坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 4月 05, 2007

何のために会うのか、集まるのか?


「そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った」
(ルカの福音書23章1節)
「この日、ヘロデとピラトは仲良くなった。それまでは敵対していたからである」

イエスを裁判で陥れるために、ここであらかじめ用意された、集められた人たちが出てきます。 ここで「全員が立ち上がる」ことが明らかにしてます。祭司長、群集、指導者たちが集まって、自分の利益と怒り、しっとのために集まってイエスを裁判にかけ、殺そうとしたのです。
ここで、黙想したことは「何のために集まるのか、何のために会うのか」ということです。
彼らの集まりは、「人を殺す」ための集まりでした。
また、ヘロデとピラトの出会いは「仲良くなる」ためでなく、利益のためでした。
ヘロデのイエスへの関心は、何かの奇蹟を見たい、という思いでした。
世の中の集まり、出会いには、
自分の利益のため、議論するため、詐欺、会社の利益のため、などあります。
しかし、私の出会いは、クリスチャンとしての集まりはどのようなものか、考えました。
教会、礼拝するための集まり、ビジョンのための集まり、神との出会い、人格的な出会い
などあります。私はどのような集まり、出会いが必要なのだろうか、と思いました。
私にとって、再びQTを通しての神様との人格的な心の出会いを求めることを祈ります。
また、魂の触れられる出会いを求めて奉仕します。