坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 16, 2009

もはや黙っていてはならない

イザヤ62:1-9
シオンのために, わたしは 默っていない. エルサレム のために, 默りこまない. その義が朝日のように光を放ち, その救いが, たいまつのように燃えるまでは. そのとき,國¿はあなたの義を見,すべての王があなたの榮光を見る. あなたは, 主の口が 名づける新しい名で呼ばれよう.あなたは主の手にある輝かしい冠となり,あなたの神の手のひらにある王のかぶり 物となる. あなたはもう,「見捨てられている. 」と 言われず, あなたの國はもう, 「荒れ 果てている. 」とは言われない. かえって, あなたは「わたしの喜びは, 彼女にある. 」と 呼ばれ, あなたの國は夫のある國と呼ばれよう. 主の 喜びがあなたにあり, あなたの 國が 夫を 得るからである. 若い男が若い女をめとるように, あなたの子らはあなたをめとり, 花¿が 花嫁を 喜ぶように, あなたの 神はあなたを 喜ぶ. エルサレムよ. わたしはあなたの 城壁の上に見張り人を置いた. ¿の間も,夜の間も, 彼らは決して默っていてはならない.主に覺えられている 者たちよ.默りこんではならない. 主が エルサレム を 堅く 立て, この 地で エルサレム を 榮譽とされるまで, 默っていてはならない. 主は右の手と,力强い 腕によって 誓われた. 「わたしは 再びあなたの穀物を,あなたの敵に食物として 與えない. あなたの 勞して 作った 新しいぶどう 酒を,外國人に決して飮ませない. 取り入れをした者がそれを 食べて, 主をほめたたえ, ぶどうを取り集めた者が, わたしの 聖所の 庭で, それを 飮む. 」
神様に導かれる人は、弱い人ではありません。自分自身は弱い人であっても強く神様に導かれている人です。何故なら、神様は主の民のために、クリスチャンのために黙っている方ではないからです。たとえ、目に見える現実はぼろぼろであっても、決して神様は私のために黙っている方ではないのです。イスラエルが、クリスチャンがサタンに攻撃されてぼろぼろになった時は、心を痛み、回復されようとする方です。私の人生は、神様のみ手にある時に輝きます。自分の手で動くときは輝きません。自分の義で歩むときは難しい人間関係に悩みます。しかし、神様の手に(神様の計画に、神様の手によって創造されるときに)神様の冠となります。私はそれを信仰を持って待ち望んでいるでしょうか。お前は駄目だという声を退けているでしょうか。それは、ノンクリスチャンだけでなくて、クリスチャンからも聞こえるときもあります、主に覚えられているものは、黙ってはいけません。神様が黙っておられないからです。そして、私のアイデンティは「新しく主の名前で呼ばれているもの」だからです。古い自分、罪に縛られている自分、習慣に縛られている自分、古い神様のものであることを拒んでいた自分から抜け出していることを宣言しているでしょうか。自分の労したものを外国人、敵が飲まない、主にある人々が神様の栄光を見ながら、苦労を感謝しながら、祝福しながら飲むといわれているのです。神様の働きをしたものは正しく報いを得、神様の前に礼拝する喜びを得ます。新しい人生を歩み、現実にある敵に、信仰を持って神様の人生、計画を宣言して歩みます。