坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

日曜日, 4月 29, 2007

神の人は過ちの後に

會衆の上に立つ 族長たちがすでに イスラエル の 神, 主にかけて 彼らに 誓っていたので, イスラエル 人は 彼らを 打たなかった. しかし, 全會衆は 族長たちに 向かって 不平を 鳴らした. そこで 族長たちはみな, 全會衆に 言った. 「私たちは イスラエル の 神, 主にかけて 彼らに 誓った. だから 今, 私たちは 彼らに 觸れることはできない.
私たちは 彼らにこうしよう. 彼らを 生かしておこう. そうすれば, 私たちが 彼らに 誓った 誓いのために, 御怒りが 私たちの 上に 下らないだろう. 」
族長たちが 全會衆に, 「彼らを 生かしておこう. 」と 言ったので, 彼らは 全會衆のために, たきぎを 割る 者, 水を 汲む 者となった. 族長たちが 彼らに 言ったとおりである.
ヨシュア は 彼らを 呼び 寄せて, 彼らに 次のように 言った. 「あなたがたは, 私たちの 中に 住んでいながら, なぜ, 『私たちはあなたがたから 非常に 遠い 所にいる. 』と 言って, 私たちを 欺いたのか. 今, あなたがたはのろわれ, あなたがたはいつまでも 奴隷となり, 私の 神の 家のために, たきぎを 割る 者, 水を汲む者となる」

(ヨシュア(9:18-23)
今日のQTは非常に難解な箇所でした。イスラエルの族長たちがギブオンの住民にだまされて、彼らと契約を結んでしまいます。しかも、神様にかけて誓ってしまったのです。

この後どうするのか、

民たちは族長やヨシュアに不平を言います。彼らは神様に尋ねることをおこたったのです

ここでも、感じたのは不平を言うイスラエルの民の姿勢でした。

私自身がリーダーへのつまずき、不平や失望をどれほど感じたことでしょうか。

また、逆に自分自身の過ちや自分自身に失望したことがあり、自分がリーダーとして周りの人へどれほど失望を与えたことかわかりません。

黙想したことは、過ちを犯したときに、取り戻せないときに、考え行動できるベストと誠実さは

何かということでした。

過ちを認める勇気と正直さ、そして神様の人は約束を守る人です。


適用:自分はどれほど過ちを認める正直さにかけて不自由なことか、と思いました。

   最近の働きでどれほど過ちを認め、悔い改めて生きているのか、と思い、祈り悔い改めました。現在の教会の働きの中で、正直に約束を守っていきます。