坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 4月 12, 2009

NEW LIFEを生きよ

イザヤ59:9-
それゆえ, 公義は 私たちから 遠ざかり, 義は 私たちに 追いつかない. 私たちは 光を 待ち 望んだが、見よ,やみ.輝きを待ち望んだが,暗やみの中を步む. 私たちは盲人のように 壁を 手さぐりし,目のない者のように手さぐりする. 眞¿でも, たそがれ 時のようにつまずき, やみの中にいる死人のようだ.私たちはみな, 熊のようにほえ, 鳩のようにうめきにうめく.公義を待ち望むが,それはなく,救いを待ち望むが,それは私たちから遠く離れている. それは, 私たちがあなたの御前で多くのそむきの罪を犯し, 私たちの罪が,私たちに不利な證言をするからです.私たちのそむきの罪は, 私たちとともにあり,私たちは自分の咎を知っている. 私たちは, そむいて, 主を否み,私たちの 神に 從うことをやめ, しいたげと反逆を語り,心に僞りのことばを 抱いて,つぶやいている. こうして公正は
退けられ,正義は遠く離れて立っている. 眞理は場でつまずき, 正直は 中にはいることもできない. そこでは眞理は失われ,惡から 離れる 者も, そのとりこになる. 主はこれを見て,公義のないのに心を痛められた.
主は人のいないのを見,とりなす者のいないのに驚かれた.そこで,ご自分の御腕で救いをもたらし,ご自分の義を,ご自分のささえとされた. 主は義をよろいのように着, 救いのかぶとを頭にかぶり,復讐の衣を身にまとい, ねたみを外套として身をおおわれた.
主は彼らのしうちに應じて報い,その仇には憤りを報い, その敵には報復をし, 島¿にも 報復をする.
そうして, 西のほうでは,主の御名が,日の上るほうでは,主の榮光が恐れられる.主は激しい流れのように來られ, その中で主の息が吹きまくっている. 「しかし,シオンには贖い主として來る. ヤコブ の 中のそむきの 罪を 悔い 改める 者のところに 來る. 」··主の御告げ. ·· 「これは,彼らと 結ぶわたしの 契約である. 」と 主は 仰せられる. 「あなたの上にあるわたしの
,わたしがあなたの口に置いたわたしのことばは, あなたの 口からも,あなたの子孫の口からも,すえのすえの口からも,今よりとこしえに 離れない. 」と 主は 仰せられる.
私たちの罪は、いや私の罪は何と大きいことでしょうか。そして、その罪のためにとりなしてがいないことに驚かれ、公儀の無いことに心を痛められました。そして、ご自身が御腕をもって救いをなされたのです。それは、私たちが悪の罪のとりことなっていたからです。私自身はどれほど、主に喜ばれない時や、お金の使い方、歩みをしているのか?と思います。今朝、主に会って悔い改めます。主よ私を憐れんでください。憐れみを注ぐに値しないものに憐れみを注いでください。主なる神様が私と一方的な永遠の契約を結んでくださったことに心より感謝します。そうでないなら、私は主イエスの名を恐れを持って待たないといけないのです。しかし、復活の主イエスを心より賛美します。それゆえに、私は神様を裁き主として出なくて、いいえそれは主イエスがご自身が受けてくださったのです。神の御子が神様との関係を壊して「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのです。これは、私が言わないといけないセリフだったのです。主はしうちに応じて報い方だったのに、そのしうちを私でなくて主イエスに下されたのです。何と言うことでしょうか。何と驚きべき愛でしょうか。普通でなくて驚くしかない愛なのです。贖い主として来てくださる主イエスは、永遠の契約を持って「神様の霊を私に、私の子孫に注いでくださいます」それは離れることが無いのです。昨日、久しぶりにPASSIONを教会で見ました。十字架の贖いを黙想する時間となりました。主よ、この苦しみを味わって私を買い取ってくださった人生、NEW LIFEを大事に生きます。そして、このNEW LIFEをどうしても、伝えたいのです。主イエスの愛を伝えさせてください。永遠の契約を、離れない愛の契約に頼ってNEW LIFEに生き伝えさせてください。