坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 4月 29, 2007

神の人は過ちの後に

會衆の上に立つ 族長たちがすでに イスラエル の 神, 主にかけて 彼らに 誓っていたので, イスラエル 人は 彼らを 打たなかった. しかし, 全會衆は 族長たちに 向かって 不平を 鳴らした. そこで 族長たちはみな, 全會衆に 言った. 「私たちは イスラエル の 神, 主にかけて 彼らに 誓った. だから 今, 私たちは 彼らに 觸れることはできない.
私たちは 彼らにこうしよう. 彼らを 生かしておこう. そうすれば, 私たちが 彼らに 誓った 誓いのために, 御怒りが 私たちの 上に 下らないだろう. 」
族長たちが 全會衆に, 「彼らを 生かしておこう. 」と 言ったので, 彼らは 全會衆のために, たきぎを 割る 者, 水を 汲む 者となった. 族長たちが 彼らに 言ったとおりである.
ヨシュア は 彼らを 呼び 寄せて, 彼らに 次のように 言った. 「あなたがたは, 私たちの 中に 住んでいながら, なぜ, 『私たちはあなたがたから 非常に 遠い 所にいる. 』と 言って, 私たちを 欺いたのか. 今, あなたがたはのろわれ, あなたがたはいつまでも 奴隷となり, 私の 神の 家のために, たきぎを 割る 者, 水を汲む者となる」

(ヨシュア(9:18-23)
今日のQTは非常に難解な箇所でした。イスラエルの族長たちがギブオンの住民にだまされて、彼らと契約を結んでしまいます。しかも、神様にかけて誓ってしまったのです。

この後どうするのか、

民たちは族長やヨシュアに不平を言います。彼らは神様に尋ねることをおこたったのです

ここでも、感じたのは不平を言うイスラエルの民の姿勢でした。

私自身がリーダーへのつまずき、不平や失望をどれほど感じたことでしょうか。

また、逆に自分自身の過ちや自分自身に失望したことがあり、自分がリーダーとして周りの人へどれほど失望を与えたことかわかりません。

黙想したことは、過ちを犯したときに、取り戻せないときに、考え行動できるベストと誠実さは

何かということでした。

過ちを認める勇気と正直さ、そして神様の人は約束を守る人です。


適用:自分はどれほど過ちを認める正直さにかけて不自由なことか、と思いました。

   最近の働きでどれほど過ちを認め、悔い改めて生きているのか、と思い、祈り悔い改めました。現在の教会の働きの中で、正直に約束を守っていきます。

木曜日, 4月 26, 2007

アイの人々からの学ぶこと

「アイにいた民はみな、彼らの後を追えと叫び、ヨシュアのあとを追って、町からおびき出された」
(ヨシュア8:16)
今日は、アイの人々が少し前のイスラエルへの勝利を過信して決定的な失敗をすることです。
過信は
①自分の力を過信して、真のイスラエルの力を見れなくしてしまった

②前と同じさ、という誤った安住に陥った。これは本当に怖いものです。
③神様の力を見ず、謙遜にひざをかがめない
④ベストを尽くさない。自分の力でできる、これも非常に危険です。
イスラエルは、今回は徹底的な準備をし、ベストを尽くしても究極的な勝利は神様から来ることを知っていました。また、そのタイミングを逃しませんでした。
●神様は私にとってどのようなお方でしょうか→語りかけ、勝利を下さる方
●告白すべき罪は何か→自分の固執にとどまらない、前と同じであるという誤った安住をしない
●従うべきことは何か→謙遜にベストを尽くして、前進すること。

奉仕においても、自分の考えに固執して、他のすばらしい意見、神様の恵みを取りこぼさぬように祈り、生きます。

同じ失敗を繰り返さない

「ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。」
「全 イスラエルは, その長老たち,つかさたち,さばきつかさたちとともに,それに在留異国人もこの国に生まれた者も同樣に,主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で,箱のこちら側と向こう 側とに分かれ,その半分はゲリジム山の前に,あとの半分はエバル山の前に立った。それは,主のしもべモ ― セが先に命じたように,イスラエルの民を 祝福するためであった. それから後,ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばをことごとく読み上げた」(ヨシュア8:26、33-34)
今日のイスラエルの民とヨシュアは、アイでの敗北を二度と繰り返さないように、アイでの戦いをしました。そこでのヨシュアの姿勢は霊的な緊張感を持って歩んでいることを感じます。
それは、アイの住民をことごとく聖絶するまで「投げ槍」を差し伸べた手を引っ込めなかった、とあることから強く感じます。これを黙想してみたらどうでしょうか。投槍を差し伸べたままという姿勢はどれほど重く、疲れる作業でしょう(モーセは上げた手を一人で支えることができませんでした)。しかし、聖絶のことで過ちを犯したイスラエルの民を導くヨシュアにとって、罪を犯させないことは霊的リーダーとしての責任でした。
その後に、ヨシュアはエリコ攻略の勝利の後と違って、アイ攻略成功の後にに礼拝をささげます。それは、神様のみ言葉を守るなら祝福である、ということを感謝し、現し、謙遜に神様の前にひざまずく姿勢でした。壮大なパノラマの礼拝が展開されます。イスラエルの大人、子供、女性、外国人関係なく集められました。律法の書が石に書かれます。集まった片方はゲジリム山に、もう一方はエリム山に集まりました。それは、現実的な体験教室にもなる礼拝でした。呪いの象徴であるエバル山、祝福の象徴であるゲリジム山の半分ずつが分かれてイスラエルを祝福します。先のアイでの敗北の後から聖絶しないで罪を犯すことにより神様の怒りが降りることを体験し、アイでの徹底的な聖絶をした後に、礼拝を行います。

私の人生はどのように歩んでいるか考えました。

①神様の前に罪を聖絶しているか?本当に心がめっちゃ痛いですね。
②勝利した後に神様に礼拝をささげているのか
③失敗した後に、罪を繰り返さぬように歩んでいるのか。これも痛い
④神様の御言葉を選んで、人生の呪いを選ばずに、祝福を選んでいるのか。

神様のみ言葉の前に立ち、祝福を選びます。
今日のソウル大学での聖書研究にベストを尽くして奉仕します。

水曜日, 4月 25, 2007

霊的な緊張感を持て

「みな、用意をしていなさい」「見よ、私はあなたに命じた」
「ヨシュアはその夜、民の中で夜をすごした」「ヨシュアは翌朝早く」「ヨシュアはその夜、谷の中で夜をすごした」(ヨシュア8:4、8~9、13)
アイでの失敗と罪の悔い改めの後での戦いに、霊的な緊張感を見ることができます。人々にだらけさせることなく用意をさせ、自分自身も楽に眠るのでなく、民の中や谷の中で夜を過ごします。罪を二度と犯さない、そしてこれ以上失敗できない感じを強く受けます。
私にとって、今日は少し(いやかなり)難しいことがありました。しかし、それは霊的な緊張感を持って牧師として生きること、霊的な戦いに出ることを示しました。その日、祈りながら日々を過ごし、人と出会い、伝道して過ごしました。神様の霊的な戦いには、油断なく霊的な緊張感を持って過ごすときに勝利を得ることを感じました。厳しい中で、霊的な緊張感を与えてくださった方、神様に感謝します。

罪の告白をさせるリーダー

「そこで、ヨシュアはアカンに言った。わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか、私に告げなさい。私に隠してはいけない」(ヨシュア7:19)
今朝のQTは、本当に難しいところだな、と思いました。読んでうれしい箇所ではないかもしれません。今朝の恵みは、アカンの罪を告白させたヨシュアの霊的なリーダーシップでした。
非常に、真摯で、言うべきことを話し、聞きにくいこと、いいにくいことを逃げずに話しています。わずかな文章から多くの恵みを感じました。
それは、まずヨシュアが霊的なリーダーとして自分自身がきよく、責められる事のない生き方をしていなければ、他の人には言えないことです。
また、ヨシュアにはこれを言うべき霊的なリーダーの責任があります。
だれでも、人の罪を指摘するのは難しいことです。
しかし、ヨシュアは神様と人の前に立ちました。
その結果が、先の質問なのです。
適用:自分は神様と人の前にきよく責めれない生き方をしているのか?
   霊的なリーダーとしての責任を持って歩んでいるのか、人の嫌がることを進んでしているのか?結果は、神様との回復がイスラエル共同体に起こったのです。今日、その回復が私と共同体にありますように。

勝利のアフターケアに気をつけろ

「しかし、イスラエルの子らは聖絶のもののことで罪を犯し、ユダ部族のゼラフの子ザブディの子であるカルミの子アカンが、聖絶のもののいくらかを取った。そこで、主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がった」
「彼らはヨシュアのもとに帰ってきて言った。民を全部行かせないでください。2,3000人ぐらいを上らせて、アイを打たせるといいでしょう。彼らはわずかなのですから、民を全部やって、骨折らせることをしないでください」(ヨシュア7;1、3)
この日のQTは、エリコの勝利の後で次の戦いへ向かうイスラエルの民が失敗を犯す箇所です。
勝利の後の行動が大事なのですが、人は本当にそれが難しいことです。この日のイスラエルの民やリーダーであるヨシュアさえもそうでした。
①神様に言われたものを聖絶しなかったアカンの盗みと神と人の前に罪を犯すこと
②アカンは神への恐れや感謝がない、イスラエル共同体への罪の連鎖を考えない。
 ばれなければいい、という考え方。
③エリコ陥落の感謝の祈祷、態度がない
 (祈りに答えられてどれほど、感謝を私はしているでしょうか)
④神様がエリコを陥落させてくださったという謙遜な信仰がない
⑤次のアイを攻略するのに、人間的に判断した(エリコが落ちたのだからアイは簡単に落ちるだとう)全員でいって疲れさせないでください、という傲慢。実は、非常に難しいアイの攻略
⑥神様の声をまずは求めずに、偵察の声だけで決めてしまった。
がありました。
その結果、敗北をするのですが、ヨシュアは他のリーダーたちと祈って悔い改めます。
この敗北は、大人数が死んだのでないけど、心がなえる、という精神ショックをもたらします。
そのときに、ヨシュアは人に不平を言うのでなく、謙遜に神様の前に悲しみを注ぎだしました。
また、神様の約束(御心)に従って神様に祈った。
適用:勝利したときも、問題あるときも、神様の前に心を注ぎだして祈る謙遜な信仰を持ちます。

火曜日, 4月 24, 2007

主に期待せよ

「エリコは、イスラエル人を前に、城門を硬く閉ざして、だれひとり出入りする者がなかった」
「あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ、町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ」
(ヨシュア6:1-2)
誰にでも、人間的に硬く閉ざされた状況に出くわすものです。挫折するものです。そのときにどうするのか、非常に大事です。
①神様に祈って、神様の声を求め、答えをえる
②神様からのすでに与えれた勝利を得る
③そのために必要なのは実践と従順
そこで、奇跡がおこる。しかし、これは本当に難しいものです。
神様から祭司たちに主の箱をかつがせて6日の間城壁を1度回れ、そして7日目は7度回って 時の声をあげよ、と言われました。実践可能なことのようです。しかし、人間的には何を馬鹿なとも 思えることでもあります。実にこれが難しいことです。私は、イスラエルの民は信じて回り続けたのか、途中でだれたり、怠け心は起こらなかったのか、と黙想しました。途中で無理だよと思ったりしなかったのか。しかし、ヨシュアは12節「翌朝、ヨシュアは朝早く起き」とあります。 ああきっと、ヨシュアは朝早く祈ったんだと思いました。そうして神様との交わりを持って、人々を導いたんだ と感じました。

適用:私に必要なことは、人生の難しい閉ざされた門があるように感じても、信じて進み続けることだと思いました。このセミナーを受けている1週間、そばにいたチェ・ジェユン牧師の早朝祈祷の姿にもすごく教えられました(宿泊が同じ部屋でした)。今日のQTの聖書箇所ではいまだに奇跡は起こらないのです。しかし、信じて祈り続けます。早朝の祈りをささげ、ベストを尽くします。

足のはきものを脱げ

「すると、主の軍の将は、ヨシュアに言った。あなたの足の履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。そこで、ヨシュアはそのようにした」(ヨシュア5:15)
最近、QTの恵みのアップデートが後追いになってしまい、申し訳ない限りです。 でも、どうしても分かち合いたいと思って書いています。よろしくお願いします。
今日のイスラエルの民は、とうとうヨルダン川を渡って約束の地であるカナンに入りました。
そして、そこで約束の地に入って初めて国民的な行事である過ぎ越しの祭りをし、約束の地の産物を食べ、マナが止まるという事件の後にヨシュアと主の軍の将(神様の使い) の出会いがあります。イスラエルの民族にとって荒野生活の訓練(神様だけしか頼れないということを生活の中で教える)を終わり、約束の地に入ります。
それは、きっと私にもそういう時期が必ず来ることを覚えました。
そこで、主の軍の将が先にいました。それは、イスラエル(戦う神の意味)にとってカナンの戦いにともに神様がいる、ことを示しました。困難に共にいてくださる神様はどれほど大きいことでしょうか。 遠くに離れて、見ている神様ではなくイスラエルと共にいてくださるのです。
そこでの黙想は、私の人生の苦難、悪、迫害、困難、人間関係の難しさ、悩みという戦いに共に戦ってくださる神であるように覚えました。神様の臨在(共にいてくださること)の中で生きていてこそ、私は勝利できることことを考えました。しかし、それは自分の力では打ち勝てないこと 本当に私は自分の無力さを認め、神様の前にひざをかがめているのか、と問われました。 次に、主の軍の将はヨシュアに、「足の履物を脱げ」と言われました。これは、モーセの時と同じように神様への個人的な礼拝、使命を与えられるときでした。神様との出会いは、自分の汚さ、罪を認め、ひざまずきます。自分の罪ではきよい神様の前に立てぬことを知るのです。
適用:自分の罪深さ、気に会わない人をゆるし、愛します。主よ、愛のない私をゆるしてください。私を変えてください。あなたの前にひざをかがめ祈ります。礼拝します。

日曜日, 4月 22, 2007

区別された生き方をしているのか


「その時、主はヨシュアに仰せられた。火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ」
(ヨシュア5:2)

今日のQTは、非常におもしろい箇所です。ヨルダン川の向かいへ渡りエリコの住民が心がしなえ、もはや勇気がなくなった、という箇所に続くのは「割礼をせよ」という神様の命令です。
戦う前に、いきなり割礼をせよという神様はなぜ?と思いました。
今こそ、戦いの勝利のための絶好のチャンスなのに、いきなり割礼をして休まないといけないのです。 この理由は、出エジプトをした第一世代が死んだために(神様の御声に聞き従わなかったために、約束の地に入れなかった)荒野での第二世代が割礼を受けていなかったためです。
それにしても、このタイミングとは?
それは、イスラエルの第二世代が勝利を得る侵略戦争だけに終わらないが大事でした。
神様の民として区別される、クリスチャンとして区別される生き方が必要だったのです。
ですから、カナンの征服戦争の前に割礼を受ける必要があったのです。
カナンは偶像崇拝と悪が神様の前に立ち上っている民でした(申命記9:4)。
そこで、もしも割礼を受けずにそのままイスラエルの民が入っては堕落する危険性さえもあったのです。
適用:私はクリスチャンとして区別された生活をしているだろうか、神様に聖められた生活をしているだろうか。クリスチャンとして区別されて生きることを恐れていないだろうか。
神様の民として区別されることを決心します。

土曜日, 4月 21, 2007

真実なリーダーとは誰か?

「箱をかつぐ祭司たちは、主がヨシュアに命じて民に告げさせたことをがすべてを終わるまで、ヨルダン川の真ん中に立っていた。すべてモーセがヨシュアに命じたとおりである。その間に民は急いで渡った。」(ヨシュア4:10)
ヨルダン川を渡るときに、おもしろいことがあります。それは、民がヨルダン川を渡る時に、箱を持つ祭司たちは川の真ん中に立ち続けたことです。民が全員渡るまで、責任を持って立ち続けたのです。また、それは神の約束の箱、臨在があるなかで奇跡が起こったことでした。それを民たちは、通りながら見たことでしょう。神様の奇跡が起こり、自分たちを導く神の契約の箱、霊的な祭司たちが立っていることを見たときに、神様の導きを確信したことでしょう。
真実なリーダとは、どのような姿なのか?
①最後まで、その場所に残り責任を持つ
②神様の臨在を示す
③人の嫌がる大変なことをする(イスラエル軍が通り過ぎるまでどれほどの時間だったでしょう)
④約束を守る真実な人
⑤人の先頭にたちながらも、逆に最後までその場にいる人
適用:ヨシュアのリーダーシップを与えられた、神様を賛美し、敬拝します。
   その恵み、ヨシュアのリーダーシップ私にも与えて下さい。

感謝の記念碑



「後になって、あなた方の子供たちが、これらの石はあなたがたにとってどういうものなのですか、と聞いたなら」(ヨシュア4:6)

「あなたがたは彼らに言わなければいけない。ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川の水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ」
今朝のQTは、ヨルダン川のせき止められる奇跡の後についての話でした。
人は、たいてい奇跡やそのイベント自体に縛られることが多くあります。しかし、ヨルダン川を渡るのはプロセスにあります。また、その奇跡に感謝したり、その霊的な意味を覚えることがどれほどあるでしょうか。そこで、今日は記念の石を置き、後世の世代へと信仰の遺産を伝えるようにされます。




適用:自分にとって、神様のなされた奇跡を記念して、感謝し、次の世代へ引き継いでいるだろうか。また、今日の礼拝がイエス・キリストの十字架の罪の許しを記念してささげます。

ヨルダン川に足をいれよ


「民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。箱をかつぐ者が、ヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水際に浸ったとき」
(ヨシュア3:14-15)
先週は、弟子訓練指導者たちのためのワークショップに行って来ました。そのために、QTのアップデートが遅くなりましたが、ともに恵みを分かち合いたいと思います。

ヨシュアは、リーダーとして民たちにしたことは、神様の声を聞かせることでした。
自分の声でなく、神様の声を聞かせるところに霊的なリーダーシップの原因があります。そこに、民たちは何をすべきか知ることができました。
①神様の約束である地に入るためにカナン人に戦って勝つことを信じさせます。
②ヨシュアの下の部族ごとのリーダーを選んで、部族ごとを導くことをさせた
③そして、戦闘員でなく祭司たちを先頭にした
神様の霊的な声が約束が、先頭に導くことをしめしました(第二歴代誌20章にもヨシャパテ王の時も、賛美チームを先頭にすることがあります)。
そして、エリコへ行くことに、ヨルダン川を渡る時に、ヨルダン川を止める奇跡をされたのですが、それは、祭司たちがヨルダン川に足を踏み入れたときに起こりました。
祭司たちが、ヨルダン川に近づいた時に奇跡が起こるのではなく、ヨルダン川に足を踏み入れるまで、奇跡は起こりませんでした。それは、信仰を持っての一歩を意味します。
ヨルダン川に足を踏み入れ、足が濡れるまでは奇跡は起こらなかったのです。
適用:奇跡は、神様のわざは、信仰を持って一歩を踏み出し、足が濡れない限り起こりません。祈るだけで何もしないなら、何も起こりません。犠牲が必要です。というよりも、足が濡れることとヨルダン川の流れが止まることのどちらが大きいことでしょうか。神様のなされることを期待して、一歩を踏み出します。

金曜日, 4月 13, 2007

行ったことの無い道を行くには



ヨシュアは祭司たちに命じて言った。「契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って渡りなさい。そこで、彼らは契約の箱をかつぎ、民の先頭に立って行った」(ヨシュア3:6)


ヨシュアは、神様の声を聞いて「よく朝早く」行動しました。40年の荒野生活の後に神様の声を聞き、行動しました。ついに、ヨルダン川を渡って神様の約束の地へ入ろうとしてるのです。

今日与えられた教訓は、
①神様の声を聞くなら、すぐに行動へ移すこと
②神様の約束、神様のビジョンに自分が導かれること
(自分が先立つのでなく、神様ご自身、神様のみ言葉に導かれること)
決して、自分の感情や思いが先でないこと(それは、共同体に誤ったリーダーシップや混乱をもたらします)
③神様のビジョンは、自分の今まで経験したことの無い道へと進ませます。
神様へのおそれを持ってついていくこと
④神様の不思議(人のできない領域)を見るためには、聖くあること
⑤神様のリーダーシップ(霊的なリーダー)をたてられること
⑥そして、まずヨルダン川に奇蹟を見る前に、信仰もって先にはいること
でした。
私にとって、留学生の働きは未知の世界へ入っています。そこに、信仰もって進みます、
⑥のポイントを適用しながら歩みます。大きな勇気を得るQTでした。ハレルヤ

木曜日, 4月 12, 2007

お言葉どおりにします

「ラハブは言った。おこばどおりにいたししましょう。こうして彼女は彼らを送り出したので、彼らは去った。そして、彼女は窓に赤いひもを結んだ」(ヨシュア2:21)
今日も、QTはラハブと2人の斥候の会話が続きます。
ラハブの信仰と人生の態度は、
①何としても助かりたい、という思いからベストを尽くす姿勢
②聞いたことを行う「おことばどおり」という実行する姿勢
③「斥候の言うこと」を家族全員に守らせた
④責任ある働き

⑤赤いひもを結んだ
ここから教えられたことは、ラハブが窓に赤いひもを結んだことから、私にとって赤いひもは何だろうか?と思いました。キリストの十字架を恥じずに掲げることでないかと思いました。
また、ラハブのようにベストを尽くす姿勢はあるのか、と思いました。クリスチャンになってからのほうが徹底して奉仕をする姿勢が弱くないか、だらだらと自分の用事を先にしたり、自分のわがままから、行動していないか、とさえ思いました。皆さんはいかがですか。神様への奉仕は尊いベストであるべきでないでしょうか。失敗するけど、心の中心を神様は見られます。
適用
今日のソウル大学での奉仕にキリストを掲げる奉仕があることを祈ります。
また、人との付き合いにベストを尽くせることを祈ります。

キリストによって神様の前にある人

「あなたがたがエジプトで出てこられたとき、主があなたがたの前で、葦の海の水をからされたこと~」「~あなたがたの神、主は、上は天、下は地において神であられるからです」
(ヨシュア2:10-11)

今朝のQTの恵みは、遊女ラハブの信仰でした。彼女は、斥候してきた2人をかくまいます。その理由は、上の聖書の御言葉の通りです。彼女の信仰は、
①エジプトのパロも分からなかった、分かろうとしなかった信仰を持っています
②40年前のことも知って信じている
③神様の前に誰も勝てぬことを知っていた。
④そして、この状況にどうすればいいのか(神様の側につく)救われるのか
  エジプトの王よりもエリコの王や町の人々よりも知っていた。
ここから与えられた恵みは、
この人は救われなさそう、まさかこの人が神様の名前を呼ぶと思えない人が
救われるということです。しかも、正確に神様のことを知っている、ことでした。
ラハブは、私がどんなに汚れた罪人であっても、神様の誠実な人格や約束にすがってでていく
という祝福を受ける姿がありました。恵みの場所に敏感でした。逃さなかったのです。
適用
自分は、この人に奉仕するのは難しいとか、救われないとか考える人を人間的に区別していないかと思いました。具体的に難しい人を覚え仕えることにしました。
また、自分もラハブのように恵みの座に敏感に出て行きます。私がどんなに汚れていても神様の約束にすがっていきます。

火曜日, 4月 10, 2007

ヨシュアのリーダーシップとフォロワー

ヨシュアのリーダーシップとフォロワー
「そこで、ヨシュアは民のつかさたちに命じて言った」(ヨシュア1:10)
「彼らはヨシュアに答えて言った。あなたが私たちに命じたことは、何でも行います。また、あなたが遣わす所、どこでもまいります」(ヨシュア1:16)
日ごとに私たちを新しくされる復活の主イエスのみなを賛美します。昨日に引き続いて、神様の召しを受けたヨシュアの行動からのQTです。あーあ、QTが楽しいなー。
ヨシュアは、神様の召しを受けた後にどのように行動したでしょうか。その神様の召しを分かち合ったのです。意外とどうでしょうか。神様からの召しは個人的なものであっても、人と分かち合わないと何も起こらないのでないでしょうか。クリスチャンは個人的な神様の召しを受けても、それを分かち合わないといけないのに、それが欠けていることがないでしょうか。
神様のリーダーは
① 個人的に神様からの召しを受ける
② それは、神様の人と分かち合う
③ 神様のリーダーの権威は、フォロワーに動機付与をします
ここでおもしろいいのは、ヨシュアは神様からの召しと命令(祝福)をすぐに分かち合ったことです。40年荒野をさまよったのに、「3日のうちに、あなたがたはこのヨルダン川を~」と伝えたのです。40年さまよって無理だったのに、先祖たちはほとんど死んでしまい、ヨシュアとカレブしか残ってなかったのに、彼らは神様のビジョンを分かち合ったリーダーに従ったのです。まさに、神様の声を聞いたリーダーに従ったのです。
しかし、ここで黙想させられたのはヨシュア自身が従う人であったことです。
ですから、神様に従う祝福も知っていたし、従う人の気持ちも分かったでしょう。
ヨシュアのリーダーシップは、神様に従うところから来ました。そして、付き従った人々は世シュアに従わない人は「殺される」とまで言う義務以上、自主的なささげものを出しました。
ここに、美しい神様のリーダーとフォロワーがいます。

今朝の祈りは、こう祈りました。神様に従うヨシュアのようなリーダーにしてください。
そして、自分と共にどこまでも行くという自主的なフォロワーを与えてください。
そして、神様の約束の地をあなたにささげます。

神様のビジョンの後継者


神の約束は人が変わっても必ずなる
「あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセと共にいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヨシュア1:5)
「強くあれ、雄雄しくあれ、わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ」(ヨシュア1:6)
今日からヨシュア記のQTですね。何か、受難週から復活節を経て、ついにヨルダン川を越える喜びが来そうですね。
今朝のヨシュアは、モーセからのリーダーシップの後継することを「神様からの声」によって引き継ぎます。それは、偉大なリーダーであり、この地の誰にも勝って謙遜な人であったモーセが死んでも、神様の約束は変わらず、不可能なことになることが無いことを示すことです。
ヨシュアの心情はどうだったでしょうか。偉大なモーセのリーダーシップ、信仰、謙遜なすがた、そのすべてに大きな限界を感じたことかもしれません。実際にモーセの大きさは計り知れません。しかし、その偉大な人よりも神様が素晴らしい方であり、モーセを大きくしたのは神様の訓練です。ヨシュアはそのモーセのそばで仕えました。その偉大な人のモーセでもできなかったカナンの地への征服。しかし、人がどうのこうのでなく、神様の計画と約束は必ずなるのものです。また、モーセを用いた神様に同じようにヨシュアを用いるのです。
その神様の召しは
① あなたと共にいる
② 強くあれ、雄雄しくあれ
③ 律法を右にも左にもそれず行え
でした。それは、神様の約束を必ずなされるからでした。神様の人は、神様のリーダーシップは、神様と共に生きることから来ます。神様の声を聞く、神様の心を持つことから、その影響力は来ます。人の力からくるものでありません。人の経験不足がそれを壊すものでありません。
人の比較がするものでもありません。神様は、人を造られた方です。その方が自由に人を用いられないことがあるでしょうか。神様の計画のために、約束の成就のために、その人生をヨシュアはささげたのです。神様が共にいること、強くあれ、律法を守ることにより。
神様は三度も繰り返し、語られました。どれほど、大きな励ましだったでしょう。

私にとって、非常に大きな励ましの御言葉でした。神様の約束を再確認するものでした。
強く、雄雄しく、神様のビジョンを後継するものとして生きます。

金曜日, 4月 06, 2007

キリストは自己主張されなかった


キリストは自己主張されなかった
しかし、彼らは叫ぶ続けて「十字架だ、十字架につけろ」と言った。
(ルカの福音書23章21節)
イエスキリストを十字架にかけるために、集められた人々(祭司、律法学者、民衆)はイエスを十字架にかけるために、叫び続けました。ここでの黙想は、
① 自分の意見を通すために自己主張しつづける姿勢
② 罪を指摘され、罪の自己防衛をする人々
③ 社会的にも、常識的にもおかしいのに、無実のイエスを十字架につけるために
叫び続けた
  ④ この世は、自分を見ろ、という自己主張に満ちています。しかも、自分に罪や過ちがあるにもかかわらず、自分を守るために他の人をおとしいれたりします。
④ 対照的なのは、イエスは全く自己主張されなかったことです。
イエスこそが正しく自分の無実を主張できるのに。
ここで、考えたのは自分にとって自分の都合の悪いことを守るために自己主張していないか?
また、イエスのように当然言えるべきことを神様のみ旨に従い、黙っている姿勢が私にあるのか?ということでした。自己主張されなかったイエスのために私は今日を生かされている。
与えられた人生をどのように生きようか、と思いました。今日、イエス・キリストのゆえに自分の自己主張をやめます。

木曜日, 4月 05, 2007

何のために会うのか、集まるのか?


「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」
(ルカの福音書23章1節)
「この日、ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは敵対していたからである」

イエスを裁判で陥れるために、ここであらかじめ用意された、集められた人たちが出てきます。 ここで「全員が立ち上がる」ことが明らかにしてます。祭司長、群集、指導者たちが集まって、自分の利益と怒り、しっとのために集まってイエスを裁判にかけ、殺そうとしたのです。
ここで、黙想したことは「何のために集まるのか、何のために会うのか」ということです。
彼らの集まりは、「人を殺す」ための集まりでした。
また、ヘロデとピラトの出会いは「仲良くなる」ためでなく、利益のためでした。
ヘロデのイエスへの関心は、何かの奇蹟を見たい、という思いでした。
世の中の集まり、出会いには、
自分の利益のため、議論するため、詐欺、会社の利益のため、などあります。
しかし、私の出会いは、クリスチャンとしての集まりはどのようなものか、考えました。
教会、礼拝するための集まり、ビジョンのための集まり、神との出会い、人格的な出会い
などあります。私はどのような集まり、出会いが必要なのだろうか、と思いました。
私にとって、再びQTを通しての神様との人格的な心の出会いを求めることを祈ります。
また、魂の触れられる出会いを求めて奉仕します。

聖餐式に感動があるのか?


「この杯は、あなたがたのために流される私の血による新しい契約です」
ルカの福音書22章20節
今朝のQTは、聖餐式をスタートされたイエスの場面でした。イエスはこの最後の晩餐を
心から共にすごすことを待ち望まれていました。
今朝恵まれたことは、神様の新しい約束は、
①神様の一方的な約束である
②人は約束をたがえたり、状況によって動いてしまう
③この約束は「ささげもの」は血である。
④命を懸けての約束
私のとって、神様の愛は命をかけての救いでした。自分の罪をゆるしてくださることは命をかけての約束であり、愛でした。この聖餐式はしかも、一人で守るのでなく教会の人と共に神様の家族として共に分かち合う感動があります。

自分にとって聖餐式は馴れ合いになっていないのか、血を持っての約束を感謝と感動があるのか、それよりも、不平や不満が心をふさいでいないか、と思いました。
新しい感動をもって聖餐式を受けます。

火曜日, 4月 03, 2007

復活は目的ある人生を与える

「さて、過ぎ越しの祭りといわれる、種なしパンの祝いの日が近づいていた」
祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。
ルカの福音書22:1-2節

今朝のQTはイエス・キリストの過ぎ越しの準備と祭司長たちの過ぎ越しの準備が対照的に
出てきます。イエス・キリストは旧約聖書からの予表である子羊のほふられることを実現されようとしています。その時間を弟子たちと過ごそうとされます。
逆に、宗教の専門家である祭司や律法学者たちは「人を殺す、イエスを殺す」ためにこの時間をすごし、その準備をしようとしています。


①宗教家の目的は、この世の一時期的なことに関心がありました
②自分の生きている期間だけに関心があることは
③自分の利益や、人気、人をおそれることを招きました
④イスカリオテのユダは、イエスの弟子であっても変化を受けませんでした
⑤ユダには、この世の名声、お金、地位が大事でした。
⑥そこには、永遠の宝への価値観、渇望はありませんでした
⑦神のためにユダが自分の人生をささげるのでなく
⑧ユダ自身のために神を利用したい

永遠の人生を見つめて、自分の準備できることは何か、
神様にささげるものは何か、黙想しました。
自分自身を静かに差し出すことでないか、と思いました。
過ぎ越しの食事を用意した「水がめを運んでいる男のささげた」客間は永遠に残る
美しいささげものでした。名前も光も無い、彼のささげものは静かに聖書に記録されています。神の命を生きる者として、今日も留学生と韓国の皆さんに仕えていきます。

復活は最高の希望

ところが、復活があることを否定するサドカイ人のある者たちが、イエスのところに来て、質問して」(ルカの福音書20章27節)

今朝考えたことは、もしも復活がないのなら人生のどのよう問題が解決されても、
希望が無い、ということでした。最終的に、死に、解決がついていないなら、
神様の関係が解決できないなら、最後に待っているのは希望でない、ということです。
そこには、むなしさがあるだけです。
復活がないなら、すべての人生の問題に「もしも」というはなししかできないことであり、
それは、非常に不安定な世界でないか、と思いました。
サドカイ人は、この世でもあの世でもありえない事例をあげてイエスに質問します。

自分の生きている道は、人生はいろんな苦しみがあっても、人生の答えを
ゴールをみつけていること、神様との関係を持っていることを覚えました。
そこに、どのような不安があるでしょうか。
「彼らはもうそれ以上何も質問する勇気がなかった」(40節)
サドカイ人は最終的に勇気を失ってしまったのです。
私は、何を不安に思っているのだろうか、と思いました。すでに神様との永遠の命を持ち、
復活信仰を持って生きているのに。
きょう、復活信仰に立ち、勇気を持って生きていきます。

成熟した者のすべきこと


私の妹は若く、乳房もない。私の妹に縁談のある日には、彼女のために何をしてあげよう」
(雅歌8:8)

今朝のQTで雅歌が終わります。多くのチャレンジを与えられるQTでした。
さて、「私の妹は若く、~彼女のために何をしてあげよう」からの黙想です。
妹はまだ、成長過程にあります。そこで、兄は妹のためになにをしてあげよう、といいます。
人は、ある日急に成長したり、成熟するのでなく、未成熟な過程を通って
成熟していきます。それでは、成熟した人は未成熟な人にどのようにすべきでしょうか。
えらそうに、できていないこところを指摘するべきでしょうか。
また、欠点を追求すべきでしょうか。
成熟した人は、他の人が成長できるように仕えるべきなのです。
良い影響を与えるのが、成熟した人なのです。
成熟した人のポイントは他の人に仕えることができる。
見守ることができる。
しかし、私は何と逆なことが多いのか、と思いました。
人を指摘するより、愛し、見守る一日を送ります。