坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 9月 30, 2009

神様が記録されている人生は喜びか?

第一歴代誌29:21-30
ダビデの人生の最後は、ソロモンへの王位継承、リーダーシップ交代を礼拝と喜びの中で行ったことです。そこには、
1:ささげものを「おびただしく」ささげた様子
2:大いに喜んで、主の前に食べたり、飲んだり、したことが書いてあります。
3:主のために、「王と祭司」を立てる
4:主に会って建てられたリーダーシップに聞き従ったことが出てきます。
5:そして、一番大きいことはダビデよりも大きい者とされて、大いなるものとされたのです。
人生の最後に、人は試されます。自分に栄光を返す人生なのか?神様に栄光を返す人生なのか?神様のために働いてきても、自分のものとして、自分がした、と主張しがちです。しかし、ダビデはそうでありませんでした。自分よりも後のもが用いられても喜びました。それは、神様に用いられ人生が最高に自分にとって喜びの人生だったからです。神様の書に記録されていることを一番正確であり、怖れて、生きました。私の人生は、
1:自分の物や、自分の人生を使っていただくことに、自分の賜物を神様に用いていただくことに喜びがあるのでしょうか?
2:神様の書に記録されて恥ずかしくない人生を歩んでいるのでしょうか?
本当に、そうだと言えないものです。しかし、神様を愛し、喜び歩んで仕えていきます。

火曜日, 9月 29, 2009

信仰とは神様の所有権を喜ぶこと

第一歴代誌24:1-31
ダビデはイスラエルの全ての集団の前で、神様を賛美し、礼拝します。それは、私にとっても「神様、私の人生の中で主を賛美させてください」という祈りと「全ての人々の前で神様を賛美する」という祈りと願いになりました。それは、私の生きているすべてのものは、お金も、作られたものも神様のもである、という告白です。信仰とは、所有権の移行です。自分のものだったお金や時間、そして人生が、健康が神様の下さったものを預けられて最高の人生のために、最高に価値あるものに使うことであることを信じることです。それは、神様は私の心のまっすぐなことを愛される方です。はたして、私たち人間は、心のゆれるものです。感情の揺れる存在です。そこで、ダビデは民たちの心がとこしえに守られるように、その心の向かう方向が守れれるように祈ります。ソロモンがまったき心を持って与えて、神様の命令と定めを守られてくださるように祈ります。今日、神様に向かって私のお金、人生が神様の所有権であることを喜んで宣言します。

月曜日, 9月 28, 2009

神様を愛するリーダーといると周りの人もささげる喜び知る

第一歴代誌29;1-9
ダビデは、自分の人生の最後を前にしてすることがありました。はたして、人は自分の人生の最後に何をするでしょうか。自分にとって一番大事なことをするのでないでしょうか。本質的なことをするのでニアでしょうか。そこで、ダビデは神殿建築のために「全力を尽くして」準備したことをイスラエルのリーダーに分かち合います。そして、その建築の委員長はソロモンであること、若くて、足りないことがあっても、「神様が選ばれた唯一のリーダー」であることを示します。果たして、思わされたことは
私はダビデのように「全力を尽くして」ささげる喜びに満たされているのか?ということでした。しかも、彼は「自分の宝である」「金銀」を自ら喜びにに溢れるあまり、ささげたというのです。では、私は「自分の宝」としているものをささげているのでしょうか?自分のお金をささげる喜びがあるのでしょうか?また、それを聞いたイスラエルのリーダーたちも「自らささげる」ことをしました。神様を愛する人の献身は、人生は他の人へ神様への「強制」でなくて、「自らささげる」喜びを伝染させていきます。神様に全力でささげるリーダーとして歩みます。

日曜日, 9月 27, 2009

神様のビジョンで人生を設計せよ

第一歴代誌28;11-21
ダビデは、神殿の設計図をソロモンに伝えます。それは、御霊の示すとおりに作られる神殿の設計と神殿の中で使う器具、そして仕える祭司、レビ人の奉仕する組み分け(チームわけ)を語りました。それは、神様を愛しての情熱的な仕える思いに神様のビジョンが注がれました。それは、人間的な情熱だけでなくて、神様の愛が土台でした。それは、神様の下さる愛は神様の計画の、神様の使命を生きるときに最高の人生がまっている、生きることが出来ることへの確信でした。人生を生きるときに、また神様の働きをすることに、いろんな恐れ、困難などがあります。そんな時に、私たちが聴くべき言葉は「神様はあなたを離れず、あなたを捨てない、神様が共にいる、神様の宮の奉仕を完成させてくださる」のです。主はあなたと共にいる人々を備えてくださいます。神様の夢を、ビジョンを持って生きる人々の周りには人々が集まります。恐れのある時に、困難を時に神様は下さるときがあるかも知れません。しかし、そのような時にこそ、神様の下さるビジョンを持って人生を進まないといけません。また、神様の愛を賛美して進まないといけません。それを次世代に、神様のチームに伝える人生を歩んでいきます。

土曜日, 9月 26, 2009

神様の約束を次世代に伝えよ

第一歴代誌28;1-10
ダビデは、イスラエルのリーダーたちに仕える人々に(チームワーク)神様の約束を伝えます。それは、自分自身を愛された神様の召し、そして神様のダビデに対する素晴らしく情熱的な愛によって建てられた神様の計画を分かち合います。そして、ダビデを愛してイスラエルの王様とされた方のビジョンは変わらないこと、そしてソロモンへの神様の計画、ソロモンを通しての神様のなされるみわざを分かち合います。それは、リーダーだけのビジョンでなくて、全てのイスラエルの民(クリスチャン)へのすべき役割、神様の変わらない計画を伝えたのです。しかし、それは単にさせられる仕事のようなものでなくて、上のリーダーに無理やりなされるものでもなくて、
①:自らの喜びの心で神様に仕える、神様のみ言葉と戒めを守って生きたい
②:完全な心で神様の計画をなしていくことが、自分にとって喜びであり、最高の生き方である
というものでした。神様は良い地を下さる、方なのです。その方に堅く決心して歩むなら最高の人生を歩めるものです。私にとって、今日の第一歴代誌28:10は、神様への献身のCALLINGのみ言葉でした。それは、10数年経っても、さらに新しく、もっともっと深く神様を知っていける、神様の愛を知っていける、恵みでした。神様は素晴らしい地を下さるのです。その神様の愛を受けて、もっと神様の中に生きていきます。神様のビジョンをリーダーとしてチームと共に持って、共有して、神様の下さる幸福と喜びを享受しながら歩んできます。ハレルヤ!主イエスを賛美します。

金曜日, 9月 25, 2009

祝福のリストをGETするためには

第一歴代誌27;1-34
最近、人の奉仕のリストが続いています。なかなか難しい恵みですが、神様の声を聞くときには大きな喜びがあります。今日の奉仕者は3つに分かれます。そして、一つのポイントを黙想しました。
1:イスラエルの全部族の軍役が1ヶ月に1度の交代の奉仕をします。はたして、私たちは権利を主張することが多くあっても、その責任を忠実に果たしているのでしょうか。また、それを喜んで果たして神様の祝福を得ているのでしょうか?神様の国の建設に共に加わっているのでしょうか?
2:イスラエルのリーダーのリストがあります。神様の立てたリーダーを尊敬して、共に歩んでいるのでしょうか?
3;ダビデの僕たちのリストが出てきます。
こえらは、神様の祝福のリストです。それは、思い起こせばダビデがサウル王に追われて逃げているときには、問題のある人や不満のある人たちが集まってくるまでは、友人や家族しかダビデにはいなかったのです。誰が、このような神様の祝福のリストが、ダビデが逃亡しているときには、出来ると想像できたことでしょうか?また、神様の油注ぎにあってダビデが王となるとしても、その約束をどれほど信頼して、期待できたのでしょうか?神様の約束をGETして、信じて歩まないといけません。私の現実は、まさにダビデが逃亡しているような難しい状況です。しかし、神様の約束のみ言葉を握って進みます。そして、最後に覚えることはそのような祝福のリストは、神様の国のリストであり、ダビデはそこを任されたリーダーであり、管理者であり、祝福のとおりくだであったのです。それを勘違いして、自分の王国、自分のものとするときに神様の裁きが下ります。神様の国の建設の約束を握って生きます。

木曜日, 9月 24, 2009

神様はあなたを期待されている

第一歴代誌26;1-32
奉仕のついての色んな奉仕者が出てきます。それは、神様の宮についての奉仕、門衛、宝物蔵の管理など色々です。それは、出身の部族や賜物によって適材適所に配置されていきます。しかし、どこにいっても、共通していることがあります。それは、どのような奉仕であっても、神様は信頼されていることと、神様に合って忠実に、そして誠実に奉仕することを期待されているのです。門衛の人は勇敢である必要があります。ある意味、知恵を絞る必要が無いかもしれません。しかし、門衛が一生懸命に敵を防御し無ければどうなるでしょうか?敵はいっせいに押しよせて来ます。また、宝物倉の管理は体力は要らないかもしれませんが、知恵や管理をする知恵が必要です。また何よりも、不正をしない信頼できる人格が必要です。それらを細かく決めるのはなんと「くじ」でした。それぞれ自分のしたいことや、自分を評価してくれたら、という思いがあったかもしれません。しかし、私を配置されたのは神様であり、時に「くじ」を通して、配置されても、上にある権威に配置されても、究極的には神様があなたをここに置かれたことを覚えます。もしも、門衛が協力して一生懸命仕えることが無ければ、宝物倉の管理も全く意味を成しません。私たちはお互いに助け合い、自分に与えられた奉仕をベストを尽くすことで、神様の栄光と鳴り、神様が喜ばれて、お互いに喜びとなります。そこに神様の国があります。今朝私が通訳の奉仕をすることに、最善の準備をして祈って出て行きます。

水曜日, 9月 23, 2009

あなたにしか出来ない奉仕をせよ

第一歴代誌25;1-31
昨日は、多くの奉仕について姿勢をQTを通して黙想させられました。そして、今日は主の奉仕のために「あなたにしか出来ない」奉仕の専門性を黙想させられました。それは、
①アサフの子達は、預言するアサフの指揮の元にいました
②その奉仕にしたがって仕事に就いた(1V)とあります。それは、「その奉仕にしたがって」とは神様の下さった奉仕と賜物にふさわしく仕えることを意味し、専門的な奉仕であり、フルタイムであり、プロとしての奉仕を思わされます。
③それはまた、王たちと将軍が奉仕のために人々を取り分けたとあります。王や将軍が何故そのようにするのか?不思議に思わされます。それは、霊的な指導者、社会的な指導者のもとに仕える人が従順に従うことが必要であり、あなたを愛している指導者の元に共にいることが必要なのです。自分のしたいとおりにするのが奉仕ではありません。神様のいわれるとおりにするのが奉仕です。そこには、目に見える指導者を尊重することが大事です。
④エドドンの子は主を褒め称える奉仕をしました。賛美しながら預言する父の指揮下にありました。
⑤神様の言葉に従って、主の宮で奉仕をする人たちを神様はへマンに息子、娘を与えました。奉仕は、神様のみ言葉、神様の語られる言葉によってなされるものです。また、神様の語られるところには、必ず必要な人材も、賜物も与えられます。
⑥歌の達人、訓練を受けたものが出てきます。神様にある奉仕は常にアップグレードして磨き続ける必要があります。しかし、それらは突出することなく神様のハーモニーの中で調和していくチームワークの中でおこなれる必要があり、美しい神様へのささげものとなる必要があります。
⑦達人も、弟子も、下のものも、上のものも、神様にある奉仕に優劣は無く、身分の上下もありません。奉仕を終わって、もしも自分のものを誇っているならむなしいことであり、神様の前にくさいささげものであります。それは、神様の民であるクリスチャンとしての姿でありません。
私にしか出来ない奉仕を神様のために、神様を愛し、成長しながら、霊的なリーダーと共に、主にあるチームと共に、教会と言う共同体の中で得ていきます。

最高に幸福な奉仕をするために

第一歴代誌24;1-31
今日のQT箇所は、神様の奉仕をしたアロンの子孫たちの奉仕の組み分け、分担についての内容です。果たして、私たちは奉仕にどのような姿勢を持つと最高に幸せでしょうか?
①アロンの子達の奉仕は、自分たちがしたいとか他の人と比べて優れているから奉仕することになったのでなく、一方的な神様の召しによる奉仕です。奉仕は神様に呼ばれてするものです。
②奉仕の分担は、くじをひいていしたとあります。それは、きっと人間的には不思議に思えることであったでしょう。しかし、人間的にあれだこれだと不満を言わずに、私に与えられた奉仕を喜んでする十字架の恵みに意識が大事です。神様にある比較でない喜びを持って奉仕することが大事です。
③奉仕することが、私にとってどれほど祝福であるか?覚えることです。それは、奉仕してあげている、とか神様のためにしている、もしくはしてあげている、という感覚ではありません。神様はわたしの奉仕がなくても、十分に充足されている方です。しかし、そんな方が私を必要とされているのです。ここには、奉仕者のリストが出てきます。現代の私たちには、一旦何も関係ないように思えます。しかし、考えてみるとこのような聖書のリストに出てくるのは、なんと光栄で責任のある奉仕でしょうか。
天国のリストに、永遠にある神様の所に私たちは覚えておられるのです。そのようなことを覚えると
一番の価値のある、永遠に残る奉仕をしたくなるのでないでしょうか。
④神様を愛して、私の心と目を神様への愛というベクトルに集中させながら、人々とこの地上で奉仕うする、神様の御心を行う、神様への愛を地上の人々と共にEXPRESSIONしていく奉仕です。奉仕とはすごく現実的で、すごく霊的なものです。
⑤どのような奉仕も、優劣がありません。最近、ある牧師先生のメッセージの中で「ある人はギターを弾き、ある人はパワーポイントをして、ある人はメッセージをして、自分が知っている最高の方法で福音を全てのクリスチャンが伝えている」という話を聞きました。その通りであると思います。神様にある最高に幸福な奉仕をしていきます。

月曜日, 9月 21, 2009

神様の召しは人の不満不平うんぬんをふっとばす重い栄光だ

第一歴代誌23:1-32
ダビデは、ソロモンへの王位を継承をします。しかし、それは神様の計画であり、ビジョンの継承だったのです。まず、ダビデが集めたのは軍事力で無くは、祭司やレビ人でした。彼ら宗教的指導者が神様の僕が、イスラエルの王国を治める、神様の国を治めるリーダーでした。彼らは神様の至聖所をきよめる、その召しは永遠のものでした。そういう彼らに召された働きは、1;「朝来と夕ごと」に全焼のいけにえをささげる、2:季節ごとの神様の祭りに仕える、3:神殿に使う器具をきよめる(実務ですね)、5幕屋の移動する働きから神殿への礼拝と移っていくことでした。6:絶えず、ささげる奉仕でした。お休みがあるとか、今週は気合の入った奉仕だったけど、先週は少しだらけたとかゆるされない奉仕でした(今も礼拝は、奉仕はそうですよね)、7:それぞれの分担された奉仕には、各自への召しがありました。それに不平や不満を言うのでなくて、お互いを比較して劣等感を持ったり、優越感を持つのでもなく、人の足りない部分を非難することでなくて、神様の呼び声に従順に喜んで従うことでした。

平和を作る人(ソロモン)になるためには

第一歴代誌22:6-19
今日の聖書箇所は、ソロモンがダビデから王位を受け継ぐ箇所ですが、それは権威を受け継ぐのでなくて、神様のビジョンを受け継ぐことから始まります。そして、神様ご自身が彼の父となってくださいと祈ります。十分な大人に普通は言わないことでしょう。しかし、本当にまことに心ある素晴らしい父は、まことの神様こそが父であることを知り、その父なる神様にいつでも頼ることを祈り、命じます。それが、自分の息子にとって最高の人生だからです。そして、父の心は自分よりももっと素晴らしい自薦を息子に歩んで欲しいのが願いです。戦いに明け暮れて、神殿を立てることができなかったダビデはソロモンに平和と言う名前をつけます。そして、神殿のために「困難の中で蓄えた金、銀、青銅を」託します。そして、これ以上にもっと「あなた自身が」加えて欲しい、と彼のすべきことを残します。今朝、わたしに与えられた恵みはこうです。
1:平和を作るものは父なる神様が私の父である人。それは、主イエス・キリストの十字架によって和解した人です。無条件の愛と許しに降伏した人です。
2:神様のみ言葉を守る人です。父の言うことに無条件に信頼して歩む人です
3:神様の愛にもっと愛したい、という人です。自ら献身する人です。
4:困難な中でも、今は苦しいから貯蓄して神様のために供えれませんでなくて、困難の中でも備え、ささげる人です。多くの献金はこういう中から生まれます。
5:神様のリーダーシップにビジョンを次のリーダーに引き継ぎます。次のリーダーを認めるように部下の人たちにビジョンを分かち合い、リーダーを紹介し、頼みます。
父なる神様に合って平和を作る人になります。

土曜日, 9月 19, 2009

神様はいつでも何処でも出会う礼拝の場を下さる

第一歴代誌22:1-5
神様と出会うのは難しいでしょうか?神様の声を聞くのは遠い話でしょうか?宗教的な概念を持って、宗教的な行為に頼っていくなら難しいでしょう。神様とは遠いお方で、親しくなると言うことを考えもしないし、神様と出会うことが義務感のような思うさならそうでしょうか。神様は遠い方でしょうか。礼拝は行かないといけない、しないといけない、という義務感なのでしょうか。いいえ、神様はいつでも、どこでも、私に、あなたにあってくださるのです。主イエスの十字架に頼って生きるものには、どこでもいつでも出会ってくださるのです。主イエスの十字架意外に頼るものを持って歩むものは難しいでしょう。自分の行為や、自分の心が無い宗教行為や善人的な的な行為には難しさがあります。しかし、自分の罪深さを覚えて、それを正直に認めて主イエスの十字架に頼り、神様を愛するものにはすぐに、現れて親しく交わってくださる方なのです。ダビデは、自分の罪の悔い改めを受け入れてくださり、ささげものを受け取ってくださる方に、全焼のいけにえを受け取ってくださり、和解のいけにえを受け入れてくださる方に、そこで礼拝する場所、神殿建築の準備を始めました。それは、自分が建てるのでなくて、息子が立てる神様の計画であり、命令でしたが、そのために最善を尽くして準備をしたのです。それは、ダビデが出会ってくださる神様の愛とあわれみに動かされたからです。神様と出会う礼拝の場所を個人的に、教会的に作っていきます。

金曜日, 9月 18, 2009

回復したら礼拝すべき場所に居よ

第一歴代誌21:18-30
ダビデは、神様の前にエブス人オルナンの打ち場に行って「主のために祭壇を築きなさい」という命を受けます。そこで、彼は主の言葉に従って上っていきます。今朝、私に与えられた恵みとチャレンジはこうです。1:私が神様の前に従順して上っていくべきところはどこか?2:神様のために祭壇をたてるべきところはどこか?3:ダビデはその地所をささげるというオルナンに自分で購入して神様にささげさせてください、と言ったのです(23-24節)自分がささげていくべきものや、お金は何か?でした。はたして、今朝の早朝祈祷会のメッセージも「礼拝者は、勇士である。座ってじっとしている人でなくて、立ち上がって、約束のみ言葉に従って勝ち取る人」でした。私にとって、いますごくチャレンジがあります。自分の力や経済的なこと、語学力ではとうていできない、無謀と思えるようなことでありつつ、神様の働きであり、約束のみ言葉によるビジョンがあります。私は座っていないか?また、ささげるものは、お金は何か?と思わされました。そして、最後の箇所にはダビデが主の天使を恐れて、主の幕屋があるギブオンに上っていけてない内容がありました。本来あるべき姿、本来礼拝されるべき場所に、いけていない姿はまるで私の不信仰な姿のようでした。しかし、主はダビデを回復させてくださいます。そして、主の礼拝者としてあるべき姿、いるべき場所に回復されてから用いられます。わたしも、回復されてから、今いる礼拝の場所から、日本から、大阪から、北米の日本人礼拝の場所に向かっていきます。

木曜日, 9月 17, 2009

悔い改めて神様の愛の関係を回復すると召命ある人生も回復される

第一歴代誌21;9-17
ダビデに、神様からの罪の示しがあり、そして悔改めをしたダビデは神様の裁きが来ます。それは、3つの選択でした。その時に、直接にこれを受けますとか、これにしてくださいではなくて、「神様のあわれみ」を願います。そうです、私たちの罪は悔い改めで当然許されるようなものでなくて、本来ならばさばかれて、私たちが何もいえなくても当然ものなのです。しかし、ダビデの素晴らしいところは「神様の愛」に願い、神様の愛の関係に回復するところを求めたところなのです。そして、イスラエルの民が裁かれるところに、痛みを覚えて「自らの責任であり、それが自分と自分の家が責任を負うことを」言いだしたのです。多くの人間は、私もそうでしょう。自分の責任を負うことを拒みます。人の責任にしようとします。自分が逃げます。しかし、ダビデはそうでありませんでした。神様はその憐れみをもってダビデをゆるされます。キリスト教信仰は関係信仰です。行いの信仰でありません。これだけ行いをしたから、少しぐらいの罪はいい加減にしてください、棒けしにしてくださいとはいきません。私たちの義はキリストの十字架にゆるしに全的に頼っています。そして、きよくないものをいくら賜物があっても用いることはなされません。それは、人間的な完全な人でなくて、神様の愛に全的に頼り、自分の不足を認めて、神様の憐れみに頼るものです。その人はきよいものとされて、神様の使命の人生を生きることが出来ます。ダビデは完全な人ではありませんでした。しかし、神様の前にいつでも素直に悔い改めをし、神様の憐れみに頼る人でした。そのようなものを神様は用いてくださいます。主イエスの下さった召命の人生に素直に歩みます。

水曜日, 9月 16, 2009

祝福を失わない人生は何が違うか?

第一歴代誌17;1-15
ダビデは、人口調査をするように命じます。それは、神様のために調査するのではなく、自分の軍事の力がどれだけあるのか?そして、今までの戦いは神様が勝利させてくださった、神様の民のための聖戦であるにもかかわらず、それを自分のものにしようとする、自分のための戦いをしようとすることになったのです。まさに、サタンの手口は巧妙です。それは
①正しいことに見えて、しても悪いことに見えないことで「誘惑」に落としたのです
②神様の戦いから自分の権力や富を得るものに巧妙に摩り替わりました
③人口調査自体は悪いものでありません。しかし、神様の国を自分が王となったのです。
④ヨアブが神様の前に罪を犯すことを止めました。しかし、これを聞かなかったのです。
⑤ヨアブに残念なことがあります。間違ったことをしているダビデを止めようとしたのは良かったのですが、反対したのも良かったのですが、彼の心に不平や不満、苦々しいものが起こりました。
その結果、ダビデも祝福を失い、ヨアブも祝福を失ったのです。神様のリーダーが間違うのですから、イスラエルの民も祝福を失う影響を受けました。しかし、それにも関わらずダビデが悔い改めたときに神様は許され、受け入れてくださいました。神様はいつでも私たちが誤っても、神様の愛と食い改めを用意してくださいます。ダビデが祝福を失わなかったのは「完璧な人」だからでなくて、失敗しても悔い改めて、神様の愛に回復する人だったからです。この世にもクリスチャン以外にも人格者はいます。しかし、何が違うのかは許しと回復があるのです。神様の愛にあるゆるし、回復、そして神様のことして生きることが出来るのです。神様の関係を持って祝福を持って歩みます。

火曜日, 9月 15, 2009

神様はGIANTSを平凡な勇士に倒させる

第一歴代誌20;1-8
神様がダビデを通して、イスラエルの民がアモン人を滅ぼし、またぺリシテ人との戦いで「ラファ」と呼ばれる、申命記と創世記に出てくる、「ネフィリム」子孫と戦って勝つ話がありました。果たして、何故この話が出てくるのか?と思いました。しかも、今日のQTには3回も繰り返される話でした。と言うことは、聖書は何か強く言いたいことがある、ということです。この巨人の先祖は、サタンの霊が人間の娘に入っていってできた巨人たちであり、勇士でした。その彼らがぺリシテ人たちの中にいて、今まで弱小国家であったイスラエルの勇士たちに打たれたのです。それは、霊的な意味は何でしょうか。霊的な戦いにおいて、私にとってまるで巨人であるようなこの世の勢力に神様はイスラエルと言う神様の国、モデルを通して倒されることです。神様が悪魔への裁き、勝利をイスラエル(神様の国、民、クリスチャン)を通して倒されたのです。神様は私たちに勝利をくださいます。しかも、弱い私たちを通して、平凡な私たちを通して勇士として、この世の巨人のような勢力に勝利させてくださるのです。今日のQT箇所の前半にはダビデの勝利と栄冠があります。それをみても、実感がわかなかったり、恐れのあるところに、神様の勝利を信じて巨人に立ち向かいます、神様でのみしか解決できない祈りを持って、戦いを勝利します。

月曜日, 9月 14, 2009

神様のドリームチームは関係である

第一歴代誌19:8-19
最近、すごく気になっていることにチームでする教会作りというテーマがあります。それは、現在通っている教会を生み出したハワイの教会からもらったTEACHINGでもあります。朝のQTをしながら、思わされたことはダビデがヨアブという人道的に難しい人とも共にイスラエルの国に仕えます。そして、今日はアモン人たちとの戦いにも、共にいや主戦力として戦いに出てきます。そのような彼が兄弟アブシャイに言います。「アラムが私よりも強かったらおまえが私を救い、アラムがおまえより強かったら、私が救う」と言います。主にあるチームワークです。そして、「神様のために、神様の民のために戦う」と言います。それは、主にあるビジョンを持っての歩みです。ヨアブがこのような言葉や、主の御心を言うとは思えない感じの人がこのようなを事を言うのは、ある意味感動でした。思わされることがありました。主の民には、教会には、クリスチャンにはいろんな人たちが居ます。自分には合わない人や、この人はどうかと思わされる人が居ます。しかし、そのような人たちも神様に愛されている人たちです。主にある計画と人生を歩むべき人です。神様に用いられる人生を歩まないと損をする人生です。彼らを神様のビジョンを持っての人生へ、神様に用いていただく進ませるのが、主にあるリーダーシップであり、チームワークで無いかと思います。そして、それは主にある兄弟姉妹との関係の中で起こるのです。心を開いてビジョンを伝え、神様に用いられる人生の喜びを伝え、神様との関係、兄弟姉妹との関係(ある意味、ビジョンを伝えるのも関係次第です)を持って生きようと思います。今いる教会の中で神様にあるドリームチームを立てて生きます。

日曜日, 9月 13, 2009

素直に神様の愛を受けているか?

第一歴代誌19;1ー7
肯定的な人間は、いつも人を受け入れ、積極的です。人からの傷を受けても愛し、許し、癒されます。楽天的で、いつも未来志向で、希望を持って生きます。感謝を持って人生をエンジョイします。しかし、消極的な人間はいつも懐疑的です。いつも人からの傷を背負っていきます。人からの傷を周りの人々へ流してしまいます。そして、否定的な想像をします。今日出てきるナハシュの子であるハヌンや部下たちもそうです。ダビデの真実を尽くそう、という提案にも「自ら相手を傷つけて、失礼」をします。果たして、私の心の姿勢は、どうでしょうか。相手への素直な愛や、神様への愛を素直に受け入れているのでしょうか?それとも、自分の傷から相手を拒絶していないでしょうか。ダビデは、また恥を受けた部下たちを迎え、受け入れました。そして、彼らの恥を隠そうとしました。果たして、神様の愛で日ごろに癒されて、相手を癒していこうとしているのでしょうか。今日、出会う神様の愛に素直に反応できるように祈ります。

土曜日, 9月 12, 2009

ダビデが、百連勝できるヒケツはどこにあるのか?

第一歴代誌18:1-17
ダビデが、イスラエルの民を導いて王として勝利を続けた話が出てきます。しかも、全てを勝利をするのです。ここで、ふと疑問に思ったことがありました。それは、人間と言うのは人生や行動の中で失敗をすることがあるのが当然なのに、ここまで勝利をできたのは何故でしょうか?
①神様の選ばれたリーダーであるダビデと神様の民であるイスラエルを勝利に導かれる計画のために
クリスチャンを勝利へ導かれる神様の愛
②神様の計画に従い、神様と共に居たダビデのまことのリーダーシップは神様を主人として従うことから来ました。勝利をした時に、自分でしたのでなくて神様にささげて感謝をしました。
③神様にある正しい裁きをした
④神様に導かれる人、リーダーとして人生の記録が勝利の証しになった。
ダビデも、最初からこのようであったのでもなく、失敗や苦難を通して、JESUSのみが王として主人として歩むことになったのです。主にある人生の記録を歩んでいきます。

金曜日, 9月 11, 2009

You You Are A Godと告白するのが祝福される人生

第一歴代誌17;16-27
神様の永遠の祝福に対して、ダビデは「私が何者であると言うのでしょう、あなたは大いなる神、エジプトからあなたご自身が私を救い出し、あなたは私の神です、わたしはあなたの民です」という告白をします。これこそ、人生最高の祝福の秘訣(ヒケツ)なのです。私は誰か?これを知らないから人生をさまよい、私の生きるべき道を知らず、自分の人生のポジションを知らずに行動してしまうのです。しかし、主こそ私の神様、主人であり、私はあなたが直接に救い出してくださった民です、クリスチャンです、というときに最高の人生、自分が一番輝く人生を歩めるのです。神様の祝福を持つ人生を歩みます。

木曜日, 9月 10, 2009

神様の愛に感謝をする人は、末代までの祝福を受ける

第一歴代誌17;1-15
ダビデは、神様のために神殿を建てたいと願います。それは、「私が杉材の家に住んでいるのに、神様の家は無い」という告白でした。今朝、私に与えられた恵みははたして自分が神様の恵みや愛をそのように感謝しているのか?と思うことでした。いつも、神様のためにささげると言いつつ、神様のために何かしてあげている、ような錯覚に陥って、神様の下さっている恵みや、私を愛してくださっていることを忘れて、犠牲者精神になって生きていることでした。神様はダビデの告白に、あなたが神殿を立てることを許されませんでした。しかし、その代わりにあなたの家を建てる、あなたの王国は永遠に建てる、と言われたのです。何と言う素晴らしい神様の愛でしょうか。考えられません。そして、あなたの子孫を通して神様の神殿を建てさせる、という子孫への祝福を与えてくださったのです。神様の神殿は、ソロモンを通して建てられて、そしてダビデの子孫を通してイエス・キリストが生まれて、イエスを信じる全てのものに神様ご自身が住まわれる、という祝福を全世界にもたらされたのです。神様にある神殿を立てて生きます。それは、主イエスを愛する弟子を200人建てていくビジョンを持って教会に使えます。

水曜日, 9月 09, 2009

神様に仕える習慣を毎日定めよ

第一歴代誌16;37-43
アサフは、ダビデから(霊的なリーダー)全焼にいけにえをささげるように、言われます。それは、「朝来と、夕ごと」に「常に」です。毎日、神様の前に仕えるようにしたのです。はたして、私は全焼のいけにを朝ごとに、夕ごとにささげているのでしょうか。神様の前に自分のわがままな思いを全焼のいけにえとしてささげているのでしょうか。また、何か自分がささげれると思っているのでしょうか。主イエスご自身が、神様との和解となってくださったことを感謝して、賛美しているのでしょうか。また、共に居る人々の賜物を見て、神様の計画をみて、神様の計画が成就するようにしているのでしょうか。その人にとって、最善の、私にとって最高の神様の計画である礼拝する人生をするように勧めているのでしょうか。それは、日ごとの霊的な習慣となっているのでしょうか。今朝、私久しぶりに祈りの時間を再会することを願いました。神様への祈り習慣を立て直します。

賛美の出ない地に賛美が沸き溢れる

第一歴代誌16;23-46
今朝の歴代誌は、詩篇です。しかし、それが歴史書の中にあると言うことは私たちの現実の中に、世界史の中に起こったことを意味します。主イエス・キリストが来られて私の運命は、地球の運命は宇宙の歴史は変わったのです。私の到底賛美できない現実に神様の賛美が起こります。それをまず宣言するのが、主イエスにある礼拝者であり、賛美チームであり、霊的なリーダーであります。主イエスの賛美が起こることを信じ、宣言します。私の現実の中に祈りに答える主イエスを認め、感謝し、神様の奇跡を宣言します。

月曜日, 9月 07, 2009

その日、その時を今日賛美せよ

第一歴代誌16;7-22
7節には「その日、そのとき初めてダビデはアサフをはじめて用いて、主を賛美した」とあります。その内容は、過去になされた神様のみ業に、奇跡に思い起こし、知らせ、喜ばせよ、絶えず御顔を慕い求めよ、とあります。主イエスのなされた奇跡を思い出すたびに、過去への恵みを覚えるたびに、賛美と感謝しかありません。逆に、未来へ似まだ起こっていない奇跡を先取りして賛美するのは簡単なことでありません。何故なら、現実の問題といまだ起こっていないことへの心配が先取りするからです。しかし、私たちの先取りすべきことは神様のこれからなされる未来の約束と、現実の共におられる神様のみ手なのです。そして過去になされた神様の奇跡を覚えるたびに、必ず神様は変わらずに神様の約束をされる方であることを信じることなのです。今日、神様への賛美をするのが簡単な状態でありませんでした。現実に、今日に、なされないと難しいと思ってしまう私が居ました。自分が何とかしないといけない、と思う、あせりがある自分が居ました。しかし、まず神様を賛美して約束を感謝して、現実に共に居る神様を賛美していきます。未来の約束と奇跡を信じます。

日曜日, 9月 06, 2009

礼拝する人は祝福を分かち合う

第一歴代誌16;1-16
昨日まで、DCATというセミナーに参加させていただきました。その頭文字の意味はDOING CHURCH AS A TEAMという略で、チームでする教会作りという意味です。実は、これは聖書からの主張であると思いました。全てのクリスチャンが神さまの体の肢体であり、主体なのです。ですから、主イエスをかしらとしてキリストの体なる教会を建て上げるのは、牧師だけでなくて全てのクリスチャンの使命であり、最も楽しい、喜びのあることなのです。今日のQT箇所には、ダビデが礼拝をささげる姿と、その後に全ての民に祝福としてパン菓子を配るシーンがあります。それは、神さまへの礼拝をささげる人は、リーダーは祝福を分かち合う人である、ということなのです。そして、次に礼拝に仕える人や賛美に仕える人が出てきます。そこには、仕えさせる様にさせた、という使役形が出てきます。まことの礼拝をする人は、神さまのリーダーは他のクリスチャンをも共に仕えさせるようにさせる、人です。それは、人がさせられている、という意味で受け取るのでなくて、させる人もリーダーもこのような素晴らしい、楽しい喜びの勝ちある奉仕を共にする、喜びをさせる人です。それこそが、主イエスにある弟子であり、リーダーシップなのです。祝福とし教会の奉仕を一人で苦しくするのでなくて、共に喜びの奉仕として仕え、させる、キリストの弟子、霊的なリーダーとなります。

CRAZYに礼拝をささげる人をよろこばられる実様

第一歴代誌15:25-29
ダビデが、神様の箱をエルサレムに運びあげたときに、イスラエルの民たちは「歓声をあげ」て、喜びました。そして、ダビデは「飛び跳ねて、喜び踊っている」ということをしました、神様を喜ぶことは、また礼拝する喜びをどれほど知っているのでしょうか。また、どれほど礼拝することの価値、神様を喜んでいるのでしょうか。逆に、私をどれほど神様は喜んでくださっているのでしょうか?どれほど、私のために苦しみ、愛し、そのような私が十字架によって戻ってきたときに喜んでくださったのでしょうか?それを知っているのでしょうか?しかし、今日の礼拝の狂う人々に笑う人が居ました。それは、「サウルの娘ミカル」でした。それは、ダビデの王妃であるミカルとして紹介されませんでした。どういうことでしょうか?神様を礼拝することのモデルだったダビデと違い、サウル王は礼拝者としてセイコウしていませんでした、自分を守る、利用するものとさえしたのです。その娘ミカルは礼拝の価値を知りませんでした。また、何よりも自分の主人であるダビデが礼拝することを理解できなかったのです。果たして、私は自分のことを喜んでくださる主イエスを狂うほどに喜んでいるのでしょうか?また、自分の理解者であるべき家族、配偶者が同じように霊的な一致や心を持っているのでしょうか?私と私の家族は主に仕えうるのでしょうか?主にある一致を目指して今日のセミナーに参加します。

金曜日, 9月 04, 2009

天国の賛美の名簿に記されている喜び

第一歴代誌15;14-24
今日は、賛美をする人々の名前が出てきます。今はセミナーに参加中なのですが、ふと思わされたことがあります。それは、思いもかけない人々と再会する時に「私の名前が覚えられて嬉しい」ということです。また、奉仕をしてもお互いの感謝があることは嬉しいことです。しかし、一番の喜びは人間から受ける喜びでとどまらず、神様が喜んでくださることです。天国の書に私の名前が記されているだけで嬉しいのに、しかもそんな私を神様が用いてくださる、賛美を聞いて、受けてくださる、ということです。地上の名簿は、いつか消え去ります。人々の賞賛も忘れ去られます。しかし、聖書は、天国の書からは消えてなくなりません。そのような神様のために奉仕できること、賛美すること、礼拝できることを覚えるなら、私の人生は永遠のために生きたいと思います。神様に覚えていただける、しかも、私が必要とされることをどれほど感謝か分かりません。偉大な神様に賛美をささげるだけで、「お前のことを喜んでいるよ」と言われるだけで涙が流れます。偉大な賛美をささげる唯一の方に賛美を、礼拝をささげます。教会を建て上げ、ささげます。

木曜日, 9月 03, 2009

神様の精密な計画に驚愕して、賛美せよ

第一歴代誌15;1-13
今日のQTは、神様の選び、それは絶対的な神様の主権にあり、そして永遠に変わらないものであることを教えてくれます。ダビデは神様の箱を運ぶ際に、神様の定めた祭司やレビ人を建てずに、ウザの割り込みを起こし、神様の箱をお迎えすることができませんでした。そこで、アロンの子達とレビ人たちを集めたのです。そこで、頭たちを集めて神様のか笑い永遠の計画を、変わらない彼らへの奉仕や召しを伝えたのです。そこで、注目すべきことは彼らがその奉仕のために、仕事をするように出なくて、自分たちの生き方、自分を聖別するように言うのです。今朝、私に与えられた恵みは今朝のQTを読みながら、ある地域の教会に呼ばれた若い牧師先生のことでした。神様の完全な計画の中で呼ばれて、共に使える信徒の方々も与えられた、本当に神様の計画がそのとき、その場所、その人に注がれた、のであることを教えてくれました。次の世代も用意されているのだなと言うことを、祭司たち、レビ人たちの家計図、名簿を見ながら思わされました。私の人生に、神様の計画がなされることを祈り、信じ、賛美します。今日神様の計画にあるセミナーと将来の北米日本人教会の奉仕を祈ります。

神様と親しく関係になると、どうなるか?

第一歴代誌14;1-17
ダビデは、神様との関係を親しく持ちます。それは、ダビデの人生が礼拝の回復、礼拝に成功した人生だったからです。それは、2節「ダビデは、主が彼をイスラエルの王として堅く立たせてくださる~知った」たあるのです。彼の王権が人間の努力や力でなくて、神様によってなされていることを
「自覚していた」のです。王として立たせてくださる神様の時を、神様の絶対的な主権を「自覚していた」のです。はたして、そのように神様のみ手を自覚して生きているのでしょうか?
私たちの人生は、神様を神様として、自分が人間としてそのポジションに居る時に、最高に自分らしく、輝き、自分の持ち味を最大限に生かして、人生を歩むことができます。それは、礼拝の中で神様を神様として栄光をささげ、神様の語られる声に敏感に喜んで聞くことから始まるのです。それは、一足飛びにインスタントになされたことでなくて、荒野での逃亡生活を通して、時に洞窟の中で、時に人に使えることを通して与えられたものです。そして、王になった後もぺリシテとの戦闘でも常に神様に聞き、神様の声に従い、戦います。ダビデにとって、何よりも大事だったのは状況でなくて神様の関係が正常か、親しいのか?神様の声を聞こえるのか?だったのです。礼拝者として成功するときに人生の回復が始まります。神様との関係親しくありたいですね。今日、神様をさらに賛美できるように生きます。

火曜日, 9月 01, 2009

神様が私と共に住むと幸福だ

第一歴代誌13;9-14
神様の箱をエルサレムにお迎えしようとして、牛が揺らしたことを見て「ウザ」が割り込みをします。それは、本来祭司が運ぶべき神様の箱を、違う人が運んだために、神様の怒りが臨んだのです。神様の箱を落とさないようにしたのは、人間的には間違いがありませんが、神様の箱は人間に支配されたり、守られないと駄目なものではありません。ここから私たちが学ぶべきことは
①神様を礼拝をするのに、単に人間的な情熱や人間的に任せられる人選をするのでなく
②神様の言われた方法で、立たされた人が仕えないといけません
③今までの人間的な伝統や教会のやり方、自分のやり方にこだわってはいけません
④神様の前に空っぽの心で無いといけません
⑤何よりも、神様は私を必要としていないのに、必要として愛してくださった、聖いものとして出て行く必要があります。それは、どこまでもイエスの十字架の血によるものです。
⑥ガテ人の家にとどまることになった神様の箱はその家族を祝福します。ガテ人とは外国人のはずです。外国人の家をも祝福される様子は、本来神様を神様とするときに、私が創造物である人間のポジションに居るときに最大の祝福をもたらします。神様の前に清い人生を持って、神様の臨在をお迎えする、備えられていく今日を歩みます。