坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 26, 2007

同じ失敗を繰り返さない

「ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。」
「全 イスラエルは, その長老たち,つかさたち,さばきつかさたちとともに,それに在留異国人もこの国に生まれた者も同樣に,主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で,箱のこちら側と向こう 側とに分かれ,その半分はゲリジム山の前に,あとの半分はエバル山の前に立った。それは,主のしもべモ ― セが先に命じたように,イスラエルの民を 祝福するためであった. それから後,ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばをことごとく読み上げた」(ヨシュア8:26、33-34)
今日のイスラエルの民とヨシュアは、アイでの敗北を二度と繰り返さないように、アイでの戦いをしました。そこでのヨシュアの姿勢は霊的な緊張感を持って歩んでいることを感じます。
それは、アイの住民をことごとく聖絶するまで「投げ槍」を差し伸べた手を引っ込めなかった、とあることから強く感じます。これを黙想してみたらどうでしょうか。投槍を差し伸べたままという姿勢はどれほど重く、疲れる作業でしょう(モーセは上げた手を一人で支えることができませんでした)。しかし、聖絶のことで過ちを犯したイスラエルの民を導くヨシュアにとって、罪を犯させないことは霊的リーダーとしての責任でした。
その後に、ヨシュアはエリコ攻略の勝利の後と違って、アイ攻略成功の後にに礼拝をささげます。それは、神様のみ言葉を守るなら祝福である、ということを感謝し、現し、謙遜に神様の前にひざまずく姿勢でした。壮大なパノラマの礼拝が展開されます。イスラエルの大人、子供、女性、外国人関係なく集められました。律法の書が石に書かれます。集まった片方はゲジリム山に、もう一方はエリム山に集まりました。それは、現実的な体験教室にもなる礼拝でした。呪いの象徴であるエバル山、祝福の象徴であるゲリジム山の半分ずつが分かれてイスラエルを祝福します。先のアイでの敗北の後から聖絶しないで罪を犯すことにより神様の怒りが降りることを体験し、アイでの徹底的な聖絶をした後に、礼拝を行います。

私の人生はどのように歩んでいるか考えました。

①神様の前に罪を聖絶しているか?本当に心がめっちゃ痛いですね。
②勝利した後に神様に礼拝をささげているのか
③失敗した後に、罪を繰り返さぬように歩んでいるのか。これも痛い
④神様の御言葉を選んで、人生の呪いを選ばずに、祝福を選んでいるのか。

神様のみ言葉の前に立ち、祝福を選びます。
今日のソウル大学での聖書研究にベストを尽くして奉仕します。