坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 4月 03, 2007

復活は目的ある人生を与える

「さて、過ぎ越しの祭りといわれる、種なしパンの祝いの日が近づいていた」
祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。
ルカの福音書22:1-2節

今朝のQTはイエス・キリストの過ぎ越しの準備と祭司長たちの過ぎ越しの準備が対照的に
出てきます。イエス・キリストは旧約聖書からの予表である子羊のほふられることを実現されようとしています。その時間を弟子たちと過ごそうとされます。
逆に、宗教の専門家である祭司や律法学者たちは「人を殺す、イエスを殺す」ためにこの時間をすごし、その準備をしようとしています。


①宗教家の目的は、この世の一時期的なことに関心がありました
②自分の生きている期間だけに関心があることは
③自分の利益や、人気、人をおそれることを招きました
④イスカリオテのユダは、イエスの弟子であっても変化を受けませんでした
⑤ユダには、この世の名声、お金、地位が大事でした。
⑥そこには、永遠の宝への価値観、渇望はありませんでした
⑦神のためにユダが自分の人生をささげるのでなく
⑧ユダ自身のために神を利用したい

永遠の人生を見つめて、自分の準備できることは何か、
神様にささげるものは何か、黙想しました。
自分自身を静かに差し出すことでないか、と思いました。
過ぎ越しの食事を用意した「水がめを運んでいる男のささげた」客間は永遠に残る
美しいささげものでした。名前も光も無い、彼のささげものは静かに聖書に記録されています。神の命を生きる者として、今日も留学生と韓国の皆さんに仕えていきます。