進まないといけませんでした。 それは、神様の約束どおりでした。カレブとヨシュア以外には入れない、という神様の計画と裁きでした。それに落ち込むことなく、未だに入っていないカナンの地を前にイスラエルの民に神様は命じられます。その地の民をそのままにしておくなら『あなたがたの目のとげ、わき腹の痛み』となると言われました。何故、ここまで徹底的に、しかも
約束の地に入っていない前に神様は言われたのでしょう。しかも、指導者の無くなってすぐの痛みの時期にです。それは、神様の使命を果たすために必要なことは『実力でなく、指導者の力でもなく、聖さをもった人々』だからです。そうでないなら、祝福は災いになります。
神様の願われることは神様とともに生きることを願った、神様の心を持った聖い人々です。
そういう人でないと約束の地に入れないのです。神様の仕事を出来ないのです。
今日も、神様の聖さをもって、わたしの罪を追い出していきます。
本当の悲しみは、罪を離れないことにあります。私を苦しめる人間関係、過去そして今まで慕っていた人との別れさえも、神様の約束にのみ信頼して従う人生を歩ませることを信じます。
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解決できない問題はない(りーだーはどうするのか?)

民数記32:28-32
そこで, モ ― セ は 彼らについて, 祭司 エルアザル , ヌン の 子 ヨシュア , イスラエル人の部族の 諸氏族のかしらたちに 命令を下した. モ ― セ は 彼らに 言った.「もしガド族とルベン族の戰いのために 武裝した 者がみな, あなたがたとともに ヨルダンを渡り,主の前に戰い, その 地があなたがたの 前に 征服されたなら, あなたがたは ギルアデの地を所有地として 彼らに 與えなさい. もし 彼らが 武裝し, あなたがたとともに 渡って 行かなければ, 彼らは カナン の 地であなたがたの 間に 所有地を 得なければならない.」
信仰共同体の中には、神様の約束を握って進む人(ヨシュアやカレブ)もいれば現実を選ぶ人も多くいます。そのような人々にどのように対処すべきなのか?信仰者のリーダーシップが試されます。モーセはイスラエルの民がヨルダン川の向こうである約束の地に入るまではともに戦うように、しかも最前線で戦うことを要求します。そうしないなら、ヨルダン川の東側をとってはいけないとイスラエルの民に伝えます。当たり前といえばそうですが、現実は難しいのでないでしょうか。モーセはこの約束をみなの前でさせました。そして、双方に約束を納得させました。自分がまたか何の地へ入っていけないことを知っていたからです。神の知恵によって人間の知恵や領域を超えた部分で、モーセは共同体の利害関係、葛藤を解決し、対処しました。問題にぶつかったのです。
私は神様のリーダーとして共同体の難しい葛藤や利害関係の問題にぶつかっているのでしょうか。それとも逃げているのでしょうか。真っ直ぐに現実に神様の知恵を持つリーダーとして歩んで生きます。

現実より重要なビジョンもって従うこと


民数記32:1-15
アタロテ , ディボン , ヤゼル , ニムラ , ヘシュボン , エルアレ , セバム , ネボ , ベオン .これら主が イスラエルの會衆のために打ち滅ぼされた地は、家畜に適した地です.そして,あなたのしもべどもは 家畜を 持っているのです. 」
また 彼らは 言った「もし、私たちの願いがかないますなら,どうかこの地をあなたのしもべどもに 所有地として與えてください.私たちにヨルダンを渡らせないでください. 」
『エジプトから上って 來た 者たちで 二十
以上の者はだれも,わたしがアブラハム ,イサク ,ヤコブに誓った地を見ることはできない.彼らはわたしに從い通さなかった. ただ,ケナズ人エフネの子 カレブ と,ヌンの子ヨシュアは別である.彼らは主に從い通したからである.』
今日の聖書箇所は約束の地に入る前に、我慢できずに現実を選んだ ルベンとガド族の話です。彼らは約束の地に入らせないで下さい、と願い出たのです。自分たちが何を言ったのか分からないのです。①神様の約束を自らけった②イスラエル共同体たちよりも自分たちを優先した③周りの影響を顧みない④神様より自分たちの生活を顧みた。⑤将来への共同体への影響を考えずに今日だけ考えた
事実彼らの家畜は多く、また所有できる土地は(ヨルダン側の東側)家畜に適した土地であったことが書かれています。しかし、だからといって彼らの決断は良かったのでしょうか。
現実に安住すると信仰の人生の祝福を得ることが出来ないだけでなく、神様や周りの人々へ大きな悪い影響を残します。わたしはどうかと思いました。若いころに比べて何をするにせよ「計算している」恐れている自分を見ます。昔は恐れずに、神様の信仰だけでといった自分は何所に行ったのか?と思います。事実より、計画よりも大事なのは神様のともにいる約束、約束の地に入るまで
ビジョンを持って人生を設計して歩む続けることです。神様のビジョンを持って約束の地へ向かいます

霊的スパイスをもっていよ


民数記31;13-17
モ ― セと祭司エルアザル およびすべての 會衆の 上に 立つ 者たちは 出て 行って 宿
の 外で 彼らを迎えた. モ ― セ は 軍勢の 指揮官たち, すなわち 戰いの 任務から 歸って 來た 千人の 長や 百人の 長たちに 對して 怒った.モ ― セ は 彼らに 言った. 「あなたがたは, 女たちをみな, 生かしておいたのか. ああ,この 女たちは バラム の 事件のおり,ペオルの事件に關連して イスラエル 人をそそのかして,主に對する 不實を 行なわせた.それで神罰が主の會衆の上に下ったのだ.今,子どものうち男の子をみな 殺せ.男と寢て,男を知っている女もみな殺せ.
今回のQT箇所は、イスラエルを堕落させ、偶像崇拝の罪に招いたミデヤン人と戦って勝利した田尾の話でした。彼らは大勝利の後にミデヤン人を奴隷にするためにつれてきます。しかし、神様の命令は征服せよでした。誰もが勝利に酔うことや、成功に浸るところで純潔を守らず、また神様の命令を伺わないところで決定したことにモーセは激しく叱ります。わたしはどうでしょうか。これくらい神様に伺わなくても、大丈夫と考えたり、現実への妥協することがあるのでないでしょうか。
また、罪を徹底的に除かないところに危険があるのに、成功のために純潔を失っていることを見ないことが どれほど多くあるでしょうか。モーセのように霊的なスパイスをもって言うべきことを言い、罪を除く一日であることを祈ります、

木曜日, 11月 06, 2008


民数記29:12-40
11. 第七月の 十五日には, あなたがたは 聖なる 會合を 開かなければならない. どんな 勞役の 仕事もしてはならない. あなたがたは 七日間, 主の 祭りを 祝いなさい.
12. あなたがたは, 主へのなだめのかおりの 火によるささげ 物として, 全燒のいけにえ, すなわち, 若い 雄牛十三頭, 雄羊二頭, 一
の 雄の 子羊十四頭をささげなさい. これらは 傷のないものでなければならない.
13. それにつく 穀物のささげ 物としては, 油を 混ぜた 小麥粉を, 雄牛十三頭のため, 雄牛一頭につき 十分の 三 エパ , 雄羊二頭のため, 雄羊一頭につき 十分の 二 エパ ,
14. 子羊十四頭のため, 子羊一頭につき 十分の 一 エパ とする.
感謝はクリスチャンのトレードマークと主題を書きました。そうです、私たちの人生の中でどれほど感謝が少ないことでしょうか。当たり前のことであると思うあまりに感謝がどれほど無いことでしょうか。どれほど、不平や不満が溢れていることでしょうか。感謝が無いから離婚し、人間関係が壊れ、お金が無いと言います。しかし、クリスチャンは主有権は神様にあります。自分のものはありません。
時間やお金や両親、友人すべてが神様から下さったものです。仕事もそうです。私の人生を守り、祝福してくださる神様、感謝します。それがないから難しくなり、顔も喜びが無いのです。クリスチャンは監獄にいてもペテロのように感謝し、喜ぶ人であるべきです。神様の感謝を持つ人として生きます。ああ、感謝と喜びを主の前にささげます。

礼拝に集中せよ!

民数記28:16-19
16. 第一の 月の 十四日は, 過越のいけにえを 主にささげなさい.
17. この 月の 十五日は 祭りである. 七日間, 種を 入れない パン を 食べなければならない.
18. その 最初の 日には, 聖なる 會合を 開き, どんな 勞役の 仕事もしてはならない.
19. あなたがたは, 主への 火によるささげ 物, 全燒のいけにえとして, 若い 雄牛二頭, 雄羊一頭, 一
の 雄の 子羊七頭をささげなければならない. それはあなたがたにとって 傷のないものでなければならない.
20. それにつく 穀物のささげ 物として, 油を 混ぜた 小麥粉を, 雄牛一頭につき 十分の 三 エパ , 雄羊一頭につき 十分の 二 エパ をささげなければならない.
何故、礼拝をするのにこのような難しい規則があるのでしょうか?神様の前に出るのに何故ここまで厳しく細かい規則があるのでしょうか?それは、ただ神様だけに集中せよ!と言うことなのです。聖なる会合を開いてどんな集まりももってはいけないのです。愛の神様なのに何故?というなら、それこそ勘違いでしょう。愛の神様であるなら、なお更神様への礼拝、そして神様の前にイエス・キリストの十字架の犠牲を持って出て行かないといけないのでないでしょうか。わたしは神様の前に礼拝をするのに集中できるようにしているのでしょうか。人間関係のために、傷ついた感情のために、また毎日の心配のために、集中できないものがあるのでないでしょうか?神様の前に感情で失礼なことをしていたら、殺されてもおかしくないものであったのです。わたしはイエス・キリストによる犠牲をささげられた時に、すべてを門の外で焼いてきたのでしょうか。神様の前に集中する礼拝をささげる人生へと進みます。

神様は訴えを聞かれる

神様は訴えを聞かれる
民数記27:1-11
1. さて, ヨセフ の 子 マナセ の 一族の ツェロフハデ の 娘たち ·· ツェロフハデ は ヘフェル の 子, ヘフェル は ギルアデ の 子, ギルアデ は マキル の 子, マキル は マナセ の 子 ··が進み 出た. 娘たちの 名は マフラ , ノア , ホグラ , ミルカ , ティルツァ であった. 2. 彼女たちは, モ ― セ と, 祭司 エルアザル と, 族長たちと, 全會衆との 前, 會見の天幕の入口に立って言った. 3. 「私たちの 父は 荒野で 死にました. 彼は コラ の 仲間と 一つになって 主に 逆らった 仲間には 加わっていませんでしたが, 自分の 罪によって 死にました. 彼には 男の 子がなかったのです. 4. 男の子がなかったからといって, なぜ 私たちの 父の 名がその氏族の間から 削られるのでしょうか. 私たちにも, 父の 兄弟たちの 間で 所有地を與えてください. 」 5. そこでモ ― セ は, 彼女たちの 訴えを, 主の 前に 出した.
最近、QTのアップがほとんど滞る1ヶ月をすごしてこれはいかん!と遅れてでもアップしようと見たのがこの聖書箇所でした。あまりにタイムリーな聖書箇所でした。人間として境界線を踏みにじられた時、相手に罪を犯させたり、そのままでいることはいけないことであります。しかし、わたしは人を恐れ、自分の立場を失われるままにいました。主よ赦してください。わたしが勇気の無いばかりにいたことを。あなたのために勇気を持って歩ませてください。強い男として立たせてください。
オバマ大統領の演説を見ながら、もちろん彼のすべてに賛成できるわけでないけど、同性愛を認めるとか?聖書的でない部分もあるし、聖書的な部分も歩けど。キリストにある男として戦わせてください。本当に涙の出てくる演説でした。キリストにある戦いをさせてください。
ハロー、シカゴ。もしこの中に、米国はすべてが可能な場所であるということにいまだ疑いをもっている人がいるとすれば、米国建国の祖の夢に懐疑的な人がいるとすれば、民主主義の力に疑問を抱く人がいるとすれば、今夜がその答えだ。これが、若者と年配の人、豊かな人と貧しい人、民主党支持者と共和党支持者、黒人、白人、ヒスパニック、アジア系、先住民族、同性愛者、非同性愛者、身障者と健常者が出す答えだ。われわれは(共和党が強い)赤い州と、(民主党が強い)青い州の寄せ集めではなく、アメリカ合衆国であったし、これからもそうあり続ける。長い時間がかかったが、私たちが今夜、選挙という決定的瞬間に成し遂げたことによって、変革が米国に訪れた。共和党のマケイン大統領候補からさきほど丁重な電話をいただいた。マケイン氏とペイリン副大統領候補が成し遂げたことを祝福する。この国との約束を新たにするため、彼らと協力するのを楽しみにしている。 私はこれがあなた方の勝利だということを決して忘れない。これはあなた方の勝利だ。2世紀前の「人民の、人民による、人民のための政治」は滅びていなかったことが示された。これはあなた方の勝利だ。 前途は長く、登るべき坂は険しい。後退も、つまずくこともあるかもしれない。1年や1期(4年)だけでは到達できないかもしれないが、約束する。われわれは目標の地点に必ず到達するということを。真冬の21カ月前に始まったことが、この秋の夜に終わることはない。勝利そのものが変革なのではなく、(勝利は)変革を起こすチャンスにすぎない。 (第16代大統領の)リンカーンが、米国が今よりもっと分裂していたときに言ったように、われわれは敵ではなく、友人だ。今夜、私はあなたの票を得られなかったかもしれないが、あなたの声に耳を傾ける。あなたの助けが必要だ。私はあなたの大統領にもなるのだ。 世界を引き裂こうとするものは打ち倒す。平和と安定を求める者は支持する。きょう私たちは、米国の真の強さは経済規模や力や武力によってもたらされるのではなく、揺るぎない理想の力、つまり民主主義、自由、機会と希望によってもたらされるということを示した。 今夜、私の心に浮かぶのは(ジョージア州)アトランタの106歳の女性のことだ。女性であり、(黒い)肌の色のために投票はできないと言われた。全米が大不況の絶望に包まれた時、(フランクリン・ルーズベルト大統領の)ニューディール政策や共通の目標によって恐怖を克服する国を見た。イエス・ウィー・キャン(そう、私たちにはできる) 彼女は、われわれの港が爆撃されのを目撃し、圧政が世界を脅かした時代を生きた。アトランタ出身の(キング)牧師が「われわれは乗り越えなければならない」と人々に訴えた時に、そこにいた。彼女はどう米国が変わることができるのかを知っている。イエス・ウィー・キャン。(シカゴ 長戸雅子)