坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 3月 31, 2010

私の苦難を通してほかの人が生かされることを願うか?

イザヤ53;7-12
苦難を通して、主イエスは沈黙をされました。驚きべきことです。しかも、彼の苦しみは自分の過ちのためでなくて、他の人、人間の、わたしの罪のためだったのです。それを誤解されても何も言わない、ということはありえない話で無いでしょうか。わたしならどうでしょうか。言うべきことを言い、主張し、誤解を解くことに一生懸命になっており、またどれほど自分の苦しみを味わって、人の罪のためになっているのか?を話することでしょう。しかし、主イエスはそうされませんでした。黙って受けられたのです。自分の痛みを通して、苦しみを通して、多くの人の罪と痛みと傷が完全に癒されることを願って、完全に従順されたのです。今朝、BUSに乗ってQTを改めてしながら、主イエスがそうしてくださったことに、わたしの罪と傷の癒しがあったことを覚えて、心から感動しました。BUSの中で、涙が出てきました。自分の救いの証も、そのように用いて欲しいと言う願いが起こりました。何故なら、主イエスが傷を、十字架で受けてくださったゆえに、最終的に素晴らしい祝福の人生の勝利が与えられているからです。今日、神様の証を受けて歩みます。わたしの証を、主イエスがわたしのために受けた苦難のゆえに、癒された恵みを分かち合います。

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