坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 3月 13, 2010

宗教は裁き、イエスは愛する

ヨハネの福音書18;28ー40
イエスをさばく宗教家たちはイエスを殺そうとしながらも、さばきながらも、「汚れまい」として「過ぎ越しの祭り」を受けれないことが無いようにしました。何と言う感覚でしょう。一般的な、常識的な感覚、人間としても、人を殺そうとしながらも、宗教儀式を受けようとする、しかもそれが「汚れまい」という感覚であったことに理解がまったくできません。まさに、宗教家は命の無い、心の無い、関係の無い、人生を生きます。それは、人間の関係もないし、神様の関係からクル感動や、喜びや感謝が無いのです。そこには、人が集まりません。彼らの告発はイエスを告発するように見えて、実は「自分たちの立場を守る」そして「自分の嫉妬、怒り、殺意」なのです。’イエスの中に何も罪を見出すことも、作ることも出来なかったのです。はたして、わたしは自分の嫉妬や怒りや、不満足から外や他の人を裁いていないでしょうか?しかし、主イエスは愛を持ってその人の罪や足りないところを攻めるのでなくて、ゆるし、愛され、回復されます。普通は人の足りないところを攻めます。しかし、主イエスはそのために真理と愛を持って正しく回復されたのです。そこには、永遠の感動があります。今日、愛を持ってさばかずに歩みます。

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