礼拝する人は祝福を分かち合う
第一歴代誌16;1-16
昨日まで、DCATというセミナーに参加させていただきました。その頭文字の意味はDOING CHURCH AS A TEAMという略で、チームでする教会作りという意味です。実は、これは聖書からの主張であると思いました。全てのクリスチャンが神さまの体の肢体であり、主体なのです。ですから、主イエスをかしらとしてキリストの体なる教会を建て上げるのは、牧師だけでなくて全てのクリスチャンの使命であり、最も楽しい、喜びのあることなのです。今日のQT箇所には、ダビデが礼拝をささげる姿と、その後に全ての民に祝福としてパン菓子を配るシーンがあります。それは、神さまへの礼拝をささげる人は、リーダーは祝福を分かち合う人である、ということなのです。そして、次に礼拝に仕える人や賛美に仕える人が出てきます。そこには、仕えさせる様にさせた、という使役形が出てきます。まことの礼拝をする人は、神さまのリーダーは他のクリスチャンをも共に仕えさせるようにさせる、人です。それは、人がさせられている、という意味で受け取るのでなくて、させる人もリーダーもこのような素晴らしい、楽しい喜びの勝ちある奉仕を共にする、喜びをさせる人です。それこそが、主イエスにある弟子であり、リーダーシップなのです。祝福とし教会の奉仕を一人で苦しくするのでなくて、共に喜びの奉仕として仕え、させる、キリストの弟子、霊的なリーダーとなります。
昨日まで、DCATというセミナーに参加させていただきました。その頭文字の意味はDOING CHURCH AS A TEAMという略で、チームでする教会作りという意味です。実は、これは聖書からの主張であると思いました。全てのクリスチャンが神さまの体の肢体であり、主体なのです。ですから、主イエスをかしらとしてキリストの体なる教会を建て上げるのは、牧師だけでなくて全てのクリスチャンの使命であり、最も楽しい、喜びのあることなのです。今日のQT箇所には、ダビデが礼拝をささげる姿と、その後に全ての民に祝福としてパン菓子を配るシーンがあります。それは、神さまへの礼拝をささげる人は、リーダーは祝福を分かち合う人である、ということなのです。そして、次に礼拝に仕える人や賛美に仕える人が出てきます。そこには、仕えさせる様にさせた、という使役形が出てきます。まことの礼拝をする人は、神さまのリーダーは他のクリスチャンをも共に仕えさせるようにさせる、人です。それは、人がさせられている、という意味で受け取るのでなくて、させる人もリーダーもこのような素晴らしい、楽しい喜びの勝ちある奉仕を共にする、喜びをさせる人です。それこそが、主イエスにある弟子であり、リーダーシップなのです。祝福とし教会の奉仕を一人で苦しくするのでなくて、共に喜びの奉仕として仕え、させる、キリストの弟子、霊的なリーダーとなります。
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