坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 30, 2009

確かにそうだ!

詩篇74;12-23
確かに,神は,昔から私の王, 地上のただ中で,救いのわざを行なわれる方です. あなたは,御力をもって海を分け,海の巨獣の頭を砕かれました. あなたは,レビヤタンの頭を打ち砕き,荒野の民のえじきとされました. あなたは泉と谷を切り開き,絶えず流れる川をからされました. 昼はあなたのもの, 夜もまたあなたのもの. あなたは月と太陽とを備えられました. あなたは 地のすべての境を定め,夏と冬とを造られました. 主よ.どうか,心に留めてください. 敵がそしり,愚かな民が御名を 侮っていることを. あなたの 山鳩のいのちを ¿に引き渡さないでください. あなたの惱む 者たちのいのちを
永久に 忘れないでください. どうか, 契約に目を留めてください. 地の暗い所には暴虐が橫行していますから.しいたげられる者が卑しめられて歸ることがなく,惱む者,貧しい者が御名をほめたたえますように. 神よ.立ち上がり,あなたの言い分を立ててください. 愚か者が一日中あなたをそしっていることを 心に 留めてください.
あなたに敵對する者どもの聲や, あなたに立ち向かう者どもの絶えずあげる叫びを,お忘れにならないでください.

今日の神様のみ言葉は「確かに」で始まります。私たちが神様に祈るときに何をも思い出すでしょうか?
①神様は私の王である!アーメン
②地上の只中で救いのみ技をおこなわれる方(私の現実のど真ん中で救いをなされる方)
③海の巨獣を倒し、荒野の民のえじきとされる(海の巨獣を荒野に持っていかれる奇跡をされる)
神様のなされるわざは驚きべきことをされる
④月と太陽、自然を支配される神様(自然崇拝を打ち破る創造主なる神様の力)
⑤神様のみなを汚されることを拒み、祈り願うこと
⑥神様の契約に頼って祈る(私たちは変わる事があっても、真実な神様に頼って祈ること)
⑦悩む者、貧しいものが神様のみなをほめたたえることができますように(私たちは貧しい者のように本当に貧しく、力の無い、神様以外に希望がないと告白しているのでしょうか。それとも、自分の力に頼っているのでしょうか)
確かに、神様は私の王でしょうか?自分はそれを認めて生きているのでしょうか。それなら、私の欧に強く祈る以外ないはずです。王になる方に祈っていきます。私の救いは確かです。

水曜日, 4月 29, 2009

神様の聖所はどんなに素晴らしいところか?知っているか。

詩篇74:1-11
神よ. なぜ, いつまでも 拒み, あなたの 牧場の 羊に 御怒りを 燃やされるのですか. どうか 思い 起こしてください.昔あなたが買い取られた, あなたの 會衆, あなたがご 自分のものである 部族として贖われた民を. また, あなたがお 住まいになった シオン の 山を.永遠の廢墟に,あなたの足を向けてください.敵は聖所であらゆる害を加えています. あなたに敵對する者どもは,あなたの集會のただ中でほえたけり,おのれらの目じるしを, しるしとして揭げ,森の中で斧を振り上げるかのようです. そうして今や,手斧と 槌で, 聖所の 彫り 物をことごとく 打ち ¿き, あなたの 聖所に火を放ち, あなたの 御名の 住まいを,その地まで汚しました.彼らは心の中で, 「彼らを, ことごとく 征服しよう. 」と 言い,國中の神の集會所をみな,燒き拂いました.
もう 私たちのしるしは 見られません.もはや預言者もいません. いつまでそうなのかを 知っている 者も, 私たちの 間にはいません. 神よ. いつまで,仇はそしるのでしょうか. 敵は,
永久に御名を侮るのでしょうか.なぜ,あなたは御手を, 右の 御手を, 引っ ¿めておられるのですか.その手をふところから出して 彼らを 滅ぼし 盡くしてください.

私たちは、自分が苦しいとき、理解できない痛みのある時、まだ答えが無くて待っている時に、いや待ち疲れそうなときに思い出す大事なことがあります。それは、
①神様の性質にかけて祈ることです。神様の愛、神様に愛されているものとして祈り叫ぶことです。神様のみなが汚されて良いのでしょうか?そんなわけは無いのです。
②そして、自分が神様に買い取られた重大な神様の民としてアイデンティをもって祈ることです。クリスチャンが蔑まれるのはキリストを下げてはいけません。
③そして、神様の聖所を回復してください、と祈ることです。
私が、神様のご性質を思い出して、それにかけて祈ることです。また、自分が神様に買い取られたものであることを主張し、思い出すときに決して自分の人生を投げやりにすることは出来ません。私は神様のみなを宣言する大事な、素晴らしい人材なのです。代表なのです。
自暴自棄になって罪を犯すことは出来ません。なぜなら、素晴らしい神様に主イエス・キリストの十字架によって買い取られたものであるからです。神様の聖所なる私が汚されて良いのでしょうか?敵のために?自分の罪のために?また、サタンの暴力のために?はたして、サタンが神様よりも強いのでしょうか?今日、神様のご性質にかけて祈り叫びます。神様のためにこの聖所なる私を回復します。主に用いられる人生を歩みます。

火曜日, 4月 28, 2009

神様の目から私の人生の計画を見よ


詩篇73:15-28
もしも 私が, 「このままを 述べよう. 」と言ったなら,確かに私は,あなたの子らの世代の 者を 裏切ったことだろう. 私は,これを知ろうと思い巡らしたが, それは,私の目には,苦役であった. 私は,神の
聖所にはいり,ついに,彼らの最後を悟った. まことに, あなたは 彼らをすべりやすい所に置き,彼らを滅びに突き 落とされます. まことに, 彼らは, またたくまに 滅ぼされ, 突然の恐怖で滅ぼし盡くされましょう. 目ざめの夢のように, 主よ, あなたは,奮い立つとき,彼らの姿をさげすまれましょう.私の心が苦しみ, 私の 內なる思いが突き刺されたとき,私は、愚かで,わきまえもなく、あなたの前で獣のようでした.しかし私は絶えずあなたとともにいました.あなたは私の右の手をしっかりつかまえられました.
真面目なクリスチャンの悩みの話を昨日は黙想しました。確かに、私たちには、悪人の最後を今すぐ見ることが無いかもしれません。自分にとって難しい、苦しい状況にて、理解しがたい状況において、またどこにいったら良いのか分からないとき、何を求めるべきでしょうか?今日の詩篇はこう言います。神様の近くにいることが幸福である、神様の聖所にいるのが最高であると。具体的に何か言うのでなくて、まずは神様と共にいなさい、神様の心を知りなさい、と言われます。神様と共にいる人に、神様を苦しみの中で礼拝する人に、神様の心を知る人に、神様は使命を任せられます。神様の夢を共に見て、共に働こう、と言われます。
1:神様の視点で私の人生を状況を見る必要があります。神様は悪人を決して良くは見ておられません。その神様の視点を診るときに、信じるときに神様の裁きのとき方法に任せます。
2:しかし、それすらも私の人間の力では出来ません、忍耐が難しく、わきまえの無い獣のようです。そんな私を神様は右の手で捕らえてくださいます。それを信じているでしょうか。
3:天でも地でも主なる神様だけを待ち望んでいるでしょうか。それとも、人間的に誰かを待っているのでしょうか。
4:主なる神様ご自身が、永遠に残るものだけを祝福、遺産として下さるのにそれ以外のものを期待していないでしょうか。
5:神様の永遠の視点で私の人生の計画、タイムスケジュールを見るべきでないでしょうか。
6:神様が近くにいる人生は、人から離れた非現実的な人生ではありません。人の真ん中に神様は折られるのです。
7;悪人の最後を知るよりも大事なことは、そんなことよりももっと大事なことは、神様と共にいること、そして神様のなされるみわざ、裁きのことを信じ委ねることです。
神様は私と絶えず共にいてくださる方です。共にいて楽しい人生を送っているのでしょうか?自分は共にいる神様に喜んでいただく人生を、この忍耐の時にも持っているでしょうか。神様に相談しているでしょうか?神様の解決を、勝利を期待しているのでしょうか。神様の近くにいる人生を歩みます。

月曜日, 4月 27, 2009

真面目な人の悩み

詩篇73:1-14まことに神は,イスラエルに,心のきよい 人たちに, いつくしみ深い. しかし, 私自身は,この足がたわみそうで, 私の 步みは, すべるばかりだった. それは,私が 誇り高ぶる者をねたみ,惡者の榮えるのを見たからである. 彼らの死には,苦痛がなく,彼らのからだは,あぶらぎっているからだ. 人々が苦勞するとき, 彼らはそうではなく,ほかの人のようには打たれないまことに 神は, イスラエルに,心のきよい人たちに, いつくしみ深い. しかし, 私自身は,この足がたわみそうで, 私の步みは, すべるばかりだった. それは,私が誇り高ぶる者をねたみ, 惡者の 榮えるのを見たからである.彼らの死には,苦痛がなく,彼らのからだは, あぶらぎっているからだ. 人¿が苦勞するとき, 彼らはそうではなく, ほかの 人のようには打たれない. .こうして彼らは言う. 「どうして 神が 知ろうか. いと高き方に知識があろうか. 」 見よ. 惡者とは, このようなものだ. 彼らはいつまでも安らかで、富を增している. 確かに私は,むなしく心をきよめ,手を洗って, きよくしたのだ.
クリスチャンは、真面目な人が多いことと思います。また、善悪に対する倫理観がはっきりしている人が多いと思います。そういう中で、今日の詩篇はまさにぴったりの中身です。悪人が何故栄えるのか?なぜ、神様は裁かれないのか?何故義人が苦しい目を見て神様はほって置かれるのか?
①神様の目は、注目は、悪人にあるのでありません、私にあります。こういう悪い人や難しい人を通して、私が正しく生きれるのか?注目や大事なのは私なのです。ですから、神様の教えは、私に
②比較しないクリスチャンになること、横を見て歩みクリスチャンでなくて、神様を見るクリスチャンになることを願われます。
③どうぞ、比較するのなら、あなたが神様にある成功への価値観を持つことを願われます。それは、神様と共にいることが、きよく生きることが人生最高の祝福、財産であることを、地上での天国であることを知り、逆に、神様と共にいないことは全ての財産を持っていても、一番大事なものを持っていない地上での地獄への道を歩んでいることを知るべきなのです。
④私は、主イエスだけ満足している人生を歩んでいるのでしょうか。それとも、ほかの事で心や人生の時間を満たしている人なのでしょうか。
⑤悪者と私たちクリスチャンの人生のGOALを見ていくはっきりとした信仰の目を持たないといけません!
⑥神様のときと方法に任せる信仰はあるのでしょうか?わたしは神様より有能で、知恵があるのでしょうか?
⑦全能の神様の裁きを任せることがはるかに恐ろしいのです。
⑧神様に任せる信仰を育てられます。どうしたら、答えが出るのでしょうか?明日のリビングライフにある答えを見るべきででしょうか?そうではありません。
⑨深い神様の臨在ある礼拝、関係へと入っていくべきなのです。
真面目なクリスチャンの悩みは、主の臨在の中でもっとすごい答えが出ます。JESUS IS MY ANSWERです。私の人生、悩み、経済的な心配、神様の中に答えがあります。悪人の栄えることよりも、私に注目してくださる主イエスを賛美します。

日曜日, 4月 26, 2009

愛によってお願いせよ

ピレモンへの手紙1:8-25
私は,あなたのなすべきことを,キリストにあって少しもはばからず命じることができるのですが,こういうわけですから, むしろ愛によって,あなたにお願いしたいと思います.年老いて, 今はまたキリスト · イエスの囚人となっている私パウロが,獄中で生んだわが子オネシモ のことを,あなたにお願いしたいのです.彼は,前にはあなたにとって役に立たない者でしたが,今は,あなたにとっても私にとっても,役に立つ者となっています.そのオネシモを,あなたのもとに送り返します.彼は私の心そのものです. 私は,彼を私のところにとどめておき, 音のために獄中にいる間,あなたに代わって 私のために 仕えてもらいたいとも 考えましたが, あなたの同意なしには何一つすまいと思いました.それは,あなたがしてくれる親切は强制されてではなく,自發的でなければいけないからです. 彼がしばらくの間あなたから離されたのは,たぶん,あなたが彼を永久に取り戾すためであったのでしょう. もはや奴隷としてではなく,奴隷以上の者,すなわち,愛する兄弟としてです. 特に 私にとってそうですが,あなたにとってはなおさらのこと,肉においても主にあっても,そうではありませんか.ですから, もしあなたが私を親しい友と思うなら,私を迎えるように彼を迎えてやってください.もし彼があなたに對して損害をかけたか,負債を負っているのでしたら,その請求は 私にしてください. この手紙は私の自筆です.私がそれを支拂います.··あなたが今のようになれたのもまた, 私によるのですが, そのことについては 何も 言いません. ·· そうです.兄弟よ。私は、主にあって,あなたから益を受けたいのです.私の心をキリストにあって,元氣づけてください.私はあなたの從順を確信して,あなたにこの手紙を書きました.私の言う以上のことをしてくださるあなたであると,知っているからです. それにまた,私の宿の用意もしておいてください.あなたがたの祈りによって,私もあなたがたのところに 行けることと思っています. キリスト · イエスにあって私とともに囚人となっているエパフラス が, あなたによろしくと 言っています. 私の同勞者たちであるマルコ ,アリスタルコ ,デマス ルカ からもよろしくと 言っています. 主イエス · キリストの惠みが,あなたがたのとともにありますように.
クリスチャンは強制する人でありません。自ら愛によって謙遜にお願いする人です。そうする権威があっても、それを使うのでなくて、愛を持って自発的に、そして最高のものを、最高のアイデァを出す人です。人を支配するのでなく、愛を持って生きる人なのです。それを受けた人は自発的な従順を持って答える人です。今日の使徒パウロは十分にその愛するしもべのために、愛する息子オネシモを得た人は、いやそのように許し、愛し、受け入れ、回復させたパウロは、愛する息子のために「まことの回復の道」を用意します。正直言って、あまり向き合いたくない過去、現実、償わないといけない過去、そしてそれを許し、愛する必要があります。オネシモ、ピレモン、そして彼にイエス・キリストを伝え、信者へと導き、弟子としていったパウロにとっても難しい話だったでしょう。また、オネシモがピレモンに合いに行く道はどんな道だったでしょうか、決して楽でなかったでしょう。しかし、キリストの囚人はもはや罪に縛られません。まことの自由を得ます。ですから、回復への道として過去の罪、そしてゆるしへとお互いに向き合ったのです。キリストの囚人となった人は、そのように社会での関係も回復することを知ります。それでこそ、まさに本当に奴隷以上の存在として、パウロもピレモンも教会の人々もオネシモを得ることが出来ます。このようなミニストリーが現在の教会に必要でないでしょうか。わたしたちにとって、自由を、解放を、回復を得るミニストリーをしていきます。そのような教会を建てあげていきます。

土曜日, 4月 25, 2009

獄中でも生きた交わりを伝えよ

ピレモン1:1-7
キリスト · イエス の 囚人である パウロ , および兄弟テモテ から, 私たちの 愛する 同勞者 ピレモン へ. また,姉妹アピヤ ,私たちの戰友アルキポ , ならびにあなたの 家にある 敎會へ. 私たちの 父なる 神と 主 イエス · キリスト から, 惠みと 平安があなたがたの 上にありますように. 私は, 祈りのうちにあなたのことを 覺え, いつも 私の 神に 感謝しています. それは,主イエスに對してあなたが 抱いている
信仰と, すべての 聖徒に 對するあなたの 愛とについて 聞いているからです. 私たちの 間で キリスト のためになされているすべての 良い 行ないをよく知ることによって,あなたの 信仰の 交わりが 生きて働くものとなりますように. 私はあなたの 愛から多くの喜びと慰めとを 受けました. それは,聖徒たちの心が,兄弟よ,あなたによって力づけられたからです.
使徒パウロは監獄の中にあっても、喜びを伝えようとしました。その信仰の実力がありました。何故でしょうか?神様への信仰を持つと必ず、聖徒への愛へと動くからです。使徒パウロはクリスチャンのアイデンティを紹介します。それは、「キリストの囚人」と紹介します。愛によって結び合わされている囚人なのです。お金でもなく、権力でもなく、利益でもなく、与える愛なのです。この世の中の関係で探すのが難しいものです。しかし、似ているものがあります。何でしょうか?家族です。家族は、夫と妻は、父と息子、母と娘は愛によって結び合わされているものです。神様が結婚の制度を与えられたのです。教会は、神様への信仰そして、兄弟姉妹への愛が生きてはたらい場所にならないといけないのです。これは、自然になるものでなくて信仰にある成長そして、キリストのために生きた交わりがあってこそ、なされていくものです。使徒パウロは、その信仰、キリストのためによい行いを知ることによって、生きた行いになるように自分は監獄にいながらメッセージを伝えているのです。普通人は自分に余裕があるときに行動したり、愛を送ることが出来ます。しかし、神様との関係が愛によってキリストの囚人である人はそれができます。使徒パウロは世の中のお金や名声や異性の奴隷でありませんでした。私はどうでしょうか。世の中の奴隷になっているのでしょうか?それとも、キリストの囚人であるのででしょうか?クリスチャンの信仰も、教会は自然に成長するものでありません。それは、素晴らしいGOOD NEWSが伝えられないいけません。今日、キリストの囚人として素晴らしい霧巣のための行いを伝え、生きた交わりをしていきます。

金曜日, 4月 24, 2009

全世界の人々が主を礼拝する

イザヤ66:18-24
「わたしは, 彼らのわざと,思い計りとを知っている. わたしは、すべての国々と種族とを集めに 來る.彼らは來て,わたしの榮光を見る. わたしは彼らの中にしるしを置き,彼らのうちののがれた者たちを諸國に遣わす. すなわち, タルシシュ , プル , ルデ , メシェク , ロシュ , トバル ,ヤワン ,遠い島¿に.これらはわたしのうわさを聞いたこともなく, わたしの榮光を見たこともない. 彼らはわたしの 榮光を諸國の民に告げ知らせよう. 彼らは,すべての国々から,あなたがたの 同胞をみな,主への贈り物として, 馬, 車, かご, ¿馬,らくだに乘せて,わたしの聖なる山, エルサレムに連れて來る. 」と 主は 仰せられる. 「それはちょうど, イスラエル人がささげ物をきよい器に入れて主の宮に携えて來るのと同じである. わたしは彼らの中からある者を選んで祭司とし,レビ人とする.」と主は仰せられる. 「わたしの造る新しい天と新しい地が,わたしの前にいつまでも續くように,··主の御告げ. ··あなたがたの子孫と, あなたがたの名もいつまでも續く. 每月の新月の祭りに, 每週の安息日に, すべての人が,わたしの前に禮拜に來る.」と主は仰せられる. 「彼らは出て行って,わたしにそむいた者たちのしかばねを見る.そのうじは死なず,その火も消えず,それはすべての人に,忌みきらわれる.」
今朝の聖書の御言葉は、非常に興味深い御言葉でした。と言うのは、現在セミナーで聖書一読学校というのを学んだのですが、今日の聖書のみ言葉に出てくる部族の名前が出てきたからです。タルシシュとは現在のスペイン、トバルとメシェクとは小アジアに東側にいるロシア族の起源, ヤワンはギリシャ族 などを学んだところです。この御言葉を読みながら、全ての国々が、全世界に伝道され、そしてまことの神様のみに仕え、礼拝し、集まる姿が黙想できました。何と素晴らしい光景でしょう。スペインは当時世界の果てでした。それは、使徒パウロがローマ人の手紙で最後に伝道に行きたい伝えた箇所があります。聖書に書いていないのですが、おそらく使徒パウロが神様の福音を伝えたであろう場所です。神様の計画はそのように御旨をなされるのです。個人的には、スペインに行ったことがあり、スペインにある日本語で聖書を読む会に参加させていただいたことがあり、親近感があり、日々祈りに覚える国です。日本人の方々がスペインで礼拝をし、仕えている姿を見ました。本当に大きな感動と恵みを受けました。スペインから、全世界の人々が礼拝をするその日まで私は何を持ってささげれば良いのでしょうか。また、自分自身がささげられる清い生きたささげ者となっているのでしょうか。そうでなければ、決して全世界の人々が来る礼拝に出れません。また、最高の状態で全世界の人が礼拝をする礼拝に出たいのでないでしょうか。全世界の人が礼拝をするために、世界宣教する教会に仕え、建てあげていきます。スペインのためにも祈ります。そして、自分自身がきよい生きた供え物となっていきます。遠い島々からも、主イエスのみなを賛美する日が来ます!

木曜日, 4月 23, 2009

神様のみ旨を持つだけで喜び喜べ


イザヤ66:7-17
彼女は産みの苦しみをする前に産み, 陣痛の起こる前に男の子を産み 落とした. だれが,このような事を聞き,だれが,これらの事を見たか.地は一日の陣痛で 産み 出されようか.國は一瞬にして生まれようか. ところがシオンは,陣痛を起こすと同時に子らを産んだのだ.
「わたしが 産み 出させるようにしながら, 産ませないだろうか. 」と主は仰せられる. 「わたしは産ませる者なのに,胎を閉ざすだろうか.」とあなたの 神は 仰せられる. エルサレムとともに喜べ. すべてこれを愛する者よ.これとともに樂しめ.すべてこれのために悲しむ者よ.これとともに喜び喜べ. あなたは,彼女の慰めの乳房から乳を飮んで飽き足り,その豊かな乳房から吸って喜んだからだ.
主はこう仰せられる.「見よ.わたしは川のように繁榮を彼女に與え,あふれる流れのように國¿の富を與える.あなたがたは乳を飮み,わきに抱かれ,ひざの上でかわいがられる.
母に 慰められる 者のように, わたしはあなたがたを 慰め, エルサレム であなたがたは 慰められる. あなたがたはこれを 見て, 心喜び, あなたがたの 骨は 若草のように 生き 返る. 主の御手は, そのしもべたちに 知られ,その憤りは敵たちに 向けられる. 」
見よ.まことに, 主は火の中を進んで來られる. その戰車はつむじ風のようだ.その怒りを激しく燃やし,火の炎をもって責めたてる.
いよいよ、イザヤ書もクライマックスです。イスラエルの民が神様の御旨ならば、陣痛も起こらないうちに子が生まれる、という神様のみ旨は必ず、しかも迅速になるというメッセージを聞きます。それは、普通ありえるべきプロセスを飛び越えてなされる、というメッセージなのです。だから、神様は御旨を与えて、なされないことをするのか?と私に問われます。神様を愛する者よ、エルサレムを愛する者よ、共に喜べ、楽しめ、喜び喜べ、豊かなに飽き足りるからだ、と言われます。神様のビジョンを持つ者よ、神様のみ旨がなることを信じ、それがなされることを楽しみにせよ、それを味わって楽しめ、というのです。エルサレムである教会を楽しみ、愛せよと言われます。必ずなされるからだ、あなたは神様のビジョンを持っているだけど、今の現状が180度逆であっても喜び喜べ、と言われます。今日の日を神様に会って喜び喜びます。

水曜日, 4月 22, 2009

まことの礼拝は聞くこと

イザヤ66:1ー6
主はこう仰せられる. 「天はわたしの王座,地はわたしの足台. わたしのために, あなたがたの建てる家は,いったいどこにあるのか. わたしのいこいの場は, いったいどこにあるのか. これらすべては,わたしの手が造ったもの, これらすべてはわたしのものだ. ··主の 御告げ. ··わたしが 目を 留める 者は, へりくだって心砕かれ,わたしのことばにおののく 者だ. 牛をほふる者は,人を打ち殺す者.羊をいけにえにする者は,犬をくびり殺す 者. 穀物のささげ 物をささげる 者は, 豚の血をささげる 者. 乳香をささげる 者は, 偶像をほめたたえる 者. 實に彼らは自分かってな道を選び, その 心は 忌むべき 物を 喜ぶ. わたしも,彼らを虐待することを選び,彼らに恐怖をもたらす.わたしが呼んでもだれも答えず, わたしが 語りかけても 聞かず, わたしの目の前に惡を行ない,わたしの喜ばない事を彼らが 選んだからだ. 」 主のことばにおののく者たちよ.主のことばを聞け.「あなたがたを憎み,わたしの名のためにあなたがたを押しのける,あなたがたの同胞は言った.『主に榮光を現わさせよ.そうすれば,あなたがたの樂しみを見てやろう.』しかし,彼らは恥を見る.」聞け.町からの騒ぎ,宮からの聲,敵に報復しておられる主の御聲を.

私たちは礼拝をささげればいい、私たちは礼拝に出ていれば良い、私は大丈夫、という錯角に陥ることが無いでしょうか。クリスチャンとして生きた神様の関係でなくて、ただ、教会に通っていれば良い、こういうクリスチャン生活をしている、という外見だけのことに簡単に陥ることが無いでしょうか。神様は言われます。私の家はどこにあるのか?私の憩いの場はどこにあるのか?と言われます。私は大丈夫、あの人はこういう信仰で、こういうところが問題がある、という他人への問題提起もしくは、裁くようなことをしながら、自分は大丈夫と言う顔をします。神様は言われます。私が心留める者は「へりくだって心砕かれるもの、神様の言葉に恐れおののくものだ」と。私は果たしてそのような心砕かれたものでしょうか。神様の言葉を恐れ、人を裁く前に、自分を神様に正直に差し出しているものでしょうか。まことの礼拝は、神様のみ声を聞く謙遜な、正直な姿です。クリスチャンになればなるほど、その姿を探しにくいのはどうしたことでしょうか。本当は、信仰が深まれば深いほど、謙遜な姿になっていくのがクリスチャンで無いでしょうか。神様との生きた関係、礼拝がなされているのならば、それはCOMMNUCATIONであり、RELATIONSHIPのはずです。今朝、神様の前に聞く礼拝をします。また、罪の悔い改めと御声に従って歩みます。神様の声を聞く場所、礼拝の場所を建て上げていきます。

火曜日, 4月 21, 2009

人生のゴールを見据えて今日を決めよ!


イザヤ65:13-25
それゆえ,神である主はこう仰せられる. 「見よ. わたしのしもべたちは食べる. しかし, あなたがたは飢える.見よ.わたしのしもべたちは飮む. しかし, あなたがたは 渴く. 見よ. わたしのしもべたちは 喜ぶ. しかし, あなたがたは 恥を 見る. 見よ.わたしのしもべたちは 心の 樂しみによって喜び歌う. しかし, あなたがたは 心の 痛みによって叫び, たましいの 傷によって泣きわめく. あなたがたは自分の名を,わたしの選んだ者たちののろいとして 殘す. それで 神である 主は,あなたがたを殺される.ご自分のしもべたちを, ほかの 名で 呼ばれるようにされる. この世にあって
祝福される者は,まことの神によって祝福され,この世にあって誓う者は,まことの神によって誓う. 先の苦難は忘れられ, わたしの目からされるからだ.
見よ.まことにわたしは 新しい天と新しい地を創造する. 先の事は思い出されず, 心に上ることもない. だから,わたしの創造するものを,いついつまでも樂しみ喜べ.見よ.わたしはエルサレム を創造して喜びとし, その民を樂しみとする.
わたしは エルサレム を 喜び, わたしの 民を 樂しむ. そこにはもう, 泣き聲も叫び聲も聞かれない. そこにはもう,數日しか生きない乳飮み子も, 壽命の滿ちない老人もない. 百
で死ぬ者は若かったとされ,百にならないで死ぬ者は, のろわれた者とされる.
彼らは家を建てて住み, ぶどう畑を作って,その實を食べる.
彼らが建てて他人が住むことはなく,彼らが植えて他人が 食べることはない.わたしの民の 壽命は,木の壽命に等しく,わたしの選んだ者は,自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ. 彼らはむだに 勞することもなく, 子を 産んで, 突然その 子が 死ぬこともない. 彼らは 主に
祝福された 者のすえであり, その 子孫たちは 彼らとともにいるからだ.
彼らが 呼ばないうちに, わたしは 答え, 彼らがまだ 語っているうちに, わたしは 聞く.
狼と 子羊は 共に 草をはみ, 獅子は 牛のように, わらを 食べ, 蛇は, ちりをその 食べ 物とし, わたしの 聖なる 山のどこにおいても, そこなわれることなく, 滅ぼされることもない. 」と 主は 仰せられる.
私たちの人生は、ゴールを見据えて進まないといけません。私の現在の状況は、苦しく見えても神様の将来の約束をつかんで進まないといけません。神様の新天新地を、悲しみの無い日を待ち望みながら、神様が私を喜んでくださることを(それは未来だけでなく、現在も)知って今日を歩んでいかないといけません。神様はあなたを食べ、飲ませ、喜ばせる、とあります。しかし、主のしもべで無い人は恥を見る、とあります。私はどのような人生を歩みたいでしょうか。どのような人生の節々の選択をするのでしょうか。この世における祝福は、神様にある祝福であるといわれます。神様に喜ばれる選択をしているのでしょうか?また、神様にある御言葉を信じているんでしょうか?後半には、私たちの寿命は木の寿命のように何百年、何千年となる、狼と羊が仲良くなる、とまるで神話か、御伽噺のように聞こえる御言葉があります。これももちろん、真実です。私たちの現実と神様の真実があまりに遠く聞こえるときがあるかもしれません。しかし、わたしたちは時に真実でなくても、神様はいつもどこでも永遠に真実な方です。神様の創造されたものをいつまでも喜ぶ人生をつかんでいるでしょうか。私を喜んでくださるのに、私はぶすっとした人でいいのでしょうか。神様の下さったものや状況に感謝し、更に待ち望んだ心で歩んでいきます。他人に摂取されるものも無い、と言われます。私の労したものを正しく楽しむことが出来るといわれます。今日は、神様にある喜びの笑顔を持って生きていきます。出会う人に神様の祝福をつかんだ人として笑顔で接していきます。

月曜日, 4月 20, 2009

fire fall down

イザヤ65:1-12
わたしに問わなかった者たちに, わたしは 尋ねられ, わたしを搜さなかった者たちに,見つけられた. わたしは,わたしの 名を 呼び 求めなかった國民に向かって, 「わたしはここだ, わたしはここだ.」と言った. わたしは,反逆の民, 自分の 思いに 從って 良くない道を步む者たちに, 一日中, わたしの 手を差し伸べた. この民は, いつもわたしに 逆らってわたしの 怒りを引き起こし,園の中でいけにえをささげ, れんがの上で香をたき, 墓地にすわり, 見張り小屋に宿り,豚の肉を食べ,汚れた肉の吸い物を器に入れ, 「そこに立っておれ. 私に近寄るな. 私はあなたより 聖なるものになっている. 」と 言う. 「これらは,わたしの怒りの煙,一日中燃え續ける火である. 見よ.これは, わたしの 前に 書かれている. わたしは默っていない. 必ず 報復する. わたしは彼らのふところに 報復する. ·· 山の上で香をたき,丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と,あなたがたの
先祖の 咎とをともどもに. わたしは,彼らの先のしわざを量って,彼らのふところに,報復する. 」と 主は 仰せられる. 主はこう仰せられる.「ぶどうのふさの中に甘い汁があるのを 見れば, 『それをそこなうな. その中に祝福があるから. 』と言うように,わたしも,わたしのしもべたちのために,その全部は滅ぼさない.
わたしは,ヤコブから子孫を,ユダからわたしの山¿を所有する者を生まれさせよう.わたしの 選んだ 者がこれを 所有し, わたしのしもべたちがそこに住む. わたしを 求めたわたしの 民にとって, シャロン は 羊の 群れの 牧場, アコルの谷は牛の群れの伏す所となる.
しかし,あなたがた,主を捨てる者,わたしの聖なる山を忘れる者, ガドのために食卓を整える者, メニのために,混ぜ合わせた酒を盛る者たちよ. わたしはあなた方を劍に渡す. それであなたがたはみな,虐殺されて倒れる.わたしが呼んでも答えず, わたしが語りかけても 聞かず, わたしの目の前に惡を行ない,わたしの喜ばない事を選んだからだ.」

今朝のイザヤ書のみ言葉は、神様の裁きについてです。①宗教行為だけをして自分を聖なるものと自らを自称する、自らを偽るものへの神様の裁きが言われます。神様は外側の行動、行為を見るのでなく、内側の動機を問われる方です。ですから、律法を行えばいい、という宗教よりはるかに難しいものです。→はたして、私の信仰生活は動機の無い、心の無いものになっていないでしょうか? ②また、神様は私たちを裁かれますが、許し哀れみと回復を残してくださる方です。一日中手を差し伸べてくださる方です。そんな人がこの世の中の何所にいるのでしょうか。いません、主お一人だけです。→私はいつも手を差し伸べされている主イエスの前に悔い改め、感謝して、出て行っているでしょうか。③神様の裁きを恐れて歩んでいるでしょうか→本当に私が恐れるべき方、権勢は誰で、どこでしょうか。神様は、主に喜ばれないことを選んでいないか?私に呼ばれても答えず、私に語れても答えず、と今日も私に罪の悔い改めを願われます。毎日、罪の悔い改めを迫られて嫌になったしまう、という人もいるかもしれません。しかし、これは神様の愛です。世の中では罪を犯しても、ほっておかれます。しかし、神様のみては一日中、差し伸べられるのです。何と言う愛でしょうか。その神様の愛は、私のわがままな思いや、罪を焼き尽くします。昨日の教会での賛美の中に、FIRE FALL DOWNという賛美がありました。私の中の罪を焼き尽くし、清め、祈ることが出来るように、神様の前に出れるようにして下さる主イエスのみなを賛美します。今日,神様のFIRE FALL DOWNによって祈って歩みます。人の火でなく、神様の火が下ることを祈ることを願います。

日曜日, 4月 19, 2009

日本が主イエスを恐れる日が来る!

イザヤ64:1-12
ああ, あなたが天を裂いて降りて來られると, 山¿は御前で揺れ 動くでしょう. 火が柴に燃えつき, 火が水を沸き立たせるように,あなたの御名はあなたの敵に知られ,國¿は御前で震えるでしょう. 私たちが予想もしなかった 恐ろしい 事をあなたが 行なわれるとき,あなたが降りて來られると, 山¿は 御前で ¿れ 動くでしょう. 神を待ち望む者のために, このようにしてくださる 神は, あなた 以外にとこしえから 聞いたこともなく,耳にしたこともなく, 目で 見たこともありません. あなたは迎えてくださいます. 喜んで正義を行なう者,あなたの道を步み,あなたを忘れない者を.ああ, あなたは 怒られました. 私たちは昔から罪を犯し續けています. それでも私たちは救われるでしょうか. 私たちはみな,汚れた者のようになり, 私たちの 義はみな,不潔な着物のようです.私たちはみな,木の葉のように枯れ, 私たちの 咎は 風のように 私たちを吹き上げます. しかし, あなたの御名を呼ぶ者もなく,奮い立って, あなたにすがる 者もいません. あなたは私たちから御顔を隱し,私たちの咎のゆえに,私たちを弱められました. しかし,主よ、今,あなたは私たちの父です.私たちは粘土で,あなたは私たちの陶器師です.私たちはみな,あなたの 手で 造られたものです.
主よ. どうかひどく 怒らないでください. いつまでも, 咎を 覺えないでください. どうか 今, 私たちがみな, あなたの 民であることに 目を 留めてください.
あなたの 聖なる 町¿は 荒野となっています. シオン は 荒野となり, エルサレム は 荒れ 果てています.
私たちの
先祖があなたをほめたたえた 私たちの 聖なる 美しい 宮は, 火で 燒かれ, 私たちの 寶とした物すべてが荒廢しました.
主よ.これでも,あなたはじっとこらえ, 默って, 私たちをこんなにも 惱まされるのですか.

私たち日本人は、いや外国人の方も日本が神様を恐れる日が来るのか?考えてみると、それは遠い日だと思ったり、もしくは日本にはその日は難しいとか、考えることがあるのでないでしょうか?しかし、聖書は、神様は、言われます。全世界の民が神様を恐れ、神様のみ前に震える日が来るとあります。神様を待ち望む人にこのように奇跡をしてくださる神様は居ないとあります。私は、私たちはそのような神様に期待して祈っているでしょうか。また、私たちの罪を正直に告白して、神様のご性質にすがって、神様の約束を握って、絶えず、たゆむことなく祈っているでしょうか。神様の素晴らしいご性質を、愛して、祈っているよりは、難しい現実にうずまっていることは無いでしょうか。日本に、日本の地に、日本人に、神様の素晴らしい御業が来ることを信じ、祈りたいと思います。また、自分自身の中に素晴らしい神様の奇跡を見ることなくしては、どうして、日本人に、日本の地上に、全世界へ奇跡を期待できるでしょうか?神様の奇跡を私のうちになされることを期待します。また、日本が主イエスを恐れ、全世界が主イエスの前に震える日を待ち望みます

土曜日, 4月 18, 2009

逆境の日に神様の約束を思い出せ!

イザヤ63:7-19
私は,主の惠みと,主の 奇しいみわざをほめ 歌おう. 主が 私たちに 報いてくださったすべての事について, そのあわれみと, 豊かな 惠みによって 報いてくださった イスラエル の 家への豊かないつくしみについて. 主は仰せられた. 「まことに 彼らはわたしの民,僞りのない子たちだ.」と. こうして, 主は彼らの救い主になられた. 彼らが苦しむときには,いつも主も苦しみ, ご 自身の 使いが 彼らを救った.その愛とあわれみによって主は彼らを ·い,昔からずっと,彼らを背負い,抱いて來られた. しかし,彼らは逆らい,主の聖なる御を痛ませたので, 主は彼らの敵となり,みずから彼らと戰われた.そのとき主の民は,いにしえのモ―セの日を思い出した. 「羊の群れの牧者たちとともに,彼らを海から上らせた方は,どこにおられるのか.その中に主の聖なる御を置かれた方は,どこにおられるのか.その輝かしい御腕をモ ― セの右に進ませ,彼らの前で水を分け,永遠の名を成し, 荒野の中を行く馬のように,つまずくことなく 彼らに深みの底を步ませた方は, どこにおられるのか. 家畜が谷に下るように,主の御が彼らをいこわせた.」このようにして,あなたは,あなたの民を導き,あなたの輝かしい御名をあげられたのです. どうか,天から見おろし,聖なる輝かしい御住まいからご覽ください.あなたの熱心と,力あるみわざは, どこにあるのでしょう. 私へのあなたのたぎる思いとあわれみを, あなたは押えておられるのですか. まことに, あなたは 私たちの 父です. たとい, アブラハム が 私たちを 知らず, イスラエルが私たちを 認めなくても, 主よ, あなたは, 私たちの 父です. あなたの 御名は, とこしえから私たちの救い主です. 主よ. なぜあなたは,私たちをあなたの 道から 迷い 出させ, 私たちの心をかたくなにして, あなたを 恐れないようにされるのですか. あなたのしもべたち, あなたのゆずりの地の部族のために,どうかお歸りください. あなたの聖なる民がこの地を所有して間もなく,私たちの敵は,あなたの聖所を踏みつけました. 私たちは, とこしえからあなたに支配されたことも,あなたの御名で呼ばれたこともない 者のようになりました.

苦しいときに、難しいとき私たちは何を黙想しやすいでしょうか?現状や悪い場合の未来で無いでしょうか。心配や悩みで無いでしょうか。逆に、何を黙想しにくいでしょうか。何もしなくいでしょうか。それは、神様の恵み、あわれみ、奇跡の(くす)しい技です、感謝であり、賛美です。神様のみ言葉の約束の宣言です。人を恐れます、実は難しい現実に逃避しているのです。神様のひりひりした御言葉の現実に向かっていかないのです。また、祈りの答えを早くもらうためにはどのようにしたらいいのでしょうか?それは、神様の性質にかけて祈ることです。今日の聖書箇所は、イスラエルの民(クリスチャン)が苦境の中で神様の愛を黙想し、宣言し、賛美している箇所です。彼らは神様の愛を「あがない、背負い、抱きしめられた」と言います。そして、偽りのある、罪のある私たちを義としてくださったことを告白し、自分たちのアイデンティをもう一度確認し、告白します。私たちは、現実が難しいときに必要なのは神様の民であること、神様の子供は決していい加減に扱われないことを忘れがちなときに、もう一度確認し、宣言するべきです。それは、私の感情によってすることでなく、神様に対する信仰によって告白し、神様のご性質を思い出してすることなのです。神様のご性質は、義であり、真摯であり、裏切ることの無い、失敗の無い、計画を持って、愛を持って、神様の栄光にかけて祈るのです。そして、神様の民がどのような目にあっているのか?主に会って祈ることです。あなたと私はどのような関係であるのか?神様は救い主であることを告白しています。今日、主に会って祈っていきます。モーセの日を(主がエジプトから葦の海を二つに分けて渡らせてくださった、罪から救いだされた奇跡)を思い出し、さんびし、感謝します。

金曜日, 4月 17, 2009

主にあがなわれた者、見捨てられない町


イザヤ62:10-63:6
エルサレムよ.わたしはあなたの
城壁の 上に 見張り 人を 置いた. ¿の 間も, 夜の 間も, 彼らは決して默っていてはならない. 主に覺えられている者たちよ. 默りこんではならない.主がエルサレムを堅く立て,この地でエルサレムを榮譽とされるまで,默っていてはならない. 主は右の手と,力强い腕によって誓われた. 「わたしは 再びあなたの穀物を,あなたの 敵に食物として與えない.あなたの勞して作った新しいぶどう酒を,外國人に決して 飮ませない.取り入れをした者がそれを食べて,主をほめたたえ, ぶどうを 取り 集めた 者が, わたしの聖所の庭で,それを飮む. 」 通れ,通れ,城門を.この民の道を整え,盛り上げ,土を盛り上げ, 大路を造れ.を取り除いて國¿の民の上に旗を揚げよ. 見よ主は,地の果てまで聞こえるように 仰せられた. 「シオン の 娘に 言え. 『見よ.あなたの救いが來る.見よ.その報いは主とともにあり,その報酬は主の前にある 』と. 彼らは,聖なる民, 主に贖われた者と呼ばれ, あなたは, 尋ね 求められる 者, 見捨てられない町と呼ばれる. 」 エドムから來る者, ボツラから深紅の衣を着て來るこの者は,だれか.その着物には 威光があり,大いなる力をもって進んで來るこの者は.」「正義を語り,救うに力强い者,それがわたしだ.」「なぜ,あなたの着物は赤く, あなたの 衣は酒ぶねを 踏む 者のようなのか.」 「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ. 國¿の民のうちに,わたしと事を共にする者はいなかった. わたしは怒って彼らを踏み, 憤って彼らを踏みにじった. それで, 彼らの 血のしたたりが, わたしの衣にふりかかり,わたしの着物を, すっかり 汚してしまった.わたしの心のうちに復讐の日があり, わたしの贖い年が來たからだ.わたしは見回したが, だれも 助ける 者はなく, いぶかったが, だれもささえる 者はいなかった.そこで,わたしの腕で救いをもたらし, わたしの 憤りを, わたしのささえとした.わたしは,怒って國¿の民を踏みつけ, 憤って 彼らを 踏みつぶし, 彼らの血のしたたりを地に流した. 」
神様は主イエスを通して、イスラエルの民をあがないだして下さった方です。神様は、私たちを主イエスの血の十字架によって罪をあがないだして下さった方です。その方が言われます。「あなたを主にあがなわれた者、見捨てられない町」と。私はそのような神様の宣言を信じて生きているのでしょうか?それとも、日々来る世の中の私を否定する声、もうあなたは駄目だ!という声に、自分は選択してしまうのでしょうか。神様は、あなたは道を造れ、大路を作れ、国々の民に旗を揚げよ、と言われます。私の人生にとって、大きなチャレンジです。まさに、自分の道や人間の方法、人間に頼ることは全て裏切られます、しかし、ただ主イエスだけに頼ることを教えられます。神様の救い、キリストの救いを伝えるために旗を揚げよ、道を造れ、と言われます。この日本人の人々に霊的な障害、石を取り除いて、主のあがないを伝えよといわれます。私がそれに仕えるときに、頼る方は主イエスのみです。救うに力強い者、それが主イエスです。また、今日の聖書箇所にある神様の復讐とは何でしょうか?いつでしょうか?それは、人間のときや人間の方法ではありません。私が復讐するのでなく、神様が復讐するのです。そして、あがないは神様によって与えられた私のものです。神様の救い、あがないでないと駄目なのです。私にとって、救いは神様だけに頼っているのでしょうか?主の働きをするのに神様にだけ頼っているのでしょうか?神様の声だけを頼りに歩んでいるのでしょうか。あなたはみすてられない町、主に贖われたもの、と宣言するのは何と大きな祝福なのでしょうか。主に贖われた者、見捨てられない町に伝えていきます。主よ、そこに導いてください。主のあがないを北米にある日本人宣教のために仕えていきます。

木曜日, 4月 16, 2009

もはや黙っていてはならない

イザヤ62:1-9
シオンのために, わたしは 默っていない. エルサレム のために, 默りこまない. その義が朝日のように光を放ち, その救いが, たいまつのように燃えるまでは. そのとき,國¿はあなたの義を見,すべての王があなたの榮光を見る. あなたは, 主の口が 名づける新しい名で呼ばれよう.あなたは主の手にある輝かしい冠となり,あなたの神の手のひらにある王のかぶり 物となる. あなたはもう,「見捨てられている. 」と 言われず, あなたの國はもう, 「荒れ 果てている. 」とは言われない. かえって, あなたは「わたしの喜びは, 彼女にある. 」と 呼ばれ, あなたの國は夫のある國と呼ばれよう. 主の 喜びがあなたにあり, あなたの 國が 夫を 得るからである. 若い男が若い女をめとるように, あなたの子らはあなたをめとり, 花¿が 花嫁を 喜ぶように, あなたの 神はあなたを 喜ぶ. エルサレムよ. わたしはあなたの 城壁の上に見張り人を置いた. ¿の間も,夜の間も, 彼らは決して默っていてはならない.主に覺えられている 者たちよ.默りこんではならない. 主が エルサレム を 堅く 立て, この 地で エルサレム を 榮譽とされるまで, 默っていてはならない. 主は右の手と,力强い 腕によって 誓われた. 「わたしは 再びあなたの穀物を,あなたの敵に食物として 與えない. あなたの 勞して 作った 新しいぶどう 酒を,外國人に決して飮ませない. 取り入れをした者がそれを 食べて, 主をほめたたえ, ぶどうを取り集めた者が, わたしの 聖所の 庭で, それを 飮む. 」
神様に導かれる人は、弱い人ではありません。自分自身は弱い人であっても強く神様に導かれている人です。何故なら、神様は主の民のために、クリスチャンのために黙っている方ではないからです。たとえ、目に見える現実はぼろぼろであっても、決して神様は私のために黙っている方ではないのです。イスラエルが、クリスチャンがサタンに攻撃されてぼろぼろになった時は、心を痛み、回復されようとする方です。私の人生は、神様のみ手にある時に輝きます。自分の手で動くときは輝きません。自分の義で歩むときは難しい人間関係に悩みます。しかし、神様の手に(神様の計画に、神様の手によって創造されるときに)神様の冠となります。私はそれを信仰を持って待ち望んでいるでしょうか。お前は駄目だという声を退けているでしょうか。それは、ノンクリスチャンだけでなくて、クリスチャンからも聞こえるときもあります、主に覚えられているものは、黙ってはいけません。神様が黙っておられないからです。そして、私のアイデンティは「新しく主の名前で呼ばれているもの」だからです。古い自分、罪に縛られている自分、習慣に縛られている自分、古い神様のものであることを拒んでいた自分から抜け出していることを宣言しているでしょうか。自分の労したものを外国人、敵が飲まない、主にある人々が神様の栄光を見ながら、苦労を感謝しながら、祝福しながら飲むといわれているのです。神様の働きをしたものは正しく報いを得、神様の前に礼拝する喜びを得ます。新しい人生を歩み、現実にある敵に、信仰を持って神様の人生、計画を宣言して歩みます。

水曜日, 4月 15, 2009

あなたの根はどこにあるのか?

イザヤ61:1-11
神である主のが, わたしの 上にある. 主はわたしに 油をそそぎ, 貧しい者に良い知らせを 傳え,心の傷ついた 者をいやすために, わたしを 遣わされた. 捕われ人には解放を, 囚人には 釋放を告げ, 主の惠みの年と,われわれの神の復讐の日を告げ,すべての悲しむ者を慰め, シオンの悲しむ者たちに,灰の代わりに頭の飾りを,悲しみの代わりに喜びの油を,憂いの心の代わりに贊美の外套を着けさせるためである. 彼らは,義の樫の木,榮光を現わす主の植木と呼ばれよう. 彼らは昔の廢墟を建て直し,先の荒れ跡を復興し,廢墟の町々,代よの荒れ跡を 一新する. 他國人は, あなたがたの羊の群れを飼うようになり,外國人が,あなたがたの農夫となり, ぶどう 作りとなる.
しかし, あなたがたは主の祭司ととなえられ, われわれの 神に 仕える 者と 呼ばれる. あなたがたは国々の力を食い盡くし,その富を誇る.
あなたがたは恥に代えて,二倍のものを受ける.人々は侮辱に代えて,その分け前に喜び歌う.それゆえ、その國で二倍のものを所有し, とこしえの喜びが彼らのものとなる.
まことに,わたしは公義を愛する主だ. わたしは不法な略奪を憎む.わたしは
誠實を盡くして彼らに報い, とこしえの契約を彼らと結ぶ.彼らの子孫は國¿のうちで, 彼らのすえは國¿の民のうちで知れ渡る.彼らを見る者はみな,彼らが主に祝福された子孫であることを認める. わたしは主によって大いに樂しみ, わたしのたましいも, わたしの 神によって 喜ぶ. 主がわたしに,救いの衣を着せ,正義の外套をまとわせ, 花¿のように 榮冠をかぶらせ, 花嫁のように寶玉で飾ってくださるからだ.地が芽を出し,園が蒔かれた種を芽生えさせるように,神である主が義と 贊美とを, すべての國の前に芽生えさせるからだ.
私たちの人生は、どこで実を結ぶ人生か?忙しく生きていても実を結ばない人生か?どのようにして決まるのでしょうか。それは、自分の人生をどこに基礎を置くのか?によって決まります。いかに素晴らしい情報や人間関係や、成功要因を持っていても、基礎が無い人は根無し草のような、あちこちいったり来たりする人生で終わります。それは、主イエスに、神様に自分の人生を置くのかどうかによって決まります。私たちは、そこに永遠の価値を置いて生きているのでしょうか?それとも、神様に土台を置くふりをしているだけなのでしょうか。神様は言われます。「あなたに油を注ぎ、貧しい者に福音を伝えさせ、義の樫の木、栄光を現す主の植木とする」と。その祝福の約束を下さる方に信じ、そのような者となりたいと願っているのでしょうか。今朝、「主に油注がれたもの」となる御言葉を読みながら、感動と恵みを受けていたのですが、ふと思いました。果たして、どれほどのクリスチャンがこれを読んで感動して、恵みを受けているのか?思いました。非常にチャレンジのあることでないかと思いました。「昔の廃墟を立て直し」と御言葉にある時、これは霊的に荒れ果てた状態の町々、人々でないかと思いました。事実イスラエルの民は神様に選ばれた民でありながらも、クリスチャンでありながらも、神様を離れた結果、荒れ果てた人々、建物、町となっていたのです。私たちの人生もそうでないでしょうか?神様を離れていた結果、ぼろぼろの人生を自分の力だけで生きてきました。そして、何とか歩んでいることも正直に話せずに、なれずに歩んできました。主に会って喜ぶ人生を送るよりは、自分の楽しみを追求して苦しい人生を歩んできました。また、経済的なことにおいても自分の力で、また世の中にあわせないと出来ないと、自分に目をつぶっていや神様は見ておられます。神様は従うものに経済的な祝福を与えるといわれます。それを信じているでしょうか。それとも、日常と信仰生活を分けているのでしょうか。神様はそれでも、あなたを愛している、あなたのぼろぼろの人生を憂いの変わりに賛美を、喜びの油を、恥に代えて2倍のものを与える、といわれます。それでもあなたを愛しているし、あなたの人生を最高にいいもので満たす、と言われるのです。それを日々受けているのでしょうか。今朝、私に与えられた恵みは、この祝福を得ることをまず自分がすること、癒され、自由になり、神様の油注ぎを受ける者にますますなることを渇望していくこと。それを伝える働きをするものとして、主イエスの弟子訓練をしていくものとして仕えること。神様の祭司となることをどれほど祝福と幸福のある人生であるのか?最も、あなたらしく生きる人生であることを教え、伝え、自分の人生から証しできるのか?神様に祝福された人生を受けていきます。自分の力で生きることを辞めます。そして、その祝福を受けていきます。

神様の回復は、以前の何万倍だ

イザヤ60:10-22
今朝のみ言葉は、神様の回復の約束です。どのような恵みが私にあったのかと言うと。
①外国人が「城壁を建て直し」助ける(10)とあります。城壁は敵には、外国には必要の無いもです。かえって、彼らが守備を固め、国の力を強めてしまいます。→私にとって日本人伝道を日本人のみならず、アメリカ人、韓国人と共に宣教できたらという思いが与えられました。
②「王たちがあなたに仕える」→私は何者なのでしょうか。イスラエルは滅亡を迎えた民だったのです。ありえない完全逆転の約束です。身分の回復と人生の回復を教えてくれています。
③「あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉ざされない」11節→私にとって福音を伝える、また昨日の聖日説教にあるように「人を赦す」していく福音の門が開かれることを考えました、これこそ、最高の祝福で無いでしょうか。
④「王たちは仕えてくれ、財宝を持ってくる」とあります。私に仕えない国は滅びるとあるのです。神様の側に立つものは、恐れが無い人生なのです。現在は難しい状況でも、最終的な勝利が待っているのです。そして、自分の側に神様立ってくださいでなくて、神様の側に自分が立つのか問題なのです。
⑤13節:「わたしの聖所を美しくする、あなたのもとにくる、私の足台を尊くする」神様を礼拝しに人々が来て、祈りの場所を尊くされると言われるのです。教会を開拓していく時に、必要なのは伝道が大事ですが、まずは礼拝が主の油そそぎがあるのか?祈りの場所して清められているのかです。
⑥14節「あなたを苦しめた者の子が、身をかがめてあなたをところに来、あなたをあなどった者はあなたの足元にひれ伏し」とあります。→私にとって、そんな日が来たらどうでしょうか。それ見たことか?と言いたいので無いでしょうか。しかし、主にあって愛と礼儀を持ってそのような日が来ても、そのような人が来ても接して行きたいと思います。
⑦17節「わたしは青銅の変わりに金を、鉄の銀、木に青銅、石の代わりに鉄」と言われます、神様は経済的な祝福と物質の繁栄も約束されます。→これは、私が避けてきたり、あまり考えなかった部分ですが、神様の福音のために、車と大きい人が集える家、市民権を祈って生きます。
⑧18節「あなたの城壁を救いと呼び、あなたの門を賛美と呼び、」→苦しいときの助けなる神様、教会がそのような神様の住まわれる場所になった時に、イエスを知らない人々は救いをそこに見、門に入るときに、賛美を持って神様の臨在の中に入っていけることを信じ、期待し、そのような教会を建てていきます。
⑨22節「もっとも小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる」神様のときに速やかにされることを信じます。神様の回復は以前よりもっと、何倍、何百、何千、何万の計算できない祝福です。それは、しかも永遠の祝福です。神様が私に出会ってくださって永遠の光となりました。人生を照らす神様の光を見る時に、何を恐れるのでしょうか?人生のゴールは大きな祝福であることを信じて進んで行きます。

日曜日, 4月 12, 2009

主の栄光を輝かせよ

イザヤ60:1-9
起きよ.光を放て.あなたの光が来て, 主の 榮光があなたの 上に 輝いているからだ. 見よ. やみが地をおおい, 暗やみが 諸國の 民をおおっている. しかし, あなたの 上には 主が輝き,その榮光があなたの上に現われる. 國¿はあなたの光のうちに步み,王たちはあなたの 輝きに 照らされて 步む.
目を 上げて,あたりを見よ. 彼らはみな 集まって, あなたのもとに 來る. あなたの 息子たちは 遠くから來,娘たちはわきに 抱かれて 來る. そのとき,あなたはこれを 見て, 晴れやかになり, 心は 震えて,喜ぶ.海の富はあなたのところに移され, 國¿の 財寶はあなたのものとなるからだ. らくだの大群, ミデヤン と エファ の 若いらくだが, あなたのところに 押し 寄せる. これら シェバ から來るものはみな, 金と 乳香を 携えて 來て, 主の 奇しいみわざを 宣べ 傳える. ケダルの羊の群れもみな, あなたのところに 集まり, ネバヨテ の 雄羊は, あなたに仕え,これらは受け入れられるいけにえとして, わたしの 祭壇にささげられる. わたしは, わたしの 美しい 家を 輝かす. 雲のように 飛び, 巢に 歸る 鳩のように 飛んでくる 者は, だれか.
まことに, 島¿はわたしを 待ち 望み, タルシシュ の 船は 眞先に, あなたの 子らを 遠くから 來させ, 彼らの 金銀もいっしょに, あなたの 神, 主の 名のために, イスラエル の 聖なる 者のために 運んでくる. 主があなたを 輝かされたからである.

私たちは、私は誰の光でかがやそうとするのでしょうか?自分の努力、自分の持っている人脈、自分の親、お金、いろいろあるかもしれません。しかし、それらのものは必ず終わる日が来ます。裏切られる時があります。主は言われます。主の栄光があなたの上に輝いているからおきて光を放て!と言われます。私は自分の力や経験を否定して、主の栄光のみを期待しているのでしょうか。それをする時に、人々を国々を導く光となります。罪を示す明るい光となります。行き先の分からない人に照らす光となります。人々はその時に祝福をもたらします。今は何も無い、滅亡状態のイスラエルに向かって主なる神様は語られます。その祝福を、約束を信じるのでしょうか。価値観をそのように持っているのでしょうか。何故なら、YOU YOU A GOD だからです。私の主なる神様にいただいた約束のみ言葉を握って歩んでいるのでしょうか。主の名のために、礼拝するために、私たちの元に人々が集まります。主の栄光が私を輝かせるからです。教会が出来、礼拝がされていきます。そして、異郷の地であるエジプトからも、人々が主イエスを認める日が来るのです。このアメリカでも、NYでもLAでも神様の人となる、栄光を輝かす祝福の教会を信じて、建てていきます。旅の最後に、祝福の御言葉を、約束を下さった神様を賛美します。

NEW LIFEを生きよ

イザヤ59:9-
それゆえ, 公義は 私たちから 遠ざかり, 義は 私たちに 追いつかない. 私たちは 光を 待ち 望んだが、見よ,やみ.輝きを待ち望んだが,暗やみの中を步む. 私たちは盲人のように 壁を 手さぐりし,目のない者のように手さぐりする. 眞¿でも, たそがれ 時のようにつまずき, やみの中にいる死人のようだ.私たちはみな, 熊のようにほえ, 鳩のようにうめきにうめく.公義を待ち望むが,それはなく,救いを待ち望むが,それは私たちから遠く離れている. それは, 私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し, 私たちの罪が,私たちに不利な證言をするからです.私たちのそむきの罪は, 私たちとともにあり,私たちは自分の咎を知っている. 私たちは, そむいて, 主を否み,私たちの 神に 從うことをやめ, しいたげと反逆を語り,心に僞りのことばを 抱いて,つぶやいている. こうして公正は
退けられ,正義は遠く離れて立っている. 眞理は場でつまずき, 正直は 中にはいることもできない. そこでは眞理は失われ,惡から 離れる 者も, そのとりこになる. 主はこれを見て,公義のないのに心を痛められた.
主は人のいないのを見,とりなす者のいないのに驚かれた.そこで,ご自分の御腕で救いをもたらし,ご自分の義を,ご自分のささえとされた. 主は義をよろいのように着, 救いのかぶとを頭にかぶり,復讐の衣を身にまとい, ねたみを外套として身をおおわれた.
主は彼らのしうちに應じて報い,その仇には憤りを報い, その敵には報復をし, 島¿にも 報復をする.
そうして, 西のほうでは,主の御名が,日の上るほうでは,主の榮光が恐れられる.主は激しい流れのように來られ, その中で主の息が吹きまくっている. 「しかし,シオンには贖い主として來る. ヤコブ の 中のそむきの 罪を 悔い 改める 者のところに 來る. 」··主の御告げ. ·· 「これは,彼らと 結ぶわたしの 契約である. 」と 主は 仰せられる. 「あなたの上にあるわたしの
,わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは, あなたの 口からも,あなたの子孫の口からも,すえのすえの口からも,今よりとこしえに 離れない. 」と 主は 仰せられる.
私たちの罪は、いや私の罪は何と大きいことでしょうか。そして、その罪のためにとりなしてがいないことに驚かれ、公儀の無いことに心を痛められました。そして、ご自身が御腕をもって救いをなされたのです。それは、私たちが悪の罪のとりことなっていたからです。私自身はどれほど、主に喜ばれない時や、お金の使い方、歩みをしているのか?と思います。今朝、主に会って悔い改めます。主よ私を憐れんでください。憐れみを注ぐに値しないものに憐れみを注いでください。主なる神様が私と一方的な永遠の契約を結んでくださったことに心より感謝します。そうでないなら、私は主イエスの名を恐れを持って待たないといけないのです。しかし、復活の主イエスを心より賛美します。それゆえに、私は神様を裁き主として出なくて、いいえそれは主イエスがご自身が受けてくださったのです。神の御子が神様との関係を壊して「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。これは、私が言わないといけないセリフだったのです。主はしうちに応じて報い方だったのに、そのしうちを私でなくて主イエスに下されたのです。何と言うことでしょうか。何と驚きべき愛でしょうか。普通でなくて驚くしかない愛なのです。贖い主として来てくださる主イエスは、永遠の契約を持って「神様の霊を私に、私の子孫に注いでくださいます」それは離れることが無いのです。昨日、久しぶりにPASSIONを教会で見ました。十字架の贖いを黙想する時間となりました。主よ、この苦しみを味わって私を買い取ってくださった人生、NEW LIFEを大事に生きます。そして、このNEW LIFEをどうしても、伝えたいのです。主イエスの愛を伝えさせてください。永遠の契約を、離れない愛の契約に頼ってNEW LIFEに生き伝えさせてください。

安息日の守り方

イザヤ58:13-59:8
もし,あなたが安息日に出步くことをやめ, わたしの
聖日に自分の 好むことをせず, 安息日を「喜びの日 」と呼び,主の聖日を「はえある日 」と呼び, これを尊んで旅をせず, 自分の 好むことを求めず,むだ口を愼むなら, そのとき,あなたは 主をあなたの喜びとしよう. 「わたしはあなたに地の高い所を踏み行かせ, あなたの父ヤコブのゆずりの地であなたを養う.」と主の御口が語られたからである. 見よ.主の御手が短くて救えないのではない. その耳が遠くて, 聞こえないのではない. あなたがたの咎があなたがたと,あなたがたの神との仕切りとなり, あなたがたの罪が御顔を隱させ,聞いてくださらないようにしたのだ. 實に,あなたがたの手は血で汚れ,指は咎で汚れ,あなたがたのくちびるは僞りを語り,舌は 不正をつぶやく. 正しい訴えをする者はなく, 眞實をもって弁護する者もなく,むなしいことにたより,うそを言い,害毒をはらみ,惡意を産む.彼らはまむしの卵をかえし, くもの巢を織る. その卵を食べる者は死に, 卵をつぶすと,毒蛇がとび出す. そのくもの巢は着物にはならず,自分の作ったもので 身をおおうこともできない.彼らのわざは不義のわざ,彼らの手のなすことは,ただ暴虐. 彼らの足は惡に走り,罪のない者の血を流すのに速い.彼らの思いは不義の思い.破壞と破滅が彼らの大路にある. 彼らは平和の道を知らず,その道筋には公義がない. 彼らは自分の通り道を曲げ,そこを步む 者はだれも,平和を知らない. 私たちにとって、主日はどんな日でしょうか。礼拝は仕方ないけど行かないといけないものでしょうか?それとも、逆に礼拝に行かないと自分が持たない、ものでしょうか。はたまた、礼拝に行くことが楽しくしょうがない、ものでしょうか。神様は私たちがいちいち何か仕えてあげないと困る方でも、礼拝をしないと神様であることが忘れられるような方ではありません。では、何故私たちは礼拝をささげるのでしょうか?それは、キリスト教が宗教でなくて(RELIGION)、関係(RELATIONSHIP)であるからです。宗教行為を行えばいいのでありません。礼拝を出たからもういいでなくて、礼拝をする動悸が問われているのです。礼拝をささげたく仕方が無いほど、神様を愛しているのでしょうか?お父さんが小さい子供に「お父さん」と呼ばれるだけで嬉しいように、事実子供はお父さんに何かお金を上げるのでもなく、利益を上げるのでもなくて、ただ、そこにいるだけで嬉しいわけです。その存在が嬉しいわけです。私たちはキリストの十字架によって神様の子供としての関係が回復しました。罪とは神様とは関係が無い、霊的に切れている状態なのです。それが、イエスの・キリストの十字架の死によって神様と関係が回復しました。堕落前のアダムと神様のように何にも心配の無い関係を回復しました。ですから、神様との礼拝は最高の楽しみであり、礼拝に神様の関係が豊かに持てる人は、神様を愛する人は、大きな祝福を得ます。十字架の傷が私に汚れた手を、指を、唇をきよめました。私の人生を平和と義への道へと導きました。宗教でなくて、義務でなくて、まことの喜びなる礼拝をささげます。

土曜日, 4月 11, 2009

自分が死んだ後で、神様の奇跡は起こる

イザヤ58;1-12
せいいっぱい 大聲で 叫べ. 角笛のように, 聲をあげよ. わたしの 民に 彼らのそむきの 罪を 告げ, ヤコブ の 家にその 罪を 告げよ. しかし, 彼らは 日ごとにわたしを 求め, わたしの 道を 知ることを 望んでいる. 義を 行ない, 神の 定めを 捨てたことのない 國のように, 彼らはわたしの 正しいさばきをわたしに 求め,神に近づくことを 望んでいる. 「なぜ,私たちが斷食したのに, あなたはご 覽にならなかったのですか. 私たちが 身を 戒めたのに,どうしてそれを認めてくださらないのですか. 」見よ. あなたがたは 斷食の日に自分の好むことをし,あなたがたの勞¿者をみな, 壓迫する. 見よ. あなたがたが 斷食をするのは, 爭いとけんかをするためであり, 不法にこぶしを 打ちつけるためだ. あなたがたは今, 斷食をしているが, あなたがたの 聲はいと 高き 所に屆かない. わたしの好む斷食,人が身を戒める日は,このようなものだろうか.葦のように頭を垂れ, 荒布と灰を敷きげることだけだろうか.これを,あなたがたは斷食と呼び,主に喜ばれる日と 呼ぶのか. わたしの好む斷食は, これではないか. 惡のきずなを 解き, くびきのなわめをほどき,しいたげられた者たちを自由の身とし,すべてのくびきを ¿くことではないか. 飢えた者にはあなたのパンを分け與え,家のない貧しい人¿を家に入れ,裸の人を見て,これに着せ,あなたの肉親の世話をすることではないか. そのとき, 曉のようにあなたの 光がさしいで, あなたの 傷はすみやかにいやされる. あなたの義はあなたの前に進み, 主の 榮光が, あなたのしんがりとなられる.
そのとき, あなたが 呼ぶと, 主は 答え, あなたが 叫ぶと, 「わたしはここにいる. 」と 仰せられる. もし, あなたの 中から, くびきを 除き, うしろ 指をさすことや, つまらないおしゃべりを 除き,
飢えた 者に 心を 配り, 惱む 者の 願いを 滿足させるなら, あなたの 光は, やみの 中に 輝き 上り, あなたの 暗やみは, 眞¿のようになる. 主は絶えず, あなたを 導いて, 燒けつく 土地でも, あなたの 思いを 滿たし, あなたの 骨を 强くする.あなたは, 潤された 園のようになり, 水のかれない 源のようになる. あなたのうちのある者は,昔の廢墟を建て直し, あなたは 古代の 礎を 築き 直し,「破れを繕う者,市街を住めるように回復する者.」と呼ばれよう.
今朝は、久しぶりに早朝祈祷会に行くことが出来ました。この北米という地で早朝祈祷会という勧告教会の恵みを受けれることは特別な恵みです。その教会は、今週は受難週の特別早朝祈祷会を衛星放送で見ていました。キリストの苦難を解き明かしながら、世の中の声は「十字架は失敗だ、自分を殺してしまうぞ」というメッセージであり、主イエスの道はそれ以外に救いの道は無い、というメッセージであることを聞きました。考えてみれば、私たち(わたし)の人生もそうでないかと思いました。あなたはそんな正直な方法で神様の導きの通りしたら、事業は駄目になってしまう。勉強をそんなにしたら神様の方法でしたら、難しいよ。あなたは死んでしまうよ、という声です。そんな聖書どおりに生きたら、この世で生きていけないよ、と言われます。その通りです。私たちの生き方はそのようなたたかに苦しみ、違う道を選びます。しかし、どうでしょうか。神様は十字架以外に道を用意されたのでしょうか。主イエスが十字架で死んだ時に、復活の命がもたされたのでないでしょうか。死なないと永遠の命もありませんでした。私は主イエスのために従って死んでいるでしょうか。それとも、死んだら何も出来ないよ、という声に従っているのでしょうか。今朝、イザヤ所を通して私に与えられた恵みは、自分の道でなく、神様の道を求める人、自分の義ではなくて神様の義を求める人であるのか?という問いかけでした。そして、神様を求めること、近づくことでした。形だけの宗教行為でなく、慈善事業でなくて、心からの与える祝福があるのかということでした。そして、そのような者に人々を、街を回復するものして用いるというメッセージでした。私は死んでいるのか、私の道でなくて、神様の道である十字架の道を歩んでいるのか?問いかけられました。自分にとって苦しい状況も、全然変わらない現実も、御言葉からの導きと宣言して進んでいるこの道も、現実に逆なときにそれでも主イエスのために死んで生きることが出来るのか?それとも、死ぬ直前で辞めるのか考えました。今日は少し面白いこと、少し損な事?がありました。私が購入しようとしていた物がなかなか探して見つからないことがありました。2週間あれほど探しても見つからないことがあり、つい昨日それを公式のお店で見つけました。少し考えたのですが、ためらいながらも、無駄遣いでないかな?と思いつつも3年越しの物であったので今日買うことにしました。もう絶対に見つからないであろう、と思いつつ。ところが買ってから、帰り道で私の住んでいるすぐ住んでいる近くでその品物があることを発見したのです。しかも、公式のお店よりも小さいところでしたが、まさかそんなところにあったの?という発見でした。それだけでなく、公式のお店より古かったのですが、ぐっと安い価格でした。これを見たときに、悔しいと思ったり、損したと思った瞬間に、もしも、これが逆の順番であったらどれほど喜びが百倍で無かったかな?と思いました。早まったと思いました。もう少し待ったら。また、お金の使い方を神様に喜ばれない使い方をしたのでないかと思いました。まさに、今日のQTにもありますし。しかし、この時に思い出したのは「神様の御心はもう扉が開かないかな?と思う最後の瞬間に開かれることが多い」というある牧師先生の言葉を思い出しました。そうすると、本当は神様の御心は自分の経験や、自分の頼っているもの、自分の計算が死んでから、自分が本当に死んでしまってから、なされるのでないかと思いました。自分が死んでしまってから、はじめて主イエスの十字架によって死んでから、実はすごく近くに神様の御旨や準備があるのでないかと思いました。私の今の歩みが、主イエスにあって死んでこそ生きることを信じ歩んでいきます。

金曜日, 4月 10, 2009

聖なる山を受け取れ!

イザヤ57;11-21
あなたは, だれにおじけ, だれを 恐れて, まやかしを 言うのか. あなたはわたしを 思い 出さず, 心にも 留めなかった. わたしが 久しく, 默っていたので, わたしを 恐れないのではないか. わたしは, あなたの 義と, あなたのした 事どもを 告げよう. しかし, それはあなたの 益にはならない. あなたが 叫ぶとき, あなたが 集めたものどもに, あなたを 救わせよ. 風が, それらをみな 運び 去り, 息がそれらを 連れ 去ってしまう. しかし,わたしに身を寄せる者は, 地を 受け 繼ぎ, わたしの 聖なる 山を 所有することができる.主は仰せられる. 「盛り上げよ.土を盛り上げて,道を整えよ.わたしの民の道から, つまずきを 取り 除け.」 いと高くあがめられ, 永遠の 住まいに 住み, その 名を 聖ととなえられる 方が,こう仰せられる. 「わたしは, 高く 聖なる 所に 住み, 心¿かれて, へりくだった 人とともに住む. へりくだった 人の を 生かし, ¿かれた人の心を生かすためである. わたしはいつまでも 爭わず, いつも 怒ってはいない. わたしから出ると, わたしが 造ったたましいが 衰え 果てるから. 彼のむさぼりの 罪のために,わたしは,怒って彼を打ち, 顔を 隱して 怒った. しかし,彼はなおそむいて,自分の思う道を行った.
わたしは彼の道を見たが, 彼をいやそう. わたしは 彼を 導き, 彼と, その悲しむ者たちとに,慰めを報いよう.わたしはくちびるの實を創造した者.平安あれ. 遠くの 者にも 近くの 者にも 平安あれ.わたしは彼をいやそう. 」と 主は 仰せられる.
しかし 惡者どもは, 荒れ狂う 海のようだ. 靜まることができず,水が海草と泥を吐き出すからである. 「惡者どもには 平安がない. 」と 私の神は仰せられる.

主イエスは私たちを癒す方です。また、私たちを聖なる山に登らせ、礼拝者として回復してくださる方です。私たちはその神様の癒しを受けたいと思っているのでしょうか。神様の癒しがないから、他に癒しを求め、自分は何にも問題が無いふりをしようとするのです。神様は私を助け、回復して下さる方です。その方と共に居ないときに、自分の思い通りに行かない状況に怒り、疲れ、衰え果ててしまいます。しかし、神様の聖なる山に登る人は決して倒れることがありません。倒れても神様の道を歩むことができます。聖なる山に登るとは、礼拝することです。神様と共にいる人のことです。神様は私を癒されます。信じます。礼拝をするものには、具体的な仕事や道が無くても立つ事ができます。今日は主イエスの素晴らしい癒しを宣言して歩みます。

木曜日, 4月 09, 2009

受肉した御言葉を受けた私

ルカの福音書24:1-12
週の初めの日の明け方早く, 女たちは, 準備しておいた 香料を 持って 墓に 着いた.
見ると
が墓からわきにころがしてあった. はいって見ると,主イエスのからだはなかった. そのため女たちが 途方にくれていると, 見よ, まばゆいばかりの 衣を 着たふたりの 人が, 女たちの近くに來た. 恐ろしくなって, 地面に 顔を 伏せていると, その 人たちはこう言った. 「あなたがたは, なぜ 生きている方を死人の中で搜すのですか. ここにはおられません. よみがえられたのです. まだ ガリラヤ におられたころ, お 話しになったことを 思い 出しなさい. 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され, 十字架につけられ, 三日目によみがえらなければならない, と 言われたでしょう. 」 女たちはイエスのみことばを思い出した. そして, 墓から 戾って, 十一弟子とそのほかの 人たち 全部に, 一部始終を 報告した. この 女たちは, マグダラ の マリヤ と ヨハンナ と ヤコブ の 母 マリヤ とであった. 彼女たちといっしょにいたほかの 女たちも, このことを 使徒たちに 話した.
ところが 使徒たちにはこの 話はたわごとと 思われたので, 彼らは女たちを信用しなかった.
〔しかしペテロは,立ち上がると走って墓へ行き,かがんでのぞき¿んだところ, 亞麻布だけがあったそれで, この 出來事に 驚いて 家に 歸った. 〕

主イエスは、御言葉が受肉された方です。神様が分からない私たちのために人間となってきてくださった100%人間で、100%神様がイエス様です。ありのような私たちのために、ありに神様の愛をわかってほしいとありになってくださったのが主イエスです。ですから、私たちは神様のみ言葉を人間のレベルで理解して、人間のレベルで行おうとします。それが楽だからです。私の理解の範疇や出来ることを超えようとしません。また、キリストが私の全てであることよりも、趣味にとどまることを願います。自分の好きなように行きたいからです。それが、キリストの復活に出会った女性たちと11弟子たちでした。いや、それは私の私たちの姿や信仰です。しかし、キリストの復活に出会うならば命をかけてキリストに従う決心をする以外ありません。それが、永遠の価値になるからです。女たちはイエスが死んで終わりだと思っていました。しかし、イエスはよみがえらないといけないと言われたのです。「必ず罪人に渡されて十字架にかかる」のみならず、「よみがえらないといけない」と言われたのです。それを預言されましたし、旧約聖書にも書いてあったのです。いける神様のみ言葉を、信仰を墓なの中に埋めてしまうことをしたのです。自分の理解という人間のレベルに治めたためです。弟子たちは更に女性を馬鹿にして、真面目にきかなったのです。自分たちは家から一歩も出れずに恐れたいながらです。漁師に戻ることをしながらもです。私にとって、神様の下さった信仰を墓の中に、知識や人間の理解と言う範疇、レベル、死に入れていることはないかと思いました。今までの経験に縛られていることはないかと思いました。明日のメッセージに自分が死んで生かされた恵みを、生きた証を持ってかたります。

火曜日, 4月 07, 2009

必ず墓の石は破られ、主イエスは復活された。信仰を持って進め!

マタイの福音書27:57-66
夕方になって,アリマタヤの金持ちで ヨセフ という人が來た. 彼もイエスの弟子になっていた.この人はピラトのところに行って,イエスのからだの下げ渡しを願った.そこで,ピラトは渡すように命じた. ヨセフはそれを取り降ろして,きれいな亞麻布に包み, 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた.墓の 入口には 大きな
をころがしかけて 歸った.そこにはマグダラ の マリヤ とほかの マリヤ とが 墓のほうを 向いてすわっていた. さて,次の日,すなわち備えの日の翌日,祭司長,パリサイ人たちはピラトのところに集まって,こう言った.「閣下.あの,人をだます男がまだ生きていたとき, 『自分は三日の後によみがえる.』と言っていたのを思い出しました.
ですから,三日目まで 墓の 番をするように命じてください.そうでないと,弟子たちが來て,彼を盜み出して, 『死人の中からよみがえった.』と民衆に言うかもしれません.そうなると、 この惑わしのほうが, 前のばあいより,もっとひどいことになります.」
ピラト は「
番兵を 出してやるから,行ってできるだけの番をさせるがよい.」と彼らに言った. そこで,彼らは行って,に封印をし,番兵が墓の番をした.
万能の救い主なるイエスを賛美します。彼の十字架の死によって、私たちは救われました。私たちの人生は変えられました。彼の無残でぼろぼろの死によって、私たちの汚い人生は、人格は変えられました。そんな主イエスの愛に何を持ってこたえるべきでしょうか。実は何もありません。神様にささげられるものは全て神様に与えられたものであるだからです。それは、ただ信仰を持って応えるものです。しかも、信仰さえも神様から与えられたものです。その信仰さえも難しいことあります。今日の聖書箇所では、祭司や律法学者たちは「イエスの復活を信じず、彼らが嘘を企てようとしている」から、それを阻止しようとさえします。いや、それは主イエスを恐れたのかもしれません。自分の立場が壊されることを阻止しようとしたのです。最後まで悪巧みを持つ人は安心できないのです。死んでも主イエスを恐れたのです。信仰を持って勇気を持って出て行くヨセフとは正反対です。弟子には勇気があります。同じ議員の一人であったのに違う反応があります。立場によって人は動くのでなく、キリストの弟子であるかによって動くことが分かります。その反対の場所には、マグダラのマリヤと他のマリヤがいました。そして、今日の聖書箇所の主人公ともいえるヨセフが居ました。彼は神様の国を待ち望んでいた人でした。そして、「イエスの弟子」であったと言われています。彼は思い切って、イエスの体を下げ渡しを願い、自分の大きなささげ物である新しい墓、そして布を用意しました。もしも、彼がこのような働きをしなかったら、墓さえも無かったのかもしれません。石で閉ざされた墓が用意されました。彼らの中でも、誰もイエスの復活を待ち望めた人はいなかったかもしれません、絶望的な状況でした。しかし、その中で私たちが出来ることは「信仰」だけです。いや、信仰さえも神様の下さるものです。主イエスの復活を待ち望む信仰で、北米で仕えていきます。墓の石を打ち破られた主イエスを待ち望みます。

MIGHTY TO SAVE

マタイの福音書27;35-16こうして, イエス を 十字架につけてから,彼らはくじを引いて,イエスの着物を分け,
,そこにすわって, イエス の 見張りをした.
また, イエスの頭の 上には, 「これは ユダヤ 人の 王 イエス である. 」と 書いた 罪狀書きを 揭げた.
そのとき, イエス といっしょに, ふたりの 强盜が, ひとりは 右に, ひとりは 左に, 十字架につけられた.
道を 行く 人¿は, 頭を 振りながら イエス をののしって,
言った. 「神殿を 打ちこわして 三日で 建てる 人よ. もし, 神の 子なら, 自分を 救ってみろ. 十字架から 降りて 來い. 」 同じように, 祭司長たちも 律法學者, 長老たちといっしょになって, イエス をあざけって 言った. 「彼は 他人を 救ったが, 自分は 救えない. イスラエル の 王さまなら, 今, 十字架から 降りてもらおうか. そうしたら, われわれは 信じるから. 彼は 神により 賴んでいる. もし 神のお 氣に 入りなら, いま 救っていただくがいい. 『わたしは 神の 子だ. 』と 言っているのだから. 」
イエス といっしょに 十字架につけられた 强盜どもも, 同じように イエス をののしった.
三時ごろ, イエス は 大聲で, 「エリ , エリ , レマ , サバクタニ . 」と 叫ばれた. これは, 「わが 神, わが 神. どうしてわたしをお 見捨てになったのですか. 」という 意味である. すると, それを 聞いて, そこに 立っていた 人¿のうち, ある 人たちは, 「この 人は エリヤ を 呼んでいる. 」と 言った.
また, 彼らのひとりがすぐ 走って 行って, 海綿を 取り, それに 酸いぶどう 酒を 含ませて, 葦の 棒につけ, イエス に 飮ませようとした. ほかの者たちは, 「私たちは エリヤ が 助けに 來るかどうか 見ることとしよう. 」と 言った. そのとき, イエス はもう 一度大聲で 叫んで, 息を 引き 取られた.すると,見よ.神殿の幕が上から下まで眞二つに裂けた. そして, 地が ¿れ 動き, 岩が 裂けた.また,墓が開いて,眠っていた多くの聖徒たちのからだが生き返った.
イエスは最後の瞬間まで罪を犯すことがありませんでした。イエスを罪状書きには「ユダヤ人の王」としかけませんでした。それは、死刑に値することでなく、もしもそういったとしても一般的に行って「狂った人」で終わることでしょう。もちろん、イエスはまことのユダヤ人の王でした。彼には、万能の救い主として最後まで罪を犯すことが出来ませんでした。それは、私への愛のためです。苦しみの中にいる時に、最後まで同じ姿勢を保つのは難しいことです。私に今日与えられた恵みは苦難の中であっても、最後まで変わらない愛を保つことでした。万能の救い主が私を救ってくださるからです。どれほど、主イエスはののしられたことでしょうか?当然言い返す権利を持っていたのです。しかし、言い返しませんでした。私の罪のためです。そして、このように生きることが出来ることを示してくださったのです。私はどれほど主イエスのためにののしられたことがあるでしょうか?どれほど、主イエスのために損をしたことがあるでしょうか?それをどれほど避けていることでしょうか。私のために救いをなしてくださった主イエスと共に歩む生き方をしていきます。

月曜日, 4月 06, 2009

上に与えられた権威で生きる人には、変わらない権威がある

ヨハネの福音書19:5-16
それで イエス は, いばらの冠と紫色の着物を着けて,出て來られた. すると ピラト は 彼らに「さあ, この 人です.」と言った.祭司長たちや役人たちは イエス を 見ると, 激しく 叫んで, 「十字架につけろ.十字架につけろ.」と言った.ピラトは彼らに 言った.「あなたがたがこの人を引き取り,十字架につけなさい. 私はこの人には罪を認めません.」 ユダヤ人たちは彼に答えた. 「私たちには 律法があります. この人は自分を神の子としたのですから,律法によれば,死に當たります.」 ピラトは,このことばを聞くと,ますます恐れた. そして,また官邸にはいって,イエスに言った.「あなたはどこの人ですか.」しかし,イエスは彼に何の答えもされなかった. そこで, ピラト は イエス に 言った. 「あなたは 私に 話さないのですか. 私にはあなたを 釋放する 權威があり, また 十字架につける 權威があることを,知らないのですか. 」 イエスは 答えられた. 「もしそれが 上から 與えられているのでなかったら, あなたにはわたしに對して 何の 權威もありません. ですから, わたしをあなたに渡した者に,もっと大きい罪があるのです. 」 こういうわけで, ピラト は イエス を 釋放しようと 努力した. しかし, ユダヤ 人たちは 激しく叫んで言った. 「もしこの人を釋放するなら, あなたは カイザル の 味方ではありません. 自分を王だとする者はすべて, カイザル にそむくのです. 」 そこで ピラト は, これらのことばを 聞いたとき,イエスを外に引き出し, 敷(ヘブル 語で ガバタ )と 呼ばれる 場所で,裁判の席に着いた. その日は過越の備え日で,時は六時ごろであった. ピラト は ユダヤ人たちに言った.「さあ,あなたがたの王です. 」 彼らは激しく叫んだ.「除け. 除け.十字架につけろ. 」 ピラトは彼らに言った.「あなたがたの 王を 私が 十字架につけるのですか.」祭司長たちは答えた.「カイザルのほかには,私たちに王はありません. 」 そこでピラトは, そのとき,イエスを,十字架につけるため彼らに引き渡した.

今日は、まことの権威によらない裁判官が出てきます。それはピラトです。彼はイエスに言います。「あなたを釈放できるし、死刑にも出来るから私に話なさい」と。しかし、そういった彼はイエスに「ウ上のからの権威がまことの件であることを言います」そうです、ピラトはそういった後でユダヤ人の暴動に恐れて、イエスを無実であることを知りながらも、ユダヤ人が妬みから引き渡したとことを知りながらも、その権威を行使しなかたったのです。上からの権威に従っている人なら、ユダヤ人を恐れたりするよりも、上の権威を、神様を恐れたことでしょう。そこに従わないで誤った裁きをすることを恐れなかったのです。人に妥協することで神様に裁かれることを恐れなかったのです。ユダヤ人たちもユダヤ人たちです。「私たちには律法がある」といいます。律法では人を死刑にすることの出来ないローマの支配下において、裁けないからピラトの前に連れて行っているユダヤ人が筋の通らない、話にならないことを言います。お互いに人間の権威の下に、人をパワーで抑えようとします。それは、お互いに恐れの中にあります。しかし、まことの上の権威、神様を怖れる人には恐れがありません。主イエスは、人のために理由の無い死を経験されました。裁きに答えることもされませんでした。それは主なる神様の計画がなされることを祈り、神様に従わないことを、人に誤解され、責められ、落とされることよりも、死よりも恐れたからです。私にとって恐れるべき方、主イエスのみを恐れ従って生きます。

日曜日, 4月 05, 2009

神様の国の支配は犠牲の死である

ヨハネの福音書18:28-40
この世の国の支配は、力と権威と利益です。しかし、神様の国の支配は愛と犠牲です。十字架です。相手のために損することです。死ぬことなのです。死ぬべき理由の無い人のために死ぬことです。イエスを一番理解すべきであるユダヤ人と律法学者、祭司長たちは律法を知っていましたが、神様を知っていること、神様と関係を持っていることがありませんでした。ですから、神様の国の広がりでなくて、自分を守る、自分の立場を守るCLOSE MINDでしかありませんでした。神様の国はOPEN MINDです、受容的です。そして、疑いません。何故なら、相手のために死ぬことが出来るからです。神様の国は広がり続けます。しかし、自分の王国は守り続けます。神様の国は多くの人々を受け入れ、そして送り出します。私にとって、チャレンジがあるのが新しい神様の働きに自分の経験したことの無い働き、人々の出会いがあります。自分が若いと言えなくなりました。こういう新しい人たちを受け入れる、喜ぶことが出来、共に仕えることが出来るように、私が死んで、神様の支配が国が私の中に、信仰に広がるようにしてください。

土曜日, 4月 04, 2009

宗教人になるな!

ヨハネの福音書18:28
さて, 彼らはイエスを,カヤパのところから 總督官邸に 連れて 行った. 時は 明け 方であった. 彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように, 汚れを 受けまいとして, 官邸にはいらなかった. そこで,ピラト は 彼らのところに 出て 來て 言った. 「あなたがたは,この人に對して何を告發するのですか. 」 彼らはピラトに答えた. 「もしこの 人が 惡いことをしていなかったら, 私たちはこの 人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう. 」 そこで ピラトは彼らに言った.「あなたがたがこの人を引き取り,自分たちの律法に從ってさばきなさい.」 ユダヤ人たちは彼に言った「私たちには,だれを
死刑にすることも許されてはいません.」
今朝の聖書箇所は非常に面白い話が出てきます。イエスを裁こうとした「彼ら」は、祭司長たちや律法学者たちは「過ぎ越しの食事」が食べられなくなることを嫌がって、汚れを受けまいと官邸に入らなかったとあります。彼らはイエスを裁いて殺すために、つれてきたのにその責務を実行せずに他の人にさせたのです。面白い話で無いでしょうか。彼らは無実の人を殺す、という律法を一番大きく破りながらも、「過ぎ越しの祭り」の食事、罪のためのあがないのわざを受けようとしていたのです。イエスの罪のゆるしがなされようにしている横で、イエスを殺すことをしながらも、過ぎ越しの祭り、律法を守ろうとしていたのです。まさに、宗教人の姿です。宗教をしている人は動機を問われること無く、行いをさえしていれば、いいのです。それは、RELIGIONとしての宗教、キリスト教なのです。キリスト教とは、神様の関係でありRELATIONなのです。そこには生きた関係もありません。ただ、CLOSEな動きがあるだけです。宗教人は
①自分で責任をとらず、自分の手を汚さないでいる。しかし、神様が裁かれる日が来る
②律法を動機を問うことなくしている。神様の満足でなく自己満足である。
神様との関係は無い。
③まことの救い、恵みは行いでない。ただである。イエスの死による。クリスチャンの生き方は動機を問われる。そこにこそ、多くの世の人が願うクリスチャン、キリストの生き方を追及する人々は多くの人々にとって魅力を持つ
今朝の私への適用は、私も若いと言いながらも、ずっと保守的になっている姿、多くの人を受け入れる恵みよりは、自分の受けた傷から拒否することを覚えました。新しい働きに心をオープンします。また、宗教人から受けた傷を癒され、ゆるして歩みます。神様に会って常に新しく、成長する人になって行きます。

どのような権威の下にひれ伏すのか?

ヨハネの福音書18:15-27
シモン · ペテロ ともうひとりの 弟子は, イエス について 行った. この 弟子は 大祭司の 知り 合いで, イエス といっしょに大祭司の 中庭にはいった. しかし,ペテロは外で門のところに 立っていた.それで,大祭司の知り合いである,もうひとりの弟子が出て來て, 門番の 女に 話して,ペテロを連れてはいった. すると,門番のはしためが ペテロ に, 「あなたもあの 人の弟子ではないでしょうね.」と言った.ペテロは, 「そんな 者ではない.」と言った. 寒かったので, しもべたちや役人たちは,炭火をおこし, そこに 立って 暖まっていた. ペテロも彼らといっしょに, 立って暖まっていた.そこで,大祭司はイエスに,弟子たちのこと, また, 敎えのことについて 尋問した. イエス は 彼に 答えられた. 「わたしは 世に 向かって 公然と 話しました. わたしは ユダヤ 人がみな 集まって 來る 會堂や 宮で, いつも 敎えたのです. 隱れて 話したことは 何もありません. なぜ, あなたはわたしに 尋ねるのですか. わたしが 人¿に 何を 話したかは, わたしから聞いた人たちに尋ねなさい. 彼らならわたしが 話した 事がらを 知っています. 」
イエス がこう 言われたとき, そばに 立っていた 役人のひとりが, 「大祭司にそのような 答え 方をするのか. 」と 言って, 平手で イエス を 打った. イエスは彼に答えられた. 「もしわたしの 言ったことが 惡いなら,その惡い證據を示しなさい. しかし, もし 正しいなら, なぜ, わたしを 打つのか. 」 アンナスはイエスを,縛ったままで大祭司カヤパのところに送った. 一方,シモン · ペテロ は 立って, 暖まっていた. すると, 人¿は 彼に 言った. 「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね. 」 ペテロ は 否定して, 「そんな 者ではない.」と言った. 大祭司のしもべのひとりで, ペテロ に 耳を 切り 落とされた 人の 親類に 當たる者が言った. 「私が 見なかったとでもいうのですか. あなたは 園であの 人といっしょにいました. 」 それで, ペテロ はもう 一度否定した. するとすぐ 鷄が 鳴いた.

今日は二つの権威の元に生きる人が出てきます。それは、生き方に大きな違いを生み出します。一つの権威は、恐れをもたらしますが、正しい恐れなくでなくて間違った恐れもあります。もう一つの権威は恐れを締め出す義なる力です。それは、

①この世の権威は恐れを持って人を支配します。それは永遠のものでありません。一時的なものです。しかし、人はこの世の恐れや権威に弱いのです。それは、悪魔が後ろで巧妙に隠れて攻撃します。ですから、常に隠れようとします。堂々と出来ません。

②もう一つは、この世を創造された神様の権威の下にひれ伏すのです。これは、人を支配したり奴隷にするのでなく、自由意志を持って従うことを願われるのです。この権威にひれ伏すなら自由が来ます。それは、愛を持って仕えるものです。それは、堂々と生きることが出来ます。どこにいっても、宣言する生き方です。どこでも人の目を気にせずに自分らしく生きる生き方です。どちらの人生を選びたいでしょうか。人は正しい所属が分かったときに「自分が誰か」そしてそれがわかっただけでなく、「自分が所属する場所、共同体」が分かるときに本当の幸福を得ます。ペテロはその「イエスの弟子である」告白を、この世の死の権威に恐れて失ったのです。私ならもっと前に逃げていることでしょうし、祭司長の庭になんて入れないでしょう。ペテロははるかに勇気があり、行動する力がありました。でも、聖霊の力でなければ、この世の肉の力では告白できないのが私たちなのです。しかし、主イエスは堂々と宮で町で主イエスが神様の子であること、神様の国の到来を伝えたのです。律法学者、祭司長たちはこの世の権威で、人々の力、暴力、多勢を頼みにしました。そうでないと勝てないからです。私はどの権威に所属し、歩むでしょうか?私にとって大きな祈祷課題があります。それが、この世であるなら到底前に諦めるでしょう。また、神様で無いと解決できないことを知っています。神様の権威の下に主イエスの弟子であることを弱い私も告白します。神様の権威の下に恐れが取り去られる人生を歩みます。

金曜日, 4月 03, 2009

まことのリーダーは苦難の時に分かる

ヨハネの福音書18;1-14
まことのリーダーの特徴は何でしょうか?
①行くべき道を知っていること、それが困難でも行く意思を持ち、導く力を持つ
②信頼できる人であること
③苦難のときこそ真の姿が現れます。イエスは最後のときにどうされたのでしょうか
イエスは逃亡しようとする弟子たちを、ある意味裏切っている弟子たちを懲らしめることなく自由に行かせました。それは、決して彼らを裁かない姿です。人は苦難の時に、自分のこと以外にかまっている余裕がありません。それどこから、普段でも自分が忙しい理由で人のことのために何かすることが出来ないかもしれません。相手の失礼な態度にむっとしたり、これだけしてあげたのに、というでしょう。しかし、イエスは何も言われませんでした。
それどころか、逃げる彼らを自由に送れるようにしてあげたのです。
④リーダーとは公平な人です、また何よりも愛の人です
⑤イエスに従うところからまことのリーダーとしての導き、影響力があります。
⑥苦難の時に、不平や不満を言いません。
⑦神様の計画を仰ぎ見ます。
主にあるリーダーシップを養います。神様の計画を信じ歩みます。



自分が誰か分かると人を恐れない

ヨハネの福音書18;1-14
イエス はこれらのことを話し終えられると,弟子たちとともに, ケデロンの川筋の向こう 側に出て行かれた.そこに園があって, イエスは弟子たちといっしょに,そこにはいられた.ところで, イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた.イエスがたびたび弟子たちとそこで 會合されたからである. そこで,ユダは一隊の 兵士と, 祭司長, パリサイ 人たちから送られた役人たちを 引き 連れて, ともしびとたいまつと 武器を持って,そこに來た. イエスは自分の身に起ころうとするすべてのことを知っておられたので,出て來て, 「だれを搜すのか. 」と彼らに言われた.彼らは,「ナザレ 人 イエス を. 」と答えた. イエス は 彼らに「それはわたしです.」と言われた.イエス を 裏切ろうとしていたユダも彼らといっしょに立っていた. イエスが彼らに「それはわたしです.」と 言われたとき, 彼らはあとずさりし, そして 地に 倒れた.そこで, イエス がもう 一度, 「だれを搜すのか.」と問われると, 彼らは「ナザレ人イエスを.」と言った. イエスは答えられた.「それはわたしだと,あなたがたに 言ったでしょう. もしわたしを搜しているのなら,この人たちはこのままで去らせなさい.」
いよいよ、今度から受難週です。キリストの苦難を味わう恵みのときを持てることに、神様に心から賛美と感謝をささげます。もちろん、普段からの恵みですが特別に受難週を通してキリストの苦しみが何のためであるのか?味わえることがどれほど大きな恵みでしょうか。キリストはこの世で私たちが受ける全ての誘惑と苦難にあい、戦われました。孤独を味わい、生活の苦しみ、誘惑に出会いました。ただ、私たちと違うのは神様に捨てられたこと、そして全ての罪に勝利をされたことです。

私たちにとっては、全ての戦いに勝利することの出来る模範であり、十字架によって全ての勝利を私たちに与えられたことを信じます。今日の私への恵みはキリストは恐れるべき死へ、苦難へ大胆であり、逆に罪をもってキリストを倒そうとする勢力が恐れがあったことです。
①ユダは役人、ローマの兵隊、祭司長たちとパリサイ人が送って役人と来ました
②ユダの裏切りは一人では出来なかったのです。
③しかも、彼は利用されただけだったのです。真の価値が何か分かっていませんでした。
④パリサイ人や祭司長は役人を送って自分は来なかったのです。非常に卑怯な方法です。
⑤たいまつを、武器を持ってきました
⑥罪を犯すために、自分の義を押し通すために人間的なありとあらゆるものを準備したのです。これが、まことにかっこいい、男性らしい方法でしょうか。
⑦イエスに出会った彼らはイエスを恐れました
⑧イエスから「誰を探すのか?」そして「それは私です」と自ら言われたのです。自分が誰か知っている人は恐れがありません。何故でしょうか。自分の存在を知り、どこからスタートしてゴールするのか知っているからです。わたしはそうでしょうか?
⑨神様の子供として、罪を赦された義の人はもう裁かれる必要が無く恐れがありません
⑩神様の子供として愛されている、全てが用意されていることを信じます。
⑪たとえ、苦難があっても、私を必ず前へ導く神様の計画を信じます。
⑫私は苦難の中で、自分が誰か知っているのか?それゆえの大胆さを持っているのか?
⑬苦難のために何を用意しているのでしょうか?人間的な用意や、罪への用意をしていないでしょうか。イエスは全てこれから起ころうことをしていたのです。苦難を受けないといけないことを知っていたのです。普通、計画を知っていると従いやすいでしょうか?従いにくいでしょうか?苦難を知っていたら従いにくいでしょう。しかし、その時もイエスは平安や神様への平安を失うことがありませんでした。イエスの苦難は真の従順を教えます。苦難週にキリストの苦難の勝利の秘訣を得るために、聖書を読み、祈ります。それは留学生たちに伝えていきます。このNYでの霊的な戦いのために祈ります。主イエスを賛美します。

木曜日, 4月 02, 2009

What do you think about sleep

issiah57:1-10
義人が滅びても心に留める者はなく, 誠實な人が取り去られても, 心を向ける者もいない.まことに,義人はわざわいから取り去られて, 平安にはいり,まっすぐに步む人は,自分の寢床で休むことができる.しかし,あなたがた, 女卜者の 子ら, 姦夫と 遊女のすえよ. ここに 近寄れ. あなたがたは, だれをからかい, だれに 向かって 口を 大きく 開いて, 舌を 出すのか. あなたがたはそむきの子ら,僞りのすえではないか.
あなたがたは, ¿の木の間や,すべての生い茂る木の下で,身を焦がし,谷や,岩のはざまで 子どもをほふっているではないか.義人が 滅びても 心に 留める 者はなく,
誠實な 人が 取り 去られても,心を向ける者もいない. まことに, 義人はわざわいから 取り 去られて, 平安にはいり, まっすぐに步む人は, 自分の寢床で休むことができる.しかし, あなたがた, 女卜者の子ら, 姦夫と遊女のすえよ. ここに 近寄れ. あなたがたは, だれをからかい,だれに向かって口を大きく開いて,舌を出すのか.あなたがたはそむきの子ら,僞りのすえではないか. あなたがたは, ¿の木の間や,すべての生い茂る木の下で,身を焦がし、谷や,岩のはざまで 子どもをほふっているではないか。あなたは, だれにおじけ, だれを 恐れて, まやかしを 言うのか.あなたはわたしを思い出さず,心にも 留めなかった.わたしが久しく,默っていたので,わたしを恐れないのではないか.わたしは,あなたの義と,あなたのした事どもを告げよう.しかし,それはあなたの益にはならない.
私たちは眠るときに、安らかに眠りたいと思います。当たり前です。しかし、聖書の言う眠りは2つあります。今日のQT箇所のように罪を犯して眠るのか?神様に従う義人として死である眠りにつくのか?聖書は語ります。義人は殉教の死をしながら、自分の寝床で休むことが出来ることの祝福と幸福とまことの賞を得ること話ます。何故なら、まことの平安を持った眠りを持てると言うのです。そして、わざわいを避けることが出来る、というのです。人は義人が滅びるのを忘れても、覚えなくても神様は覚えてくださいます。悪人は罪を犯して眠ります。それはまことの平安ある眠りでありません。神様は言われます。あなたは誰を恐れるのか?誰におじつけるのか?私たちは目に見える人を恐れますが、それだけでなくまことに生きている神様を怖れるからこそ、罪を犯したくないのです。罪ある眠りよりは、まことの義人として生きることを選ぶ価値観に立つのです。もしくは、キリストのために死んでも、復活の命、義人として生きることを願うのです。また、寝床とは夫婦関係、性的な聖さを神様は願われます。それを裁きが無いと思うものは神様の裁きにあうといわれているのです。これは、ノンクリスチャンだけに言われているのでなく、クリスチャンに言われているのです。それは、神様を知っているものにはもっと大きい裁きでしょう。「私のことを思い出さず」と言われているからです。クリスチャンでありながら、他の偶像を拝み、自分の子供をいけにえにするイスラエルの民、霊的な姦淫を犯すクリスチャンに言われているのです。私は神様を怖れるべきでないでしょうか。どのような眠りを選ぶべきでしょうか?私にとって昨日はあまり眠ることが出来ない夜でした。それは、近い人への愛をなしに、和解もなしに眠ったからです。主にある和解とその人を愛させてください、そして義人の死を今日与えてください。

水曜日, 4月 01, 2009

神様に与えられた(ポジションで)法律で生きよ

イザヤ56:1-12
主はこう 仰せられる. 「公正を守り,正義を行なえ.わたしの救いが來るのは近く,わたしの義が 現われるのも 近いからだ.」 幸いなことよ.安息日を守ってこれを汚さず,どんな惡事にもその 手を出さない, このように 行なう 人, これを堅く保つ人の子は. 主に連なる外國人は 言ってはならない.「主はきっと,私をその民から切り離される.」と.宦官も言ってはならない.「ああ,私は枯れ木だ」と.まことに主はこう仰せられる.「わたしの安息日を守り, わたしの喜ぶ事を選び,わたしの契約を堅く保つ宦官たちには, わたしの 家,わたしの
城壁のうちで,息子,娘たちにもまさる分け前と名を與え,絶えることのない永遠の名を與える. また,主に連なって主に仕え,主の名を愛して,そのしもべとなった外國人がみな,安息日を守ってこれを汚さず, わたしの契約を堅く保つなら, わたしは彼らを,わたしの聖なる山に連れて行き, わたしの祈りの家で彼らを樂しませる. 彼らの 全燒のいけにえやその 他のいけにえは, わたしの祭壇の上で受け入れられる.わたしの家は,すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ. · イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ. ··わたしは, すでに 集められた 者たちに,さらに集めて加えよう. 」 野のすべての人々,林の中のすべての ¿よ.食べに來い.見張り人はみな,盲人で,知ることがない. 彼らはみな,おしの犬で, ほえることもできない.夢を見て,橫になり、 眠りをむさぼっている.この貪欲な犬どもは, 足ることを知らない.彼らは,悟ることも知らない牧者で,みな,自分かってな道に向かい,ひとり殘らず自分の利得に 向かって 行く. 「やって 來い. ぶどう 酒を 持って 來るから, 强い 酒を 浴びるほど 飮もう. あすもきょうと同じだろう. もっと, すばらしいかもしれない. 」
私たちはこの世の中で、目覚めて生きないといけません。そうでないと、サタンやこの世の誘惑に簡単に知らない間に流されてしまいます。サタンは仮面ライダーの敵役のような形で現れません。まるですごく信じられそうな、知性的な形をして現れます。そして、私たちを現実と言う形で流そうとします。また、それは時代遅れだよと言います。時代と共に変わるよ、と。そんなことをしていたら生きていけないよ、と言います。また、言ってきます。神様のみ言葉は分かるけどさ、と。しかし、神様は言われます。「わたしのすくいはちかい、これを堅く守る人は幸いだ」と言います。神様に言われた人生を、召しを堅く保って生きるのでしょうか。それとも、適当に生きるのでしょうか。サッカーのプロチームでは50cmポジションを間違えると失敗すると言います。これは僅かに1歩の差です。しかし、それで、どうなるのか大きな失敗になることをプロ選手は知っています。私たちは神様に与えられれたポジションで生きること、神様の召し、ビジョンで生きることをどのように思っているでしょうか。そこまで真剣でしょうか?これくらいいいさ、と思っていないでしょうか。今日の聖書箇所では宦官が主イエスを愛し、安息日を守り、主の喜ばれることを選ぶなら、永遠の名前と分け前を与えるとあります。

また、外国人に主の山に登ることを、礼拝を赦すことを言われます。これは、今までありえないことをなさる神様の恵みです。私はそのようなところから来たのでないでしょうか。今日、神様の恵みを感謝し、喜びの中でたちます。今日出会う留学生や人々に喜びの歌声をあげます。それとも、今日も同じだと言う人はいますか?また、牧者の中に中にも眠るもの、酔うものがいるとあります。目覚めることを心から祈ります。