坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 4月 04, 2009

宗教人になるな!

ヨハネの福音書18:28
さて, 彼らはイエスを,カヤパのところから 總督官邸に 連れて 行った. 時は 明け 方であった. 彼らは、過越の食事が食べられなくなることのないように, 汚れを 受けまいとして, 官邸にはいらなかった. そこで,ピラト は 彼らのところに 出て 來て 言った. 「あなたがたは,この人に對して何を告發するのですか. 」 彼らはピラトに答えた. 「もしこの 人が 惡いことをしていなかったら, 私たちはこの 人をあなたに引き渡しはしなかったでしょう. 」 そこで ピラトは彼らに言った.「あなたがたがこの人を引き取り,自分たちの律法に從ってさばきなさい.」 ユダヤ人たちは彼に言った「私たちには,だれを
死刑にすることも許されてはいません.」
今朝の聖書箇所は非常に面白い話が出てきます。イエスを裁こうとした「彼ら」は、祭司長たちや律法学者たちは「過ぎ越しの食事」が食べられなくなることを嫌がって、汚れを受けまいと官邸に入らなかったとあります。彼らはイエスを裁いて殺すために、つれてきたのにその責務を実行せずに他の人にさせたのです。面白い話で無いでしょうか。彼らは無実の人を殺す、という律法を一番大きく破りながらも、「過ぎ越しの祭り」の食事、罪のためのあがないのわざを受けようとしていたのです。イエスの罪のゆるしがなされようにしている横で、イエスを殺すことをしながらも、過ぎ越しの祭り、律法を守ろうとしていたのです。まさに、宗教人の姿です。宗教をしている人は動機を問われること無く、行いをさえしていれば、いいのです。それは、RELIGIONとしての宗教、キリスト教なのです。キリスト教とは、神様の関係でありRELATIONなのです。そこには生きた関係もありません。ただ、CLOSEな動きがあるだけです。宗教人は
①自分で責任をとらず、自分の手を汚さないでいる。しかし、神様が裁かれる日が来る
②律法を動機を問うことなくしている。神様の満足でなく自己満足である。
神様との関係は無い。
③まことの救い、恵みは行いでない。ただである。イエスの死による。クリスチャンの生き方は動機を問われる。そこにこそ、多くの世の人が願うクリスチャン、キリストの生き方を追及する人々は多くの人々にとって魅力を持つ
今朝の私への適用は、私も若いと言いながらも、ずっと保守的になっている姿、多くの人を受け入れる恵みよりは、自分の受けた傷から拒否することを覚えました。新しい働きに心をオープンします。また、宗教人から受けた傷を癒され、ゆるして歩みます。神様に会って常に新しく、成長する人になって行きます。