坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 12月 20, 2007

目的に向かっての人生

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷の無い神の子供となり(ピリピ人の手紙2:15)今朝のQTは「キリストの日に誇ること」ができる人生を語っています。救いはすでに、なされたことであります。信仰による義認はすでに完成されたことです。しかし、その救いをもって歩む聖化の過程は未だにON THE WAYであります。すでに始まっている永遠の命をもって歩む中で、この世にあっても(しかも、邪悪な曲がった世代である)永遠の命を持つ喜びを歩めるのか、という課題があります。そこで、今朝特に私に与えられた挑戦は「傷の無い神様の子供」です。この世で生きるかぎり、傷を数多く受けます。それは、下手をすると毎日かもしれません。子供は傷を受けると涙を流して、その痛みの感情を吐き出します。そこで、傷の浄化作業をします。しかし、大人はそれが難しく傷を数多く持ったまま歩みます。果たして、私はどうか?韓国に戻ってきたときのように笑っているだろうか?と思いました。傷を受けても神様の前に、子供のように「罪の告白」をし、「傷を告白」をしているだろうか、そこには神様にある成長していく子供の姿があります。キリストの日に誇る人生を歩むために、日ごとに「傷の告白」をします。神様の癒しを受け、日ごとに新しくなる人生を歩みます。

火曜日, 12月 18, 2007

ただ,キリストの音にふさわしく 生活しなさい. そうすれば,私が行ってあなたがたに 會うにしても, また離れているにしても, 私はあなたがたについて, こう 聞くことができるでしょう. あなたがたはを一つにしてしっかりと 立ち, 心を一つにして音の信仰のために,ともに奮鬪しており, (ピリピ1:27)
使徒パウロの人生は、神様の約束にしがみついて集中した人生です。ぶれの無い人生です。それは、キリストの福音にふさわしい生き方です。そこには、無駄なものに心を奪われたり、自分のしがみついているものに、ひきづられたり、していないのです。ただ、生きることはキリスト、死ぬことも益であるパウロにとって、自分の人生の目標がはっきりしているので、牢獄にいても、心がゆれないのです。自分は、なんと心を動かされ、永遠の命を持っているのに悩むのだろうかと思いました。感激と喜びをそのために失って損していることか、と思いました。キリストの福音にふさわしい生活をする、とはまるで自分のイエスを信じたときや、献身したときのイエスキリストへの初恋を思わさせるような感じがありました。キリストのために集中した人生を生きます。

福音伝える人の喜びのパワーと自由

さて, 兄弟たち. 私の身に起こったことが,かえって音を前進させることになったのを 知ってもらいたいと 思います.私が キリストのゆえに投獄されている,ということは親衛隊の全員と, そのほかのすべての人にも明らかになり,また兄弟たちの 大多數は, 私が 投獄されたことにより, 主にあって 確信を 與えられ, 恐れることなく, ますます 大膽に 神のことばを 語るようになりました. 人々の中にはねたみや 爭いをもって キリスト を 宣べ 傳える 者もいますが,善意をもってする者もいます 一方の人たちは愛をもってキリストを傳え,私が音を 弁證するために 立てられていることを認めていますが, 他の 人たちは 純眞な 動機からではなく,黨心をもって,キリスト を 宣べ 傳えており, 投獄されている 私をさらに 苦しめるつもりなのです.すると,どういうことになりますか. つまり, 見せかけであろうとも, 眞實であろうとも,あらゆるしかたで,キリスト が 宣べ 傳えられているのであって, このことを 私は 喜んでいます.そうです,今からも喜ぶことでしょう.(ピリピ人の手紙1章12-18)
主イエスキリストのために苦難受ける人生は、かえって信仰の確信を強め歩ませることだと今朝のQTは語ります、本当にすごい話ですよね、自分の過ちで無く牢獄に入るのに、福音のために入れることを喜ぶことは、福音のために生きる人の自由です。また、力です。現代に、私にかけるのは殉教をする犠牲を払うことに弱いことであると思いました。また、福音を伝えるのに一致をもって、教会の指導者を認め、愛を持ってすることであります。しかし、パウロは党派心を持ってする人にも福音が伝えられるなら、喜ぶというのです。私にとって、与えられた適用は「あの人が伝えても駄目だ」という批判する心を悔い改めることでした。彼にとって福音を伝えることは、それらの人間関係や問題に比べればたいしたことでないことでした。自分にとって、福音を伝える以外にどうでもいい問題に心をとらわれることがどれほど多くあるのか、と思いました。福音を伝える力と自由を味わいます。

既得権を捨てる人は自由だ

キリストイエスのしもべであるパウロとテモテから(ピリピ人の手紙1;1) 使徒パウロは、自分のことを使徒と紹介しないで、「キリストイエスのしもべ」と自分のことを紹介します。はたして、自分は自分のことを紹介するときに、自分の職業やいろんな既得権を放棄して「キリストイエスのしもべ」と堂々といえるだろうか、と思いました。使徒パウロが獄中書簡であるこの手紙を書いたときに、かれのテーマは喜びでした。しかも、人からの慰めがほしい、助けてほしいときに、パウロは人につかえる「しもべ」であったのです。ピリピ教会を設立し、犠牲を払いその結果は牢獄だったのです。普通なら、自分の既得権どころか報酬や地位を主張してもおかしくないところでしょう。しかし、彼は既得権を放棄する喜びを持ったのです。自分を一番低いものとして紹介し、福音のために何でもできる喜びを隠しませんでした。放棄したときに、神様に属したときに、彼のに臨んだのは本当の自由でした。そうして、ピリピ教会の聖徒のために祈り、感謝した時に本当の聖徒の交わりを味わい、自由と喜びあふれる人生を牢獄の中で得、分かち合う勝利者となったのです。 私にとって、日ごとの苦労や難しいこと、経済的な困難、不平不満を言う状況を既得権を捨てる自由を得ます、祈ります、喜びを分かち合う人にしてください。

毎日同じことの繰り返しだ


これは,彼が、助けを叫び求める貧しい者や, 助ける人のない惱む者を救い出すからです.彼は弱っている者や貧しい者をあわれみ,貧しい者たちのいのちを 救います。ほむべきかな. 神,主,イスラエルの神. ただ,主ひとり,奇しいわざを 行なう.とこしえに,ほむべきかな. その榮光の御名.その榮光は地に滿ちわたれ. ア ― メン .ア ― メン . (詩篇72:12-13、18-19)今日で詩篇がいったん、リビングライフは一タームが終了です。そこで感じたことは毎日、似ている内容が多くあったことでした。下手をすると何度も、聞いたよとかまた今日も?ということがあります。そこで、私に与えられた恵みは、日ごとに繰り返されることは必要だから与えられるし、必要だから日ごとに繰り返して祈るし、またもっとも大きなことは「日ごとに繰り返さないと恵みを簡単に忘れる」からだという黙想でした。この世での貧しい人は①物質的に貧しい②社会で力の無い人③神様に餓え渇いていること、です。そして、多くの祈りは公平でない世の中に、義の無い世の中に、満足できない世の中への渇いた祈りをするのでないでしょうか。自分の不平や不満で解決の出来ないことを神様に祈り、答えられる人生の繰り返しであり、またひとつの問題が解決されると別の問題がきてしまいます。私にとって、祈りと願いは続くものです。しかし、何よりも神様への賛美はとこしえに繰り返されるものです。神様の力を用いる豊かな人生と、神様を賛美し続ける日ごとの素晴らしい繰り返しを感謝し、喜びます。

神様でないとハングリーだ

神よ. あなたの 公正を 王に, あなたの 義を 王の 子に 授けてください. 彼があなたの 民を 義をもって, あなたの, 惱む 者たちを 公正をもってさばきますように.彼は牧草地に降る雨のように, 地を 潤す 夕立のように 下って 來る. 彼の代に正しい者が榮え, 月のなくなるときまで, 豊かな 平和がありますように (詩篇72:1-2,6-7)神様のリーダーに必要なことは、神様の義と公正です。韓国では明日に大統領選挙が迫っています。神様のリーダーが立てられることを祈ります。指導者の祝福を神様が与えてくださることを南北韓国に祈ります。さて、私は神様の義でなくては、恵いでなくては満足できない「貧しいもの」であり、「悩むもの」でしょうか。それ以外のことで自分を、自分の環境を満たそうとしていないでしょうか。
神様の義と恵みに餓え渇く人でしょうか。神様で無いと自分は貧しいことを認める人でしょうか。そうでない高慢な自分がどれほどいることでしょうか。今朝、神様の礼拝者として「神様で満たされることを」求める、貧しいものとして立って生きます。主よ、私を満たしてください。

木曜日, 12月 13, 2007

時間の使い方を分けるポイント

神よ.私から遠く離れないでください.わが神よ.急いで私を助けてください.私をなじる者どもが恥を見,消えうせますように. 私を痛めつけようとする者どもが,そしりと侮辱で,おおわれますように.しかし,私自身は絶えずあなたを待ち望み, いよいよ 切に,あなたを贊美しましょう.私の口は一日中,あなたの 義と,あなたの救いを語り告げましょう.私はその全部を知ってはおりませんが.神なる主よ.私は,あなたの大能のわざを携えて行き, あなたの義を,ただあなただけを 心に留めましょう. 神よ.あなたは,私の若いころから,私を敎えてくださいました.私は今もなお,あなたの奇しいわざを告げ知らせています.(詩篇71;12-16)
良いことはすれば、するほど良いものが来ます。良い人に会えば会うほど、喜びがあります。美味しいものを食べると感動があります。神様に会うほど感動があります。苦しみの中で賛美するダビデの姿は、神様の救い、大能、義を確信もって賛美し、告白します。今まで救ってくださった方はこれからも救ってくださるのです。ですから、賛美するのです。それも「いよいよ」「切に」「絶えず」賛美します。状況を見るのでなく、神様を見るのです。苦しいときに、私たちは落ち込むことや絶望を選びます。しかし、神様を見る人は希望を選びます。そのときに、今の時間の使い方が変わってくるのです。賛美したり、祈ったり、現在を見るのでなく未来の姿をビジョンを持って見るのです。危機を見るときに、未来を見れずに自分のすべきことをできなくなります。また、守るべきポジションを守れなくなるのです。時間の使い方のポイントが間違ってしまうのです。ダビデは大変なときに何もせずに、祈ったり、賛美したりするようになります。しかし、彼の心を支配するのは神様でした。心配ではありませんでした。その時に、未来に向かうべき時間の正しい使い方ができるのです。今日の時間の使い方が神様のスケジュールになるように賛美して始めます。

神様を自慢させてください

主よ. 私はあなたに身を避けています. 私が決して恥を見ないようにしてください.あなたの 義によって,私を救い出し,私を助け出してください.あなたの耳を私に傾け, 私をお救いください.私の住まいの岩となり,强いとりでとなって,私を救ってください. あなたこそ私の巖, 私のとりでです. あなたは,私の若いころからの私の望み,私の信賴の的です. 私は 生まれたときから, あなたにいだかれています. あなたは私を母の胎から取り上げた方.私はいつもあなたを 贊美しています. 私は多くの人にとっては奇蹟と思われました. あなたが, 私の 力强い避け所だからです. (詩篇71:1-6)数多くの大変なことに出会うときに、一番安全なところはどこでしょうか。一番安全に導く方は誰でしょうか。それは、クリスチャンであるならば神様と答えるはずでしょう。しかし、現実にそうでないことがどれほどあることでしょうか。それ以外の私の経済的なもの、地位、ポジションなどに頼ることも神様への信頼が無くては、何の役に立つことでしょうか。神がわたしの住まいの岩、とりで、基盤でしょうか。私は危機のときに、状況を見ていないでしょうか。敵を見ていないでしょうか。危機のときに、神様を見る祝福があるでしょうか。今日の詩篇は、「神様の救」いを自慢しています。私はこんなに危機に出会って今もこうして生きていけるのは、奇跡だと!!!
義を守っていても、いわれの無い危機に出会うこともあります。しかし、以前に救い出してくださったかみさまのわざを伝えることは、思い出すことは力になります。すると、信仰の確信がもてます。神様にたくさんで会うと証が多くなります。神様の証を自慢したくなります。神様を紹介したくなります。今朝、私はこう祈ります。神様あなたの奇跡を私に起こし、神様を自慢させてください!!!神様の奇跡日記を書く喜びを与える主イエスを賛美します。

水曜日, 12月 12, 2007

祈りは人間の本能

神よ. 私を 救い 出してください. 主よ.急いで私を助けてください. 私のいのちを 求める 者どもが、恥を見,はずかしめを受けますように. 私のわざわいを 喜ぶ 者どもが 退き 卑しめられますように. 「私は,惱む者,貧しい者です. 神よ. 私のところに急いでください. あなたは私の助け, 私を救う方.主よ.遲れないでください. (詩篇70:1、5)
祈りは霊的なものです。しかし、神様を知らない人であっても、祈りは本能的なものです。危機に出会うときに、人間は自分以上の誰かに、天上のものに頼ろうとします。自分以上のものを頼ります。また、何か人を祝福するときに、祈ります。神様が無くては人間は貧しいものです。神様と連結される祈りは、本能的なものです。イエス・キリストによって神様とつながった人は、危機に出会うとき祈ります。また、神様がいないときに、自分が貧しいことを知る人は他の人が神様がいないときに貧しいことを知り、助けを求めて祈ります。今日も、祈りが呼吸のように祈る日になるように歩みます。

御救いとは?

しかし私は惱み、痛んでいます.神よ.御救いが 私を 高く 上げてくださるように. 私は神の御名を 歌をもってほめたたえ,神を感謝をもってあがめます.それは 雄牛, 角と 割れたひずめのある 若い雄牛にまさって 主に 喜ばれるでしょう.
心の貧しい人たちは,見て,喜べ.神を尋ね 求める 者たちよ. あなたがたの 心を 生かせ. 主は,貧しい者に耳を傾け,その捕われ人らをさげすみなさらないのだから. まことに神が シオンを救い, ユダの町々を建てられる.こうして 彼らはそこに 住み, そこを 自分たちの所有とする. 그의 종들의 후손이 또한 이를 상속하고 그의
이름사랑하는 자가 그 중에 살리로다 主のしもべの子孫はその地を受け繼ぎ, 御名を愛する者たちはそこに住みつこう.(詩篇69:29-11)
ダビデの祈る「救い」とは何でしょうか。毎日繰り返される神様への「救い」とは何でしょうか。「罪からの救い」「現実からの戦いへの救い」「神様との共にいること」です。神様のみなは力あるみなです。その御性質そのものです。神様そのもの、アイデンティです。その方に頼って、賛美して、感謝するなら、主はささげものよりも喜んでくださるのです。また、神様は貧しいものに耳を傾けてくださるのです。貧しいものは、①文字通りに貧しいもの、②神様がいなことが貧しいと思うものです。神様はそのようなものに約束の地を与えてくださいます。人生の約束の地、神様が共にいるところで賛美して歩みます。

火曜日, 12月 11, 2007

苦難は神様に会わせる

神よ. 私を 救ってください. 水が, 私ののどにまで, はいって 來ましたから. 私は 深い 泥沼に 沈み, 足がかりもありません. 私は 大水の 底に 陷り 奔流が 私を 押し 流しています. 私は 呼ばわって 疲れ 果て, のどが 渴き, 私の 目は, わが 神を 待ちわびて, 衰え 果てました. ゆえなく 私を 憎む 者は 私の 髮の 毛よりも 多く, 私を 滅ぼそうとする 者, 僞り 者の 私の 敵は 强いのです. それで, 私は 盜まなかった 物をも 返さなければならないのですか.
神よ. あなたは 私の 愚かしさをご 存じです. 私の 數¿の 罪過は, あなたに 隱されてはいません. (詩篇69:1-5)

祈りが、地上のレベルから天国のレベルにあがるのはいつでしょうか。肉的な祈りから霊的な祈りへと、適当な祈りから必死の祈りに変わるのはいつでしょうか。多くは、苦難のからおこることが多いのでしょうか。ダビデは神様の素晴らしさを宣言する賛美も書きながらも、多くの苦難の詩篇も書きました。それほどまでに、苦難が多かったからです。しかし、苦難は訓練でした。なぜ、神様は苦難を与えられるのでしょうか。切に神様に合わせるためでないでしょうか。神に出会うことは、喜びよりも苦難よりも大事なことです。罪を神様の前に悔い改めるときに、それは神様の愛を回復することを意味します。神様以外に頼るものが無いときに、祈りを教えられます。苦難は私を壊すためでないのです。こに下半期は祈りを教えられるときとなりました。義の苦難を受けるクリスチャンは本物のクリスチャンです。私の涙が聖い賛美に変わっていく日となることを信じ、今日も祈ります。

神様の約束の夢を握って

しかし 主よ. この 私は, あなたに 祈ります. 神よ.みこころの時に.あなたの豊かな 惠みにより, 御救いのまことをもって, 私に 答えてください. (詩篇69:13)
今日は、神様の御言葉を握っていてもその現状が変わらずにいるときに、絶望的な状況にあっても、神様の夢を見る人は、約束の御言葉ともって歩むことを覚えました。神様の御心のときに神様の夢がなされるように信じ、祈ることが人には、自分にはなんと大変なことでしょうか。また、苦しみの現状を正確に神様に報告して、そのまま正直に祈っているでしょうか。神様を父として歩んでいるでしょうか。神様のタイムスケジュールの時にまで正直に祈り、神様の夢を持って失わずに、歩んで行きます。神様の夢を見る人は、アブラハムにサラによって、神様がイサクを与えたように、神様の夢がなされるように祈ります。信じ、歩んで行きます。


神よ.御力を奮い起こしてください. 私たちのために, 事を 行なわれた 神よ. 御力を 示してください.葦の 中の獣、それに,国々の民の子牛とともにいる雄牛の群れを,叱ってください.銀の品々を踏み汚す戰いを喜ぶ,国々の民を散らしてください. 神の力を認めよ.みいつは イスラエルの上に, 御力は雲の上にある.(詩篇68:28,30,34)
神様は私の生きていく目的です。神様を愛することは人生の目的です。手段でありません。もしも、神様を手段にするならば、恐ろしいことになります。神様の力を手段にしようと、自分の力にしようと誤ることが多くありうります。●力はできること、見る力、区別する力、きくちからなどあります。
●しかし、衝動を止める力(セルフコントロール)することは非常に大事でないでしょうか。
●また、神様に任せる力があります。
今日は、留学生のためのクリスマスパーティでした。難しい緊張感やいろんなものがありました。私にとって神様を手段にしかねない祈りや、神様に任せる力をなくしたり、相手の明らかに失礼なこまった態度から人に起こりたい感情がありました。しかし、神様の力を求めます。私の心の中の獣を主イエスが叱ってくださる時となりました(30節)。また、神様の力を認める日となりました。人は自分が思うようには強くないものです。まことの神様を知ってこそ、神様の力を受けて生きるものとなります。クリスマスパーティは非常に楽しく、80名ほどの人が集まり、ノンクリスチャンが3分の一ほど、新しい人も多く来てくれました。神様の力の前に降参し、賛美します。

ほむべきかな、日々私たちのために,重荷をになわれる主. 私たちの救いであられる神.セラ
神は私たちにとって救いの神.死を免れるのは,私の主,神による.(詩篇68:19-21)

霊的な戦いは人生を生きる限り、続くものです。それは、おかしいものでありません。霊的な戦いを続けて、ゆれることが無いのは神様が私と共におられるからです。ハレルヤ主イエスのみなをほめたたえます、と今日のQTの聖書は語ります。何故でしょうか。日々私のために重荷をになわれるからです。一年に一度でなく、昨日まででなく、今日だけでなく、明日も重荷をになわれるからです。私たちの重荷には、どのようなものがあるでしょうか。
①日ごとの心配、②将来への心配、③人間関係の悩み、④自分の欲心、⑤うらみ、⑥自分がもっとよくなりたい、⑦人間関係の傷、⑧家族への責任
神様が重荷をおってくださることと、問題を解決し、私を癒し、平安をもたらし、その祝福を信じたいと思います。重荷を恐れずに生きていきます。

御言葉に向かい

主はみことばを 賜わる.良いおとずれを 告げる 女たちは 大きな 群れをなしている. 万軍の王たちは逃げ去り, また逃げ去る.そして家に居殘っている女が獲物を分ける.(詩篇68:11-12)
神様は私たちを抱きしめてくれる方です。その方法は御言葉を通して、私たちを抱きしめてくれます。御言葉の確信があるときに、①私の命に健康があります。②毎日が新しくされます。③人生の羅針盤となります。④絶望の中で勝利を確信できます。⑤神様が誰かを忘れません。⑥希望をもてます。
詩篇の女性たちのように、神様の勝利を得たときに神様に向かって出て行く姿勢があるのか、思いました。御言葉に向かって、愛する人や、勝利をした人への向かう気持ちがあるのか黙想しました。愛する人が来られるように、迎えるように神様のみ言葉へ向かっていきます。

火曜日, 12月 04, 2007

小躍りして喜べ

神に向かって歌い、みなをほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。そのみなは主。その御前で、こおどりして喜べ。(詩篇68:4)みなしごの 父, やもめのさばき 人は 聖なる 住まいにおられる 神. 神は孤独な者を家に住まわせ, 捕われ 人を 導き 出して 榮えさせられる. しかし, 頑迷な者だけは,焦げつく地に住む.(詩篇68:5-6)神よ. あなたは 豊かな 雨を 注ぎ, 疲れきったあなたのゆずりの 地をしっかりと 立てられました. あなたの 群れはその 地に 住みました. 神よ. あなたは, いつくしみによって 惱む 者のために 備えをされました(詩篇68:9-10)今朝の神様のために道を備えよ、とはどういうことか?と黙想してQTをしました。思い浮かぶのはクリスマスpartyや将来の道だろうか、という考えが浮かびました。それと同時に、神様の招きはすべての人にあり、神様が道を用意され、導かれ、神様が私の先に立たれる、ということがわかりました。しかし、今日の奉仕がひとつがすぐに解けないことがありました。重い気持ちのときに、「こおどりしてよろこべ」というメッセージをいただきました。また、豊かな雨で満たされる、そのように私は大笑いしているだろうか?と思いました。そんな楽な気持ちでいるのだろうか。
神様の御前で喜び、踊り、備えてくださることを信じます。

月曜日, 12月 03, 2007

人生の主観者なるイエス

どうか, 神が 私たちをあわれみ, 祝福し, み 顔を 私たちの 上に 照り 輝かしてくださるように. セラ それは, あなたの 道が 地の 上に, あなたの 御救いがすべての国々の間に知られるためです. 神よ.国々の民があなたをほめたたえ,国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように
詩篇67:1-3
今朝は、「なぜ」と「誰」というところからQtを黙想しました。なぜ、私たちのあわれみ、祝福すること、御顔を照らすことが、神様の道を全世界に知らせ、神様の救いを知らせることになるのだろうかと思いました。そして、3節と5節は同じ内容であり、「なぜ」繰り返されるのか?と思いました。また、私たちは「誰」なのか?と黙想しました。それは、ここではイスラエルの民であり,信仰者であることを思いました。信仰者は神様の主権を認め、人生のドライブを神様に任せる人のことです。そして、神様の人生におけるみわざを賛美します。そう生きるときに、まことの神様の道が救いが、示され、栄光をあらわす人生となります。
私にとって、今日この韓国で神様の栄光をあらわす人生を生きることを祈ります。
日本の教会のお客様に仕えること、留学生のためのクリスマスパーティに、人生の計画に
神様の主権をゆだねて生きます。



最高の賛美をささげる

私は 全燒のいけにえを 携えて, あなたの 家に 行き, 私の 誓いを 果たします.
それは, 私の 苦しみのときに, 私のくちびるが 言ったもの, 私の 口が 申し 上げた 誓いです.
私はあなたに 肥えた獣の全燒のいけにえを, 雄羊のいけにえの 煙とともにささげます. 雄牛を 雄やぎといっしょに, ささげます. セラ (詩篇13-15)

今朝の恵みは、苦しみや苦難、痛みの中でもその痛みを癒し、包まれる神様の賛美の声を聞かせてください、声を出して賛美します、という祈りから始まりました。賛美とは、声を出すことです。
喜びの声をああげることです。告白し、宣言させることです。苦難の中で、豊かなところへと導いてくださる神様の声が聞きたい、という願いが、ここ数日私の中にありました。
父なる神様の心を知らせてください、という祈りでした。理解できない理不尽なことや、将来へのことなど難しく、これからどうすべきなのか?と思わされました。
そこで、神様へのささげものの御言葉がありました、そこで最初は日曜日の献金のことを考えたりしたのですが、そこで気がついたことは神様へのささげものをする誓いは、苦しいときにささげるといったものであることを知りました。人が誓ったのでもなく、人に言われたものでもなく、私の口が、私の告白をしたのです。肥えた雄牛は苦しいときにささげたものです。
私の苦しいときに、私は最高の賛美をささげることを祈り、決断します。
そのようなときに、神様の最高の祝福が私を覆うことを信じます。

見よ

さあ、神のみわざを見よ。神の人の子になさるわざは恐ろしい(詩篇66:5)
信仰は、神様を見ることです。信仰の目を持って見上げることです。私はどれだけ神様を見上げているのだろうか、と思います。愛する人を見ることは進んで、頼まれていないのにすることです。喜んで、見たくすることです。私は、どれほど神様を愛して、見たいと願っているのだろうか?と思いました。義務的になっていないのだろうか?と思わされました。
そのほかのことや、他の人を見ていないのだろうか、他の状況を見ていないだろうか。
その結果、神様のみわざを見ないで、期待をできないで生きていないのじゃないか、と思います。賛美する時に、周りを見渡して何も見えないのが、信仰の目で見える神様が私を愛しているといわれるのを見えます。そこに、神様のみ技を賛美できます。
賛美は、私の人生を変えていく力を持ちます。驚きべき事件を起こします。祝福を持ってきます。

難しい状況の中にも。神様を体験する一日になるように祈ります。