坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 4月 11, 2009

自分が死んだ後で、神様の奇跡は起こる

イザヤ58;1-12
せいいっぱい 大聲で 叫べ. 角笛のように, 聲をあげよ. わたしの 民に 彼らのそむきの 罪を 告げ, ヤコブ の 家にその 罪を 告げよ. しかし, 彼らは 日ごとにわたしを 求め, わたしの 道を 知ることを 望んでいる. 義を 行ない, 神の 定めを 捨てたことのない 國のように, 彼らはわたしの 正しいさばきをわたしに 求め,神に近づくことを 望んでいる. 「なぜ,私たちが斷食したのに, あなたはご 覽にならなかったのですか. 私たちが 身を 戒めたのに,どうしてそれを認めてくださらないのですか. 」見よ. あなたがたは 斷食の日に自分の好むことをし,あなたがたの勞¿者をみな, 壓迫する. 見よ. あなたがたが 斷食をするのは, 爭いとけんかをするためであり, 不法にこぶしを 打ちつけるためだ. あなたがたは今, 斷食をしているが, あなたがたの 聲はいと 高き 所に屆かない. わたしの好む斷食,人が身を戒める日は,このようなものだろうか.葦のように頭を垂れ, 荒布と灰を敷きげることだけだろうか.これを,あなたがたは斷食と呼び,主に喜ばれる日と 呼ぶのか. わたしの好む斷食は, これではないか. 惡のきずなを 解き, くびきのなわめをほどき,しいたげられた者たちを自由の身とし,すべてのくびきを ¿くことではないか. 飢えた者にはあなたのパンを分け與え,家のない貧しい人¿を家に入れ,裸の人を見て,これに着せ,あなたの肉親の世話をすることではないか. そのとき, 曉のようにあなたの 光がさしいで, あなたの 傷はすみやかにいやされる. あなたの義はあなたの前に進み, 主の 榮光が, あなたのしんがりとなられる.
そのとき, あなたが 呼ぶと, 主は 答え, あなたが 叫ぶと, 「わたしはここにいる. 」と 仰せられる. もし, あなたの 中から, くびきを 除き, うしろ 指をさすことや, つまらないおしゃべりを 除き,
飢えた 者に 心を 配り, 惱む 者の 願いを 滿足させるなら, あなたの 光は, やみの 中に 輝き 上り, あなたの 暗やみは, 眞¿のようになる. 主は絶えず, あなたを 導いて, 燒けつく 土地でも, あなたの 思いを 滿たし, あなたの 骨を 强くする.あなたは, 潤された 園のようになり, 水のかれない 源のようになる. あなたのうちのある者は,昔の廢墟を建て直し, あなたは 古代の 礎を 築き 直し,「破れを繕う者,市街を住めるように回復する者.」と呼ばれよう.
今朝は、久しぶりに早朝祈祷会に行くことが出来ました。この北米という地で早朝祈祷会という勧告教会の恵みを受けれることは特別な恵みです。その教会は、今週は受難週の特別早朝祈祷会を衛星放送で見ていました。キリストの苦難を解き明かしながら、世の中の声は「十字架は失敗だ、自分を殺してしまうぞ」というメッセージであり、主イエスの道はそれ以外に救いの道は無い、というメッセージであることを聞きました。考えてみれば、私たち(わたし)の人生もそうでないかと思いました。あなたはそんな正直な方法で神様の導きの通りしたら、事業は駄目になってしまう。勉強をそんなにしたら神様の方法でしたら、難しいよ。あなたは死んでしまうよ、という声です。そんな聖書どおりに生きたら、この世で生きていけないよ、と言われます。その通りです。私たちの生き方はそのようなたたかに苦しみ、違う道を選びます。しかし、どうでしょうか。神様は十字架以外に道を用意されたのでしょうか。主イエスが十字架で死んだ時に、復活の命がもたされたのでないでしょうか。死なないと永遠の命もありませんでした。私は主イエスのために従って死んでいるでしょうか。それとも、死んだら何も出来ないよ、という声に従っているのでしょうか。今朝、イザヤ所を通して私に与えられた恵みは、自分の道でなく、神様の道を求める人、自分の義ではなくて神様の義を求める人であるのか?という問いかけでした。そして、神様を求めること、近づくことでした。形だけの宗教行為でなく、慈善事業でなくて、心からの与える祝福があるのかということでした。そして、そのような者に人々を、街を回復するものして用いるというメッセージでした。私は死んでいるのか、私の道でなくて、神様の道である十字架の道を歩んでいるのか?問いかけられました。自分にとって苦しい状況も、全然変わらない現実も、御言葉からの導きと宣言して進んでいるこの道も、現実に逆なときにそれでも主イエスのために死んで生きることが出来るのか?それとも、死ぬ直前で辞めるのか考えました。今日は少し面白いこと、少し損な事?がありました。私が購入しようとしていた物がなかなか探して見つからないことがありました。2週間あれほど探しても見つからないことがあり、つい昨日それを公式のお店で見つけました。少し考えたのですが、ためらいながらも、無駄遣いでないかな?と思いつつも3年越しの物であったので今日買うことにしました。もう絶対に見つからないであろう、と思いつつ。ところが買ってから、帰り道で私の住んでいるすぐ住んでいる近くでその品物があることを発見したのです。しかも、公式のお店よりも小さいところでしたが、まさかそんなところにあったの?という発見でした。それだけでなく、公式のお店より古かったのですが、ぐっと安い価格でした。これを見たときに、悔しいと思ったり、損したと思った瞬間に、もしも、これが逆の順番であったらどれほど喜びが百倍で無かったかな?と思いました。早まったと思いました。もう少し待ったら。また、お金の使い方を神様に喜ばれない使い方をしたのでないかと思いました。まさに、今日のQTにもありますし。しかし、この時に思い出したのは「神様の御心はもう扉が開かないかな?と思う最後の瞬間に開かれることが多い」というある牧師先生の言葉を思い出しました。そうすると、本当は神様の御心は自分の経験や、自分の頼っているもの、自分の計算が死んでから、自分が本当に死んでしまってから、なされるのでないかと思いました。自分が死んでしまってから、はじめて主イエスの十字架によって死んでから、実はすごく近くに神様の御旨や準備があるのでないかと思いました。私の今の歩みが、主イエスにあって死んでこそ生きることを信じ歩んでいきます。