坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 11月 10, 2008

何故、わたしたちは誇るのか?

Ⅰコリント26_31
兄弟たち,あなたがたの召しのことを 考えてごらんなさい.この世の知者は多くはなく,權力者も多くはなく,身分の高い者も多くはありません. しかし 神は、知惠ある者をはずかしめるために,この世の愚かな者を選び,强い者をはずかしめるために,この世の弱い者を選ばれたのです.
また,この世の取るに足りない者や見下されている者を,神は選ばれました.すなわち,有るものをない者のようにするため,無に等しいものを選ばれたのです.
これは,神の御前でだれをも誇らせないためです. しかしあなたがたは,神によってキリスト · イエスのうちにあるのです.キリストは,私たちにとって,神の知惠となり,また,義と聖めと,購いとになられました. まさしく,「誇る者は主にあって誇れ.」と書かれているとおりになるためです

何故、わたしたちは何か自分が何かやったように思うのでしょうか。そのように錯覚したところから、人生は自分のものだ、自分のポジションを自分が得たように、思うところから苦しみが始まるのです。信仰とは所有権の移行することです。自分の人生から神様に与えら得た人生となることに本当の祝福があるのです。人生の主人が、本当に素晴らしい主イエスであることを信じるときに、安心が始まるのです。多くの人が悪い主人に出会ったことから傷があり、主人や自分の王であることに大きな負担感を感じます。しかし、わたしの主人は最高のイエスであることを知ることに本当の回復があります。そして、世の悪い主人の下でも強く正しく生きる力が与えられるのです。
今日も、わたしの主人であるイエスを誇る人生を生きます。