坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 4月 01, 2009

神様に与えられた(ポジションで)法律で生きよ

イザヤ56:1-12
主はこう 仰せられる. 「公正を守り,正義を行なえ.わたしの救いが來るのは近く,わたしの義が 現われるのも 近いからだ.」 幸いなことよ.安息日を守ってこれを汚さず,どんな惡事にもその 手を出さない, このように 行なう 人, これを堅く保つ人の子は. 主に連なる外國人は 言ってはならない.「主はきっと,私をその民から切り離される.」と.宦官も言ってはならない.「ああ,私は枯れ木だ」と.まことに主はこう仰せられる.「わたしの安息日を守り, わたしの喜ぶ事を選び,わたしの契約を堅く保つ宦官たちには, わたしの 家,わたしの
城壁のうちで,息子,娘たちにもまさる分け前と名を與え,絶えることのない永遠の名を與える. また,主に連なって主に仕え,主の名を愛して,そのしもべとなった外國人がみな,安息日を守ってこれを汚さず, わたしの契約を堅く保つなら, わたしは彼らを,わたしの聖なる山に連れて行き, わたしの祈りの家で彼らを樂しませる. 彼らの 全燒のいけにえやその 他のいけにえは, わたしの祭壇の上で受け入れられる.わたしの家は,すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ. · イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ. ··わたしは, すでに 集められた 者たちに,さらに集めて加えよう. 」 野のすべての人々,林の中のすべての ¿よ.食べに來い.見張り人はみな,盲人で,知ることがない. 彼らはみな,おしの犬で, ほえることもできない.夢を見て,橫になり、 眠りをむさぼっている.この貪欲な犬どもは, 足ることを知らない.彼らは,悟ることも知らない牧者で,みな,自分かってな道に向かい,ひとり殘らず自分の利得に 向かって 行く. 「やって 來い. ぶどう 酒を 持って 來るから, 强い 酒を 浴びるほど 飮もう. あすもきょうと同じだろう. もっと, すばらしいかもしれない. 」
私たちはこの世の中で、目覚めて生きないといけません。そうでないと、サタンやこの世の誘惑に簡単に知らない間に流されてしまいます。サタンは仮面ライダーの敵役のような形で現れません。まるですごく信じられそうな、知性的な形をして現れます。そして、私たちを現実と言う形で流そうとします。また、それは時代遅れだよと言います。時代と共に変わるよ、と。そんなことをしていたら生きていけないよ、と言います。また、言ってきます。神様のみ言葉は分かるけどさ、と。しかし、神様は言われます。「わたしのすくいはちかい、これを堅く守る人は幸いだ」と言います。神様に言われた人生を、召しを堅く保って生きるのでしょうか。それとも、適当に生きるのでしょうか。サッカーのプロチームでは50cmポジションを間違えると失敗すると言います。これは僅かに1歩の差です。しかし、それで、どうなるのか大きな失敗になることをプロ選手は知っています。私たちは神様に与えられれたポジションで生きること、神様の召し、ビジョンで生きることをどのように思っているでしょうか。そこまで真剣でしょうか?これくらいいいさ、と思っていないでしょうか。今日の聖書箇所では宦官が主イエスを愛し、安息日を守り、主の喜ばれることを選ぶなら、永遠の名前と分け前を与えるとあります。

また、外国人に主の山に登ることを、礼拝を赦すことを言われます。これは、今までありえないことをなさる神様の恵みです。私はそのようなところから来たのでないでしょうか。今日、神様の恵みを感謝し、喜びの中でたちます。今日出会う留学生や人々に喜びの歌声をあげます。それとも、今日も同じだと言う人はいますか?また、牧者の中に中にも眠るもの、酔うものがいるとあります。目覚めることを心から祈ります。