坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 4月 21, 2009

人生のゴールを見据えて今日を決めよ!


イザヤ65:13-25
それゆえ,神である主はこう仰せられる. 「見よ. わたしのしもべたちは食べる. しかし, あなたがたは飢える.見よ.わたしのしもべたちは飮む. しかし, あなたがたは 渴く. 見よ. わたしのしもべたちは 喜ぶ. しかし, あなたがたは 恥を 見る. 見よ.わたしのしもべたちは 心の 樂しみによって喜び歌う. しかし, あなたがたは 心の 痛みによって叫び, たましいの 傷によって泣きわめく. あなたがたは自分の名を,わたしの選んだ者たちののろいとして 殘す. それで 神である 主は,あなたがたを殺される.ご自分のしもべたちを, ほかの 名で 呼ばれるようにされる. この世にあって
祝福される者は,まことの神によって祝福され,この世にあって誓う者は,まことの神によって誓う. 先の苦難は忘れられ, わたしの目からされるからだ.
見よ.まことにわたしは 新しい天と新しい地を創造する. 先の事は思い出されず, 心に上ることもない. だから,わたしの創造するものを,いついつまでも樂しみ喜べ.見よ.わたしはエルサレム を創造して喜びとし, その民を樂しみとする.
わたしは エルサレム を 喜び, わたしの 民を 樂しむ. そこにはもう, 泣き聲も叫び聲も聞かれない. そこにはもう,數日しか生きない乳飮み子も, 壽命の滿ちない老人もない. 百
で死ぬ者は若かったとされ,百にならないで死ぬ者は, のろわれた者とされる.
彼らは家を建てて住み, ぶどう畑を作って,その實を食べる.
彼らが建てて他人が住むことはなく,彼らが植えて他人が 食べることはない.わたしの民の 壽命は,木の壽命に等しく,わたしの選んだ者は,自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ. 彼らはむだに 勞することもなく, 子を 産んで, 突然その 子が 死ぬこともない. 彼らは 主に
祝福された 者のすえであり, その 子孫たちは 彼らとともにいるからだ.
彼らが 呼ばないうちに, わたしは 答え, 彼らがまだ 語っているうちに, わたしは 聞く.
狼と 子羊は 共に 草をはみ, 獅子は 牛のように, わらを 食べ, 蛇は, ちりをその 食べ 物とし, わたしの 聖なる 山のどこにおいても, そこなわれることなく, 滅ぼされることもない. 」と 主は 仰せられる.
私たちの人生は、ゴールを見据えて進まないといけません。私の現在の状況は、苦しく見えても神様の将来の約束をつかんで進まないといけません。神様の新天新地を、悲しみの無い日を待ち望みながら、神様が私を喜んでくださることを(それは未来だけでなく、現在も)知って今日を歩んでいかないといけません。神様はあなたを食べ、飲ませ、喜ばせる、とあります。しかし、主のしもべで無い人は恥を見る、とあります。私はどのような人生を歩みたいでしょうか。どのような人生の節々の選択をするのでしょうか。この世における祝福は、神様にある祝福であるといわれます。神様に喜ばれる選択をしているのでしょうか?また、神様にある御言葉を信じているんでしょうか?後半には、私たちの寿命は木の寿命のように何百年、何千年となる、狼と羊が仲良くなる、とまるで神話か、御伽噺のように聞こえる御言葉があります。これももちろん、真実です。私たちの現実と神様の真実があまりに遠く聞こえるときがあるかもしれません。しかし、わたしたちは時に真実でなくても、神様はいつもどこでも永遠に真実な方です。神様の創造されたものをいつまでも喜ぶ人生をつかんでいるでしょうか。私を喜んでくださるのに、私はぶすっとした人でいいのでしょうか。神様の下さったものや状況に感謝し、更に待ち望んだ心で歩んでいきます。他人に摂取されるものも無い、と言われます。私の労したものを正しく楽しむことが出来るといわれます。今日は、神様にある喜びの笑顔を持って生きていきます。出会う人に神様の祝福をつかんだ人として笑顔で接していきます。