坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 3月 31, 2010

私の苦難を通してほかの人が生かされることを願うか?

イザヤ53;7-12
苦難を通して、主イエスは沈黙をされました。驚きべきことです。しかも、彼の苦しみは自分の過ちのためでなくて、他の人、人間の、わたしの罪のためだったのです。それを誤解されても何も言わない、ということはありえない話で無いでしょうか。わたしならどうでしょうか。言うべきことを言い、主張し、誤解を解くことに一生懸命になっており、またどれほど自分の苦しみを味わって、人の罪のためになっているのか?を話することでしょう。しかし、主イエスはそうされませんでした。黙って受けられたのです。自分の痛みを通して、苦しみを通して、多くの人の罪と痛みと傷が完全に癒されることを願って、完全に従順されたのです。今朝、BUSに乗ってQTを改めてしながら、主イエスがそうしてくださったことに、わたしの罪と傷の癒しがあったことを覚えて、心から感動しました。BUSの中で、涙が出てきました。自分の救いの証も、そのように用いて欲しいと言う願いが起こりました。何故なら、主イエスが傷を、十字架で受けてくださったゆえに、最終的に素晴らしい祝福の人生の勝利が与えられているからです。今日、神様の証を受けて歩みます。わたしの証を、主イエスがわたしのために受けた苦難のゆえに、癒された恵みを分かち合います。

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火曜日, 3月 30, 2010

自分が否定される意味を知っているのか?

イザヤ52;13-53;6
主イエスの栄光は、驚きの栄光でした。当たり前の栄光でなくて、想像できない栄光でした。それを捨てて、主イエスは私のとがのために、罪のために、私を愛してくださって、その権利を、権威を、その尊厳を捨てられました。私たちは自分が受け入れてもらえないときに、どれほど傷つくことでしょう。どれほど、腹が立つことでしょう。しかも、今まで持っていた尊厳を、人から驚かれている栄光を捨てて、生きることはなんと難しいことでしょうか?しかも、それが自分過ちのためにそうなったと誤解されることはどんな気持ちでしょうか?今まで自分を尊重し、あがめた人が、彼の失敗のためにそうなった、と思うのです。しかし、それは私のためでした。今日、私が尊重されなくても、イエス・キリストの十字架によって歩んで生きます。

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月曜日, 3月 29, 2010

正しい意味で「しかし」を発動させよ

詩篇22:1-11
世の中で、「しかし」と言う言葉を連発するときは、反抗するときに使うことがあります。今日の聖書箇所に出てくる「しかし」は悪の勢力に対し、苦難に対して、正しく反応するときの「しかし」です。悪の勢力がやってくるときに、苦難がやってくるときに、「しかし、わたしの主」は告白すること、感謝をする事が大事です。しかし、は世の中と違う主の力、主が近くにいることを呼びます。それは、わたしの罪のために、主なる神様から遠く離れることになった主イエスの十字架のためでした。私が遠く離れるはずだったのです。主が近くに入れることは、イエスの十字架の血潮の故です。わたしは種の近くにいることを苦しみの中で宣言しているのでしょうか?しかし、と宣言し、感謝します。

日曜日, 3月 28, 2010

何のための受難か分かると

詩篇22;1-21
苦難を受けることは、喜びを持つことが難しいことです。もちろん、苦難そのものを自ら受けようとする人はいないでしょう。また、人のために苦難を受ける人もいないでしょう。しかし、ただ唯一の救い主は自ら苦難を受けられました。それも、わたしの罪のために受けるべき苦難を受けられたのです。そのために、わたしは主イエスの十字架によって赦されて生きているのです。主イエスは苦難に勝利された方です。私たちの人生のロールモデルです。苦難を通して、得る教訓は何でしょうか?それは、苦難にあってわたしは神様の側にいようとしているのか?ということです。苦難も神様の側にいて、受ける苦難は意味があります。また、神様のみ心があり、必ず勝利できます。しかし、苦難の中で神様の側にいるのか?それとも、罪の中にいるのか大きな違いです。または、自分の力で生きようとしているのか?自分の力で解決していこうとしているのか?大きな違いです。主の御心が何か自分の自由を縛る怖い神様という感じであるならば、本当に難しいでしょう。しかし、神様の愛と最善の計画を信じるなら、神様のMSTER PLANを信じて苦難を乗り越える「わたしの力なる種を頼り、その力を受ける」ことができます。今日、神様にあって立ち上がります。苦難に神様のMASTER PLANを信じて、立ち向かいます。ハレルヤ!

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土曜日, 3月 27, 2010

最後まであきらめない神様の愛

ヨナ4;1-11
神様は、ニネべの人たちの悔い改めを通して、ゆるしてはいけない水準の人たちをあわれみ、愛されます。それが、神様の愛です。しかし、預言者であるはずに、宗教の、その道のプロであるはずのヨナは、その神様に向かって怒りました。彼の素直なところと思います、また、私にとってはヨナの祈りが、驚きの表現ですね。祈りを神様に向かって文句を堂々と言う、すねる、というか怒るのは。そんなヨナの行動に驚きです。しかし、そんなヨナにも神様はヨナに愛を持って配慮をされます。それは、ひとつのとうごまを持って、虫を持って神様の愛を示す事件でした。ニネべの人の悔い改めを待たれて、ゆるされた神様は、同じようにイスラエルの宗教指導者である、預言者(神様の声を宣言し、人々に伝える)ヨナがすべき役割をはたさずに、すねてこれからどうなるのだろう?という眺める態度をとっているにもかかわらずに、ヨナのことをまたれられ、用い続けられたのです。何よりも、彼の回復を再び待ってくださったのです。今日、神様の待ってくださる愛と配慮ある知恵を受け取ります。また、神様の愛で人を待ちます。

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金曜日, 3月 26, 2010

神様の声を聞いた人の影響力

ヨナ3;1-10
ヨナは再び、神様の声を聞きました。そうして、「立ってあの大きなニネべの町に行き、私があなたに言う言葉をつげよ」という声を聞きました。それは、神様からの使命を受ける回復です、はたして、私はこのような神様の使命の声を日ごとに聞いているのでしょうか?ヨナは立って2日かかる距離を歩いていき、宣言しました。イスラエルという小さい国の預言者がそのような大きな国に宣言するのは、大きなチャレンジであり、他の人から見れば何と滑稽なことをしているのか?もしくは、誰もそんな声を聞かないよ、という恐れもあったかもしれません。しかし、ヨナは宣言しました。私はそのようにこの町に、神様の祈りと宣言を持ってジェリコ祈祷を持って、神様の国への回復を願っているでしょうか?そんなニネべの町は、身分の低いものから、王様も王様の服を脱ぎ捨てて(王の権威を脱ぎ捨てて、自分の力でここまでなったことを捨てて)悔い改めました。自分の罪を認めたのです。悔い改めるものに、砕かれた魂に神様は憐れみ深い方です。そのような神様の愛を賛美します。神様の声を聞いたものとして影響力を持って歩みます。

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木曜日, 3月 25, 2010

イエスは私の神か?

ヨナ2;1-10
ヨナは魚の中から祈ります。それは「彼の神」に祈ったとあります。イスラエルの神でなくて、彼自身のヨナの救いの神、彼を作られた神様に祈ったのです。果たして、私は「私の神」に祈っているでしょうか?ヨナは魚の中で「自分の声を聞いてくださる主を賛美します」神様と関係を持っていることです。神様とつながったのです。8節に「むなしい偶像に心をとめるものは、自分の恵みを捨てます」とあります。そうです、自分の偶像はなんでしょうか?自分の夢実現でしょうか?自分の願いどおりの人生でしょうか?それにしがみつくときは、すでに与えられている恵みさえも捨ててしまうのです。ヨナはそのような失敗(神様の御心を行うよりもは不従順を選んだ)をした中で、救いは神様のものであり、救ってくださった主を賛美し、感謝し、自分に与えられた使命に戻ることができます。安息には、主なる神様と平安な関係にあることです。関係以上に仕事も使命もできません。ヨナは救いは主のものと、私の神様との関係、礼拝を、主の聖なる宮の中に入っていく関係を回復したのです、主なる、私の救いなされた神様を賛美します。

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水曜日, 3月 24, 2010

私の人生に主を認めるしかない告白をしたか?

ヨナ1;11;17
ヨナの乗った船は、嵐のために沈みそうになりました。そこで、人々は何とか「港につけようとします」私たちの人生で嵐や苦難に出会うときは、何とか自分の力でしようとします。しかし、どうしようもできないときに、ノンクリスチャンである彼らか「主よ」という告白とささげものが出てきたのです。果たして、ヨナを海に投げ入れてから嵐は静まりました。この嵐は、私たちの人生や生き方に「主でないとできない、主がいないとダメだ、私の人生の主人、舵取りは主イエスだ」と告白させる事件です。告白させるのは、神様の深い愛と配慮によるものです。まことの人生、正しい方向へ向かわせるために、神様の下さった最善、すばらしい人生を、使命のある人生、働くことができます、主なる神はヨナを死なせることなく、肉体が支配する人生でなくて、主の霊によって生きる人生を与えるために、大きな魚を用意されていました。主なる神様の作られる人生を期待して、従い歩みます。いまだに見えなくても、神様の用意された愛を期待して進みます。

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火曜日, 3月 23, 2010

あなたしかいないんだ!

ヨナ1:1;10
今日から、QTはヨナ書です。ヨナは北王国イスラエル活躍した預言者であり、彼の活動の中盤以降に「主の言葉が臨んだ」ようです。そこで、面白いのは「異邦人への悪へ滅びのメッセージ」を神様が与えられたことです。それも、北王国イスラエルを滅ぼそうと、圧迫しているアッシリヤの首都ニネべに行って宣言するように言われたのです。それが、ヨナにとっては面白くなかったのでしょう。また、ここで面白いのは神様の僕でありながら、プロでありながらも、預言者でありながらも、神様のみ言葉に不従順することができるということです。今風に言えば、牧師が神様のみ言葉に従わないで逃げるようなものです。はたして、神様から逃げることができるのでしょうか?そして、ヨナはタルシュに向かって(反対方向だといわれます)「主の御顔をさけて」「人々と一緒に」出発しました。果たして、主のみ顔を避けることは「礼拝をしない」ことです。それは、主イエスに出会うことが礼拝であるとするならば、主のみかおを避けることは神様に出会わないで礼拝をしようとすることです。形式的な礼拝だけで、すまそうとすることです。しかも、心に残ったのは「人々と一緒に」逃げようとした、隠れようとしたことでした。しかし、神様の前に隠れることも、群衆の中にいることもできません。神様は嵐を起こして、ヨナをとめられました。そこで、嵐の中で「人々はなぜ、このような苦難に出会うのか?それを止めてくださる本当の神様を知らずに、あちこちの偶像に頼ろうとしました」一人のクリスチャン、預言者、教職者の神様の御心への不従順、神様のことを伝えてほしい、福音を伝えてほしい、という願いを捨てたために、このようなことになったのです。神様の願いは、ヨナのような不従順な預言者を通してでも、福音を伝えれる人がいなかったのです。ヨナは主のみ顔をさけてこの船に乗ったことを伝えました。そこで、天地を創造されて、今も支えられている神様のことを初めて知った人々に話したのです。そして、自分のせいでこの嵐にいることを告白したのです。彼は、いまや言い訳をしませんでした。主への不従順のために、他の人が苦難にあっていることを告白したのです。神様は語られます。間違ったところに行っても、神様の不従順をしている人でも、あなたしかもこの嵐の中で、まことの主イエス・キリストを伝える人がいないんだと。あなたしかイエス・キリストを伝えれないと。神様の熱い愛の前に、従い、私を用いてくださる主を賛美します。伝道します。

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月曜日, 3月 22, 2010

どうやって、無限の神様を宇宙におさめられる。

ヨハネの福音書21:15-25
主イエスは、弟子のリーダーであるペテロの回復をされます。それは、わたしを愛するのか?と言う質問でした。彼の言動を責めるのでもなく、彼に二度とミスをしない、という誓約を取るのでもなくて、彼に主イエスへの愛を告白してもらったのです。わたしたちならどうでしょうか?そこまで、彼の人格を大事にして、扱うことが出来るのでしょうか?十字架と言う決定的な瞬間に、過ちを起こした人への戒めや、責任を取らせることが先で無いでしょうか?ところが、主イエスは違います。主イエスへの愛を告白させて、主を愛するときに、主イエスを愛する関係の時に、主イエスの羊を飼う召しを与えられたのです。また、この人たちに以上に愛しますか?という質問をされます。果たして、他に変えられない主イエスを思っているでしょうか?わたしはそのように主イエスを愛しているのでしょうか?その後で、主イエスは他の人との比較でない主イエスの計画にある人生をペテロに示します。それは、殉教していくことも、長く奉仕することも、それぞれに、神様の栄光を現す人生であることを教えるものでした。主に従いなさい、という言葉を言われました。従うことは、主イエスを愛するゆえに、その人の下さる最善を信じるものです。いちいち、愛するときには従うことを負担に思ったり、考え込んだり、嫌々させられると思いません。今日の礼拝の中で、主イエスをもっと愛する、神様に他の比較で無い価値を置く愛を持って従う出会いになることを信じます。

日曜日, 3月 21, 2010

もっとイエスを愛するように、今日も来てくださるイエス

ヨハネの福音書2;1-14
復活のイエス・キリストが、すぐに昇天されずに、またすぐに聖霊様を下さずに、されたことの一番重要なことは、弟子たちを愛されたことでした。倒れた弟子たちの人生を最高に輝く人生へと、使命のある人生へと導かれることでした。それは、全宇宙の運命を変えたイエス・キリストの十字架と復活を伝えることでした。それを伝えるのは弟子しかいませんでした。しかし、弟子たちはイエス・キリストが十字架にかかった後で、完全に使命を失い、もとの漁師へ戻ろうとしていました。そこへ、イエスは攻めるためにではなくて、もう一度使命を回復させるために、弟子たちが「人間を取る漁師になる」奇跡をもう一度、なしてくださいました。わたしたち人間なら、あきらめるような人間を、ほっておくような人間を、神様は絶対に捨てません。絶対にあなたをあきらめないのです。主イエスをもっと、愛せるように、もっと仕えることができるように、してくださるのは、先にやってくださる主イエスの愛です。わたしにとって、いつもやってくださった主イエスの愛にこたえて復活の証人として仕えていきます。

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土曜日, 3月 20, 2010

復活のイエスを信じるクリスチャンを育てよ

ヨハネの福音書20;24-31
主イエスの復活を信じない弟子たちは、家の中に閉じこもり、女性たちの証言も信じられませんでした。しかし、そんな弟子たちにイエスは自ら現れて、ご自分の復活の喜びを伝えてくださいました。そんな中でトマスがその場所にいませんでした。彼は、イエス・キリストを目で見るまでは復活を信じない、と言いました。なんと人間は目に見える現実や、不安や計算に縛られていることでしょうか?トマスのような生き方は人間的には、現実的には堅実かもしれません。安定しているかもしれません。しかし、信仰の世界には現実を乗り越える平安があります。どんなに難しい現実にも、信仰を持った中にこの世が与えない平安があります。トマスはそれを得ることが出来ませんでした。しかし、主イエスはそんなトマスに福音を伝える使命を与えます。ヨハネの福音書は、イエスを知らない人に、イエスを信じ、神様の永遠の命を得てもらうことを願って書かれた、と締めくくります。はたして、私の信仰はどうでしょうか?目に見える現実に、信仰は堅く立てているのでしょうか?また、そんな信仰を持った人が、自分が伝道した人は、イエス・キリストを信じたとしても、どのようなクリスチャンになるでしょうか?自分の罪の人生が死んで、イエス・キリストの復活の命が生きる人生を生きないといけません。また、伝道して無理やりに信じてもらうのうでなくて、本当に復活のイエス・キリストの命が生きる人生を歩んでもらわないと、本当にその人の人生に最高の祝福が来ません。自分の罪の人生でなくて、現実に縛られる人生でもなくて、復活のイエスを信じ、復活のイエス・キリスト、霊が生きているクリスチャンを育てていきます。

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金曜日, 3月 19, 2010

私がイエスを見つけたのでなくて、イエスが私を探してくれた

ヨハネの福音書20;11-23
マリヤは墓の中におられないイエスを理解することができませんでした。聖書の中の復活のイエスを理解することや、悟ることができませんでした。彼女は、どれほどイエスを愛していたことでしょうか?その嘆き、悲しみは、どれほどだったのでしょうか?しかし、主イエスを理解して、復活を期待することはできませんでした。そんなマリヤに主イエスはたずねてきてくださいます。愛する主イエスを求めて、わかることができない人に、主イエスは自らを示してくださいます。そして、復活の主イエスに最初にあって、復活の証人となることができたのです。更に、弟子たちに主イエスは会ってくださり、自らの十字架の死であるわき腹と手の傷跡を見せます。恐れと不信の中にいた弟子たちに、主イエスは直接に昇天されずに、弟子たち一人一人に現れてくださったのです。それは、私たちへの愛でした。復活の証人となるために、聖霊を受けなさいといわれました。それは、イエスの十字架の罪の許しと関係していました。聖霊の力なしには、人間的に知るだけでなくて、本当にイエスを知ることも、罪の許しもわかりません。信じることもできません。復活の証人になることももちろん、自分の力ではできません。聖霊の力によって、イエスにあってこそ、できることなのです。それは、イエスが自ら尋ねてくれてできたことです。自ら尋ねてくれた主イエスを賛美し、自ら友を訪ねて幾一日を過ごします。
ヨハネの福音

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木曜日, 3月 18, 2010

イエスを愛する人は最初にイエスを出会う。

ヨハネの福音書20;1-10
聖書の中で、女性の活躍が目立つことがあります。われわれ男性を顔負けにさせることがたくさんあります。それは、十字架の最後で一番近くに女性たちがいたこと、そしてイエスの復活の事件を理解は出来なかったものの、最初に墓に行って目撃したのが女性だったことです。それは、十字架の事件が立って3日目に朝早く夜が明けないうちに、墓に行こうとしたその情熱、神様への愛から感じることがあります。本当に純粋に、計算無しに愛し、主イエスを黙想し、もしかして(弟子たちもそうかもしれませんが)十字架にかかって死なれたイエスを思って夜を明かして、思っていたのでないかと思います。そして、夜も明けぬうちに墓に行ってイエスを会いに行こうとしたのだと思います。逆に、弟子たちは恐れて、気持ちがあってもイエスの墓に最初に行こうとはしませんでした。男性と女性の違いかな?とも思いますが、これほどまでに、主イエスを求める思い出、夜を明かして、朝まだ暗いうちに行こうとしているのでしょうか?わたしにそのような渇望があるのでしょうか?イエスへの愛があるのでしょうか?祈祷題があるからでなくて、礼拝に、神様にあいたくてじっとしていられない、いてもたってもいられない、そのような状態でしょうか?早朝祈祷会にいくのも、いてもたってもいらない、’ことがあるのでしょうか?
また、残念なことに、女性たちも弟子たちも「聖書の言う、予言である復活を信じてはいませんでした」この墓が空っぽになっている事実を見ても、信じることが出来ませんでしたし、理解も出来なかったのです。それは、情熱だけでは足りないのです。聖霊様の助けなしには、人は変わらず、聖書を読んでも、悟らず、真理を逃してしまうのです。今朝、こう祈ります。主イエスを愛する純粋な渇望を与えてください。そして、聖霊様の助けなしには、理解できない聖書の心理を悟らせて下さい。わたしの人間の力では不足で、罪あるものにはふさがれています。主イエスの十字架の罪の許しによって、真理の扉を開いてください。墓の扉を開いてください、主イエスを愛し、復活の主イエスを賛美させてください。死と悪魔、罪に勝たれた主イエスを賛美します。アーメン、ハレルヤ!

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水曜日, 3月 17, 2010

100%の従順を完成させるのは愛だ!

ヨハネの福音書19;31-42
主イエスは、聖書のみ言葉を一つもたがえることなく、完成されました。それは、ひとつも妥協することなく、だいたいの従順でなくて、完全に従ったからこそ、十字架の罪の許しが完成されたのです。もしも、一つでもわたしたち人間のようにだいたいの従順(従順とはいえません)していたら、世界中の人がつっこみ、誰も信じる人がいなかったでしょう。しかし、主イエスは100%の従順をされたのです。完成されたのです。時には、従うでなくて、いつも従うことで十字架の罪の許しの人生を完成されて、わたしたちが信ずることに慣れたのです。もしも、イエスが完全に従うことが無ければ、わたしは信じることは無かったでしょう。しかし、私の人生は、従順はどうでしょうか?なんと状況に左右されて、自分の弱さに倒れて、時に従順、だいたいの従順を自分の弱さのせいにしていないでしょうか。その横で、罪を犯すことがあるのでないでしょうか?その従順と言う難しい、ミッションインポシブルの用に見えることを完成させたのは、何でしょうか?それは、神様への、わたしたちへの愛でした。もしも、結婚していて浮気をして、不倫をして、たまの失敗だから、少しくらいと言う言い訳が通るでしょうか?絶対に通りません。愛するゆえに従順されたのです。それをみた、アリマタヤのヨセフやニコデモははじめて、自分が主イエスの弟子であり、信じることを、一番危険なイエスが十字架にかかった後にしたのです。それは、イエスと同じ信仰を持つとして処罰されることや、命の危険や、立場を失うことを意味していました。しかし、主イエスの愛のゆえになされた十字架の従順に彼らは答えたのです。そこに、計算は無かったでしょう、愛ゆえに反応したのです。愛ゆえに献身していきます。

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火曜日, 3月 16, 2010

名誉でも、出世でもなく人生を完成させるのは愛だ!

ヨハネの福音書19;25-30
主イエスの最後を、十字架を最後までついて言った人の中で、特筆すべき人は
①兵士たち、そして反対派のローマの人たち、
②ユダヤ人たち、宗教学者
③今日の主人公である女性たち
④主イエスの愛された弟子がいます
もちろん、他の人たちもいたことでしょう。しかし、最後までついていった人たちの中で、女性たちの信仰は特筆すべきものがあります。彼女たちは、最後までついていきました、男性達の信仰と違うものがあります。特に、主イエスの母であるマリヤ、そして罪を許されたマクダラのマリヤがいました。彼女たちの信仰と心、何よりも愛は自分たちの立場や、自分たちへの宗教学者の避難を受けても、いいという愛がありました。主イエスはそんな母に、愛された弟子に「あなたの息子がいます」といい、母を託されました。そして、主イエスの愛された弟子は母を引き取りました。愛された弟子とは、ヨハネの福音書を書いてヨハネであります。彼の人生は、福音書に書いている彼の行いは、自分が偉いとか?他の弟子たちを出し抜いて天国の右の座に着かせてくださいと、親に言わせるなど、さんざんな行いでした。彼の関心や価値観は自分の名誉と出世にありました。逆に男の人らしいかもしれません。そして、彼は雷の子でもありました。そんな彼が福音書を書いた晩年には、主イエスに愛された弟子と自分のことを名前で、固有名詞で書かなかったのです。彼の価値観の変化は何でしょうか?それは、名誉や出世が彼の人生を決めるのでもなくて、主イエスが十字架上で「完了した」といわれた人生、それはヨハネ、自分自身が、いや北野実自身がかかる十字架を「愛でかかってくださった」ということが、彼の人生を変えたからでないでしょうか?出世でも、人に見られることでもなく、認められることでもなくて、愛が人生を完成させることを信じます。十字架の愛の人生を歩みます。

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月曜日, 3月 15, 2010

イエスの十字架の苦しみのために私に平安が与えられた

ヨハネの福音書19;17-24
主イエスの罪状書きをピラトは「ユダヤ人の王」と書きました。それは、罪を認めることができず、ただユダヤ人の妬みから、地上の王としてこられた方を、殺すことになったのです。しかし、そのような無罪の罪、言われも無い苦難のゆえに十字架に掛けられた主イエスのために、わたしは変わらない平安を得たのです。わたしにとって、心揺らされる悩みや痛みがある日に、主イエスの十字架によって与えられた平安を持って生きていきます。今日、主イエス・キリストの十字架にあっていく平安を与えてください。

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日曜日, 3月 14, 2010

まことの権威を持つ人はひれ伏す人だ

ヨハネの福音書19;1-16
律法学者、パリサイ人、祭司たちは、宗教学者たちは「自分たちには律法がある」として、自分たちの権威や力を利用しました。それをもって、自分の嫌いな人を、真理を宣言する人を、自分の立場を壊す人を、正義を行う人を殺そうとしました。律法を完成された人を殺そうとしました。自分たちの真の権威である、神様から来た預言者を殺し、神様である主イエスを殺そうとしたのです。逆に、ピラトは「主イエスに罪が無い」としながらも、彼の権威はローマ帝国からの借り物であり、ヘロデはおなじであり、まことの権威の元にいたのでありませんでした。そのために、ユダヤ人たちの暴動になりそうな勢いを持ってローマ帝国からの解任を恐れたのです。彼にも、真理を行う勇気がありませんでした。人を恐れたのです。人は自分の思い通りにならないと人殺しさえします。権威を利用します。自分の生き残りのために権威にへつらいます。しかし、主イエスは権威に心から従い、まことの権威に従うときに最高の人生があることを十字架で示されたのです。真の権威を持った人は、恐れがありません。まことの権威に既にしがたい、正しい人生を生きているからです。はたして、わたしはどうでしょうか?すべきことを知りつつも、しないでいるとするなら、それも罪です。真の権威にひれ伏していない証拠で無いでしょうか追い出すべき罪をありつつも、追い出さないでいる。また、言うべきことを言わないでいる、それも罪でないのでしょうか?真の権威の下にいる人は、ひざまづいています。まことの謙遜さと従っている人から来る祝福があります。真理の権威の下に、謙遜に歩みます。言うべき真理を言葉と態度で、伝えていきます。主よ、わたしを助けてください。

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土曜日, 3月 13, 2010

宗教は裁き、イエスは愛する

ヨハネの福音書18;28ー40
イエスをさばく宗教家たちはイエスを殺そうとしながらも、さばきながらも、「汚れまい」として「過ぎ越しの祭り」を受けれないことが無いようにしました。何と言う感覚でしょう。一般的な、常識的な感覚、人間としても、人を殺そうとしながらも、宗教儀式を受けようとする、しかもそれが「汚れまい」という感覚であったことに理解がまったくできません。まさに、宗教家は命の無い、心の無い、関係の無い、人生を生きます。それは、人間の関係もないし、神様の関係からクル感動や、喜びや感謝が無いのです。そこには、人が集まりません。彼らの告発はイエスを告発するように見えて、実は「自分たちの立場を守る」そして「自分の嫉妬、怒り、殺意」なのです。’イエスの中に何も罪を見出すことも、作ることも出来なかったのです。はたして、わたしは自分の嫉妬や怒りや、不満足から外や他の人を裁いていないでしょうか?しかし、主イエスは愛を持ってその人の罪や足りないところを攻めるのでなくて、ゆるし、愛され、回復されます。普通は人の足りないところを攻めます。しかし、主イエスはそのために真理と愛を持って正しく回復されたのです。そこには、永遠の感動があります。今日、愛を持ってさばかずに歩みます。

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金曜日, 3月 12, 2010

イエスの一貫した態度とペテロの揺れる言葉と心

ヨハネの福音書18;15-27
ペテロはイエスのために、死んでも言いと宣言し、またイエスが捕らえられそうになった時には、役人に打ってかかるような攻撃をしました。人間的には強い行動に見えます。また、大祭司の知り合いを持っていたヨハネとともに、イエスの裁判をされる庭に入って言います。その内容が、言葉も聞こえる距離であったのにもかかわらず、ペテロは三度もイエスを否定することになります。実は、ペテロのが一見は強そうにめる態度が、心のそこでは不安であり、常にゆれうごいていることからわかります。不安になる人は、怒りがあります。怒りから相手を攻撃し、傷つけます。必要の無い傷をつけます。しかし、主イエスは相手に殴られるという暴力や攻撃を受けながらも、決して人のプレッシャーに動かされて物を言うことは無く、ご自分が神様であることを宣言しました。しかし、ペテロは闇の勢力に、人のプレッシャーに揺り動かされ続けていました。最初の否定の時に、ペテロは小さい否定のつもりであったかもしれません。しかし、それは次のうそを必要としました。自分の影響力でなくて、クリスチャンとしての影響力を相手に与える範囲でなくて、実は相手に、この世の影響力に侵入される行動をしていたのです。ペテロはいっそ、この場所を離れるのか?イエス・キリストを最初に宣言してしまればよかったのです。それほどまでに、人のプレッシャー、目に見えるプレッシャーは大きいものです。この世の現実に自分が生き残っていこう、自分の立場をとろう、それは大きいものです。私自身がそのような弱さにかかっているものです。ペテロのことをどうのこうの言える立場ではありません。今日、主イエスを宣言し、神様の全面的な助けを求めていきます。自分が誰か?知って宣言されたイエスのように、自分を知る人生を歩みます。

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木曜日, 3月 11, 2010

最高の秘密を知ったら自信がある

ヨハネの福音書18;1-14
この世の中で、最高に知りたいと思う、最高の秘密の計画を共有できることは何でしょうか?それは、主イエス・キリストの愛の計画を知ることです。イエス・キリストの十字架を、創造の時に三位一体の神様が計画されたことを知ることです。また、私の人生のスタートとゴールと目的を知ることになります。人生の目的を知っている人は、自分が何をしたらいいのか分かります。そのゴールに向かってむなしく生きることはありません。ただしく、目的へ向かって生きることになります。しかし、それを知らない人は自分の顔を隠し、緊張し、相手の距離関係を持ち、何よりも、心配と恐れからくる怒りをもっていきます。今日のQT箇所に出てくるユダはイエスの弟子であり、神様との1対1の祈り場所を、礼拝を、知っている人でした。何よりも、主イエスの力が何処から出てくるのか知っている人のはずでした。何よりも、神様と主イエスの関係を見るチャンスが一番近く似合った人のメンバーにいたのです。苦しい時に、大変なときに、奇跡が起こるときに、主イエスの祈る場所に共にいて、伝道していた人なのです。しかし、イスカリオテのユダは弟子しか深く知らないはずの祈りの秘密の関係を持っていた中で、その場所を裏切りのために使ったのです。そのときに、イスカリオテのユダのしたことは、イエスを捕まえにくるのに、恐れ、武器を取り、多くの人々を頼み、その後ろに隠れることをできればしたかったのです。しかし、真理の中にいる人は恐れません。主イエスはご自分を自ら示されて、恐れることは無かったのです。人生の目的と、スタートを、ゴールを知っている人の自身です。自分のすべきことを知っている人の自身です。神様の愛の関係を持っている人の特徴はお添えが無いことです。神様の愛によって、罪が赦されて、きよめられている人の特徴は自由です。主イエスの秘密を持って自信を持って歩みます。たとえ、日ごとの目の前は分からなくて、主イエスの計画と最善を信じて歩みます。

ラベル:

水曜日, 3月 10, 2010

一つになることは自分の力では出来ない

ヨハネの福音書17;20-26
主イエスは、弟子たちが「一つになれる」ように祈られました。それも、今いる弟子のためでなくて、これから救われる人のためにも祈ってくださいました。現在の私たちのために、今日も愛を持って祈ってくださる主イエスのみなを賛美します。何と言う感動でしょうか。しかし、それほどまでに「一つになること」が弟子たちのシンボルであり、証なのです。伝道していく場面での重要な証であり、この世の区別するクリスチャンのよい意味での違いなのです。逆に、それがどれほど難しいことは「主イエスが続けて祈られること」からも感じます。そこまでに、弟子たちを、私たちクリスチャンを愛されているからこそ分かります。それほどまでに難しい一致。世の中は結果のために、お金と言う手段を通して、心の無い、無理やりな一致を押し通します。しかし、主イエスの弟子たちは心からの動機を持って、愛すること、神様のみ心が最善であることを信じて、進まないといけません。主イエスの弟子たちが一致することが難しいのは「主イエス・キリストが十字架にかかる前まで誰が一番偉いのか?という論争をしていた」ことからも、予想が難しくありません。それは、今の私たちにも言えることです。一致することが、そして「三位一体の神様の一致と栄光」と関連していることからも分かります。そのヒケツは十字架です。私が死んで、神様のみ心である十字架の愛、あなたのために死んでも良い、という人生になることです。そこに、三位一体の神様の奥義が、秘密があるのです。それを味わえる場所が、十字架の愛でひとつになることでないでしょうか?それなら、どれほど大きな愛の場所であり、期待とチャレンジのあるところであり、自分の力では出来ないところでしょうか?今日、主イエスの十字架の愛で生きます。

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火曜日, 3月 09, 2010

あなたは人のために祈っているか?

ヨハネの福音書17:9-19
主イエスは人生の最後になって、弟子たちのために祈られました。とりなしの祈りをされました。主イエスの仲に、じぶんのために、自分の利益や、自分の王国を広げるために生きることや行動がありませんでした。弟子たちは、神様のものであり、神様の御心以外をお行なわれなかったのです。そして、あなたの聖なるみなの仲に保ってください、と祈られたのです。それは、一つになるためです。名前の中に保つとは、その名前はアイデンティを示すものです。その名前にふさわしく生きるのか?生きれるように助けてください、ということです。主イエスの弟子とは、この世に属するものではありません。主イエスにあって天国に属するものです。
1:主イエスの十字架によって罪から、そして身分としても聖められているものです。しかし、聖化の過程を歩んでいるものです。
2:この世のものと区別されている価値観を持っています。真理によって別とされたものです。
3:クリスチャンとして生きることは、この世から憎まれます。悪から守られる必要があります。
4:また、世に遣わされた者です。この世から離れて生きるものでなくて、この世に攻撃されるのでもなく、この世を変えていくために遣わされた者です。はたして、私は今日この世に使わされたものとしてどう生きるのでしょうか?また、人のために愛して、祈っているでしょうか?今朝、とりなしの祈りをもう一度、愛の心を持って祈ります。

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神様の栄光とは何か?

ヨハネの福音書17;1-8
人間の普通考える栄光とは、自分が素晴らしいことを受け、栄誉を自分に返します。しかし、神様の栄光は創造を三位一体の神様とされた究極の栄光です。その栄光は永遠のものです。しかし、主イエスが受けられる栄光は、永遠の命を与えることです。しかも、創造された人間が勝手に罪を犯して、神様を認めないのに、祖人間に神様の愛を知ってほしいと、この地上に来られた栄光です。そして、十字架に係る栄光です。普通、栄光は自分のためのものであり、消費するものです。また、無くなっていくものです。私たちの栄光の人生は、与える、愛するところに、犠牲するところに、あることを価値観の逆転をしないといけません。そこに、創造的で、永遠の栄光があるのです。信じるとはRELATIONSHIPです。宗教のRELIGIONではなくて、主イエス・キリストの命のプレゼントを受け取ることです。はたして、私は今日主イエス・キリストの愛のプレゼントを受け取っているのでしょうか?その愛のプレゼントをもって仕えているのでしょうか?今日の礼拝に神様の愛のプレゼントを用意して出掛けます

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日曜日, 3月 07, 2010

神様へのダイレクトコールをかけろ!

ヨハネの福音書16;25-33
主イエスは、ご自分の十字架の死のあとの備えて、父なる神様と私たちで使徒の関係についてはっきり語ります。それは、主イエスを信じ、受け入れ、愛するものを父なる神様は受け入れてくださり、愛してくださると言うことでした。その関係は、宗教的な儀式をふまえるとか、人間の前なる行いに起因するのでもなく、ただこれから主イエス・キリストの十字架を恵によって信じるものにだけ与えら得る関係でした。今朝、与えられた恵みは神様との直接の関係を旧約聖書の時代では持つこともなく、一部の人々だけでした。また、宗教的な儀式や行いを通してでもなく、直接に神様を父なる神様の交わりを、まるで親しい方に電話するように。今朝、主の前に自分の過ちや失敗を告白し、悔い改め、助けを求めます、何よりも、全能の父なる神様を礼拝し、助けを求めて、そして救いの著者であるイエス・キリストの力を持って生きていきます。揺れずに、信仰を持って歩みます。

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土曜日, 3月 06, 2010

喜びの関係を持つため

ヨハネの福音書16;16-24
主イエスは、「ご自分が十字架にかかって死ぬこと」を「喜ぶことができる」といわれました。それは、人間的には全く理解ができず、弟子たちはまったく困った状態になってしまいました。もしも、私たちが弟子の場所にいたら、同じか、もっとわからずに困った対応であったでしょう。それは、十字架の死によって回復される神様との関係でした。それは、父なる神様と子である私たちが十字架によってつながる瞬間でした。そのことによって、どんなことでも父なる神様に求めることができるのです。それまでは、罪にあって私と神様は敵対関係でした。それが、主イエスの十字架によって回復されたのです。その回復された関係をどれほど大事に、用いているのでしょうか?主に祈る瞬間、礼拝、み言葉にある時間をもって一日をスタートします。早朝祈祷会を続けて持って行きます。そのために必要な祈祷課題も祈っていきます。

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金曜日, 3月 05, 2010

苦難を覚悟しているのか?

ヨハネの福音書15:18ー16:4
この世にあって主イエスの弟子たちは、迫害を受けます。それも、内部からの攻撃を受けることがあります。はたして、私は主イエスの弟子となることを願っても、迫害までも覚悟しているのでしょうか?それとも、日常生活の中では別にして生きているのでしょうか?キリストの弟子として本当に生きるなら、迫害を受けることが当たり前なのです。もしも、迫害が全く無いというのなら、どこかで自分を偽り、妥協している部分があるのかもしれません。心刺されることです。しかし、主イエスの弟子を拒むむものは父なる神様を拒んでいるのです。はたして、私は主イエスの弟子として迫害を喜んでいるでしょうか?もしくは、主イエスの弟子を私と違うからと拒むことが無いでしょうか?経済的なこともあるかもしれません、また人間的な立場もあるかもしれません、しかし、初代教会は迫害の中で成長し、宣教し、伝道していきました。

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御言葉を解き明かす聖霊様

ヨハネの福音書16;5-15
今朝の御言葉は、真理を悟らせる聖霊様を助け主として送ってくださるということでした。その中で与えられた黙想は、聖霊様の助けは世と違うものである、ということでした。世の助けと違いを状況で私を捨てることなく、ずっとともにいてくださる方であることでした。その方は人格的な方です。私の過ちが間違った方向をただし、御言葉により正しく導いてくださいます。今朝の恵みは「罪と義を示し」その裁きを教えてくださることでした。それは、私が高慢な心で裁いたり、自分が偉そうになってしまうことへの悔い改めでした。そこには、恵みも流れませんし、み言葉がわかりません。まさに、今朝のQTの「真理の聖霊様の光なしに聖書を悟れますか?」という問いが私にありました、昨日とあることで私の心は試みにあって「ある説教者?ある報告者を」裁いていました。しかし、そこには恵みも無く、自分が正しいという思いでした。その思いに縛られたために、許さなかっために、私の心に愛や素直さが消えてしまいました。神様、悔い改めます。そうして、み言葉を読むときに、神様の思いが入ってきました。感謝します。悔い改めて、真理の聖霊様に頼って一日を過ごし、祈ります・

水曜日, 3月 03, 2010

愛するなら何でもできる

ヨハネの福音書15;1-17
主のみ言葉にとどまるとは、主のみ言葉を、律法を守るにはどうしたらいいのでしょうか?それは、愛することです、その愛は命をかけて愛してくださったイエスの愛による、こたえる愛です。私たちの関係は命をかけて愛してくださったイエスの愛によるものです。み言葉を守ろうとか、律法を守るとか、言うと負担になるかもしれません。しかし、主イエスのうちにとどまるとは「愛する原則」によるのです。み言葉を聞くだけで、すでにきよめらえている私には、愛することで神様の栄光を現れるのです。愛することが、伝道の基本であるし、主のみ言葉を基礎にして生きることになります。主のぶどうの木にとどまります

火曜日, 3月 02, 2010

秘密を共有する仲

ヨハネの福音書14:25-31
私たちの中で、一番信頼ができる関係はどんな関係でしょうか?それは、どんなことも話せる中であり、この人に話しても大丈夫、お互いにそれだけの信頼と理解の価値がおける関係で無いでしょうか?しかし、私たちと神様の関係はもともとそのような関係でも、公平な立場でも、全知の神様と有限の人間がどうしてそのような関係になりえるのでしょうか?そのために、主イエスはあらかじめ、旧約聖書の予言とご自分の預言である新約聖書のイエス・キリストの十字架について語ってくださいました。そのことを分からせてくださる、悟らせてくださる、真理の御霊を送ってくださいました。それは、偉大な救い主の計画でした。全く主イエス・キリストの十字架を予想もできず、主イエスが離れていくことも理解できなかった彼等弟子たちに、わたしたちに神様の心を知らせてくださったのです。そんな神様との関係を持って、世が与えない平安を持っていきます

神様からのプレゼントをもらった人はどんな顔をするか?

ヨハネの福音書14;15-24
神様の約束を信じ、その御言葉を基準にして歩む人には、どのような神様からのプレゼントをもらえるのでしょうか?それは、①「あなたがたを捨てて孤児とはしない」ということです。多くの若い人や、いや規制の世代の人も自分は一人である、理解してくれる人が居ない、という風に感じたり、思ったりして、もしくはそのために自殺する人もいないでしょうか?それが、主イエスはあなたを一人としない、と言われるのです。なんと安心で、嬉しくて、心暖かになり、孤独を払える恵みでしょうか。また、②「助けぬし」を送られるとあります。私の助け主、主人である方が私を助けてくれるのです。自分のオーナーが私の助け主なのです。それは、なんと大きな力を、偉大な神様の助けを期待できるのでしょうか?また③「真理の御霊」があると言います。自分が間違った方向に行かないように、間違った言葉を言わないように、間違った行動をしないように、してくだる神様がおられるのです。その方が私と共におられるのです。そんな神様のプレゼントはご自分自身なのです。一人でないのです。神様が共におられるのです。そんなプレゼントをもらった人の顔はどうなるのか?想像しました。それは、まるで結婚してほやほやの人でないかと思いました。人生最高のパートナーを得て、これからは一人でないぞと思う喜びが隠そうとしても、意識しなくても、あふれます。神様のプレゼントをもらった喜びで、礼拝を捧げます。

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神様を信じる人は騒がない

ヨハネの福音書14;1-14こちらにきてから、少しの時期が過ぎました。そして、少しリビングライフを手に入れることが遅くなり、なかなか今までのQT生活が難しく、聖書通読が変わりに生活化されていました。と言いつつも、毎日の礼拝生活、御言葉を受け取る生活が確保できない、霊的な習慣が崩れるのは本当に大変なことでした。そんな中で、やっとリビングライフを手に入れて、久しぶりのQTで受けた恵は、①:「心を騒がすな」でした。次に来たのは②「私を信じなさい」という御言葉でした。今の私にとって、まさにぴったりの御言葉でした。いろいろな状況の変化があり、現実やいろんなことをみて恐れている私に対して、神様は③「神様と共にあなたの住み場所を用意」されているでした。こうして、QTの恵みをまとめてみると、さらに恵みが深く、神様の語ってくださった言葉とその導き、愛に感動してやみません。どれほど、大きく励まされて、安心させられることか分かりません。何故なら、イエス・キリストが真理であり、道であり、命であるところを歩むときに、詩篇「たとえ死の谷を歩むとも恐れません」とあるとおりだからです。三位一体の神様が私と共に折られる、その信じる者には、主イエスの伝道の働きよりも大きな導きがなされる、大きな御業がなされるとあります。信じられますか?私たちが、私が主イエスよりも大きな技ができるととは、とうてい思えません。しかし、真理である、命である、道である主イエスの使徒行伝を歩むときに、そのようなわざがなされます。ここに来て、恐れず、私の必要に、全てに答えてくださる、神様のみ技をする人生を信じて歩みます。騒がずに歩みます。