坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 9月 17, 2009

悔い改めて神様の愛の関係を回復すると召命ある人生も回復される

第一歴代誌21;9-17
ダビデに、神様からの罪の示しがあり、そして悔改めをしたダビデは神様の裁きが来ます。それは、3つの選択でした。その時に、直接にこれを受けますとか、これにしてくださいではなくて、「神様のあわれみ」を願います。そうです、私たちの罪は悔い改めで当然許されるようなものでなくて、本来ならばさばかれて、私たちが何もいえなくても当然ものなのです。しかし、ダビデの素晴らしいところは「神様の愛」に願い、神様の愛の関係に回復するところを求めたところなのです。そして、イスラエルの民が裁かれるところに、痛みを覚えて「自らの責任であり、それが自分と自分の家が責任を負うことを」言いだしたのです。多くの人間は、私もそうでしょう。自分の責任を負うことを拒みます。人の責任にしようとします。自分が逃げます。しかし、ダビデはそうでありませんでした。神様はその憐れみをもってダビデをゆるされます。キリスト教信仰は関係信仰です。行いの信仰でありません。これだけ行いをしたから、少しぐらいの罪はいい加減にしてください、棒けしにしてくださいとはいきません。私たちの義はキリストの十字架にゆるしに全的に頼っています。そして、きよくないものをいくら賜物があっても用いることはなされません。それは、人間的な完全な人でなくて、神様の愛に全的に頼り、自分の不足を認めて、神様の憐れみに頼るものです。その人はきよいものとされて、神様の使命の人生を生きることが出来ます。ダビデは完全な人ではありませんでした。しかし、神様の前にいつでも素直に悔い改めをし、神様の憐れみに頼る人でした。そのようなものを神様は用いてくださいます。主イエスの下さった召命の人生に素直に歩みます。