坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 09, 2009

受肉した御言葉を受けた私

ルカの福音書24:1-12
週の初めの日の明け方早く, 女たちは, 準備しておいた 香料を 持って 墓に 着いた.
見ると
が墓からわきにころがしてあった. はいって見ると,主イエスのからだはなかった. そのため女たちが 途方にくれていると, 見よ, まばゆいばかりの 衣を 着たふたりの 人が, 女たちの近くに來た. 恐ろしくなって, 地面に 顔を 伏せていると, その 人たちはこう言った. 「あなたがたは, なぜ 生きている方を死人の中で搜すのですか. ここにはおられません. よみがえられたのです. まだ ガリラヤ におられたころ, お 話しになったことを 思い 出しなさい. 人の子は必ず罪人らの手に引き渡され, 十字架につけられ, 三日目によみがえらなければならない, と 言われたでしょう. 」 女たちはイエスのみことばを思い出した. そして, 墓から 戾って, 十一弟子とそのほかの 人たち 全部に, 一部始終を 報告した. この 女たちは, マグダラ の マリヤ と ヨハンナ と ヤコブ の 母 マリヤ とであった. 彼女たちといっしょにいたほかの 女たちも, このことを 使徒たちに 話した.
ところが 使徒たちにはこの 話はたわごとと 思われたので, 彼らは女たちを信用しなかった.
〔しかしペテロは,立ち上がると走って墓へ行き,かがんでのぞき¿んだところ, 亞麻布だけがあったそれで, この 出來事に 驚いて 家に 歸った. 〕

主イエスは、御言葉が受肉された方です。神様が分からない私たちのために人間となってきてくださった100%人間で、100%神様がイエス様です。ありのような私たちのために、ありに神様の愛をわかってほしいとありになってくださったのが主イエスです。ですから、私たちは神様のみ言葉を人間のレベルで理解して、人間のレベルで行おうとします。それが楽だからです。私の理解の範疇や出来ることを超えようとしません。また、キリストが私の全てであることよりも、趣味にとどまることを願います。自分の好きなように行きたいからです。それが、キリストの復活に出会った女性たちと11弟子たちでした。いや、それは私の私たちの姿や信仰です。しかし、キリストの復活に出会うならば命をかけてキリストに従う決心をする以外ありません。それが、永遠の価値になるからです。女たちはイエスが死んで終わりだと思っていました。しかし、イエスはよみがえらないといけないと言われたのです。「必ず罪人に渡されて十字架にかかる」のみならず、「よみがえらないといけない」と言われたのです。それを預言されましたし、旧約聖書にも書いてあったのです。いける神様のみ言葉を、信仰を墓なの中に埋めてしまうことをしたのです。自分の理解という人間のレベルに治めたためです。弟子たちは更に女性を馬鹿にして、真面目にきかなったのです。自分たちは家から一歩も出れずに恐れたいながらです。漁師に戻ることをしながらもです。私にとって、神様の下さった信仰を墓の中に、知識や人間の理解と言う範疇、レベル、死に入れていることはないかと思いました。今までの経験に縛られていることはないかと思いました。明日のメッセージに自分が死んで生かされた恵みを、生きた証を持ってかたります。