まことの礼拝は聞くこと
イザヤ66:1ー6
主はこう仰せられる. 「天はわたしの王座,地はわたしの足台. わたしのために, あなたがたの建てる家は,いったいどこにあるのか. わたしのいこいの場は, いったいどこにあるのか. これらすべては,わたしの手が造ったもの, これらすべてはわたしのものだ. ··主の 御告げ. ··わたしが 目を 留める 者は, へりくだって心砕かれ,わたしのことばにおののく 者だ. 牛をほふる者は,人を打ち殺す者.羊をいけにえにする者は,犬をくびり殺す 者. 穀物のささげ 物をささげる 者は, 豚の血をささげる 者. 乳香をささげる 者は, 偶像をほめたたえる 者. 實に彼らは自分かってな道を選び, その 心は 忌むべき 物を 喜ぶ. わたしも,彼らを虐待することを選び,彼らに恐怖をもたらす.わたしが呼んでもだれも答えず, わたしが 語りかけても 聞かず, わたしの目の前に惡を行ない,わたしの喜ばない事を彼らが 選んだからだ. 」 主のことばにおののく者たちよ.主のことばを聞け.「あなたがたを憎み,わたしの名のためにあなたがたを押しのける,あなたがたの同胞は言った.『主に榮光を現わさせよ.そうすれば,あなたがたの樂しみを見てやろう.』しかし,彼らは恥を見る.」聞け.町からの騒ぎ,宮からの聲,敵に報復しておられる主の御聲を.
私たちは礼拝をささげればいい、私たちは礼拝に出ていれば良い、私は大丈夫、という錯角に陥ることが無いでしょうか。クリスチャンとして生きた神様の関係でなくて、ただ、教会に通っていれば良い、こういうクリスチャン生活をしている、という外見だけのことに簡単に陥ることが無いでしょうか。神様は言われます。私の家はどこにあるのか?私の憩いの場はどこにあるのか?と言われます。私は大丈夫、あの人はこういう信仰で、こういうところが問題がある、という他人への問題提起もしくは、裁くようなことをしながら、自分は大丈夫と言う顔をします。神様は言われます。私が心留める者は「へりくだって心砕かれるもの、神様の言葉に恐れおののくものだ」と。私は果たしてそのような心砕かれたものでしょうか。神様の言葉を恐れ、人を裁く前に、自分を神様に正直に差し出しているものでしょうか。まことの礼拝は、神様のみ声を聞く謙遜な、正直な姿です。クリスチャンになればなるほど、その姿を探しにくいのはどうしたことでしょうか。本当は、信仰が深まれば深いほど、謙遜な姿になっていくのがクリスチャンで無いでしょうか。神様との生きた関係、礼拝がなされているのならば、それはCOMMNUCATIONであり、RELATIONSHIPのはずです。今朝、神様の前に聞く礼拝をします。また、罪の悔い改めと御声に従って歩みます。神様の声を聞く場所、礼拝の場所を建て上げていきます。
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