坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 4月 07, 2009

必ず墓の石は破られ、主イエスは復活された。信仰を持って進め!

マタイの福音書27:57-66
夕方になって,アリマタヤの金持ちで ヨセフ という人が來た. 彼もイエスの弟子になっていた.この人はピラトのところに行って,イエスのからだの下げ渡しを願った.そこで,ピラトは渡すように命じた. ヨセフはそれを取り降ろして,きれいな亞麻布に包み, 岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた.墓の 入口には 大きな
をころがしかけて 歸った.そこにはマグダラ の マリヤ とほかの マリヤ とが 墓のほうを 向いてすわっていた. さて,次の日,すなわち備えの日の翌日,祭司長,パリサイ人たちはピラトのところに集まって,こう言った.「閣下.あの,人をだます男がまだ生きていたとき, 『自分は三日の後によみがえる.』と言っていたのを思い出しました.
ですから,三日目まで 墓の 番をするように命じてください.そうでないと,弟子たちが來て,彼を盜み出して, 『死人の中からよみがえった.』と民衆に言うかもしれません.そうなると、 この惑わしのほうが, 前のばあいより,もっとひどいことになります.」
ピラト は「
番兵を 出してやるから,行ってできるだけの番をさせるがよい.」と彼らに言った. そこで,彼らは行って,に封印をし,番兵が墓の番をした.
万能の救い主なるイエスを賛美します。彼の十字架の死によって、私たちは救われました。私たちの人生は変えられました。彼の無残でぼろぼろの死によって、私たちの汚い人生は、人格は変えられました。そんな主イエスの愛に何を持ってこたえるべきでしょうか。実は何もありません。神様にささげられるものは全て神様に与えられたものであるだからです。それは、ただ信仰を持って応えるものです。しかも、信仰さえも神様から与えられたものです。その信仰さえも難しいことあります。今日の聖書箇所では、祭司や律法学者たちは「イエスの復活を信じず、彼らが嘘を企てようとしている」から、それを阻止しようとさえします。いや、それは主イエスを恐れたのかもしれません。自分の立場が壊されることを阻止しようとしたのです。最後まで悪巧みを持つ人は安心できないのです。死んでも主イエスを恐れたのです。信仰を持って勇気を持って出て行くヨセフとは正反対です。弟子には勇気があります。同じ議員の一人であったのに違う反応があります。立場によって人は動くのでなく、キリストの弟子であるかによって動くことが分かります。その反対の場所には、マグダラのマリヤと他のマリヤがいました。そして、今日の聖書箇所の主人公ともいえるヨセフが居ました。彼は神様の国を待ち望んでいた人でした。そして、「イエスの弟子」であったと言われています。彼は思い切って、イエスの体を下げ渡しを願い、自分の大きなささげ物である新しい墓、そして布を用意しました。もしも、彼がこのような働きをしなかったら、墓さえも無かったのかもしれません。石で閉ざされた墓が用意されました。彼らの中でも、誰もイエスの復活を待ち望めた人はいなかったかもしれません、絶望的な状況でした。しかし、その中で私たちが出来ることは「信仰」だけです。いや、信仰さえも神様の下さるものです。主イエスの復活を待ち望む信仰で、北米で仕えていきます。墓の石を打ち破られた主イエスを待ち望みます。