坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

火曜日, 12月 18, 2007

福音伝える人の喜びのパワーと自由

さて, 兄弟たち. 私の身に起こったことが,かえって音を前進させることになったのを 知ってもらいたいと 思います.私が キリストのゆえに投獄されている,ということは親衛隊の全員と, そのほかのすべての人にも明らかになり,また兄弟たちの 大多數は, 私が 投獄されたことにより, 主にあって 確信を 與えられ, 恐れることなく, ますます 大膽に 神のことばを 語るようになりました. 人々の中にはねたみや 爭いをもって キリスト を 宣べ 傳える 者もいますが,善意をもってする者もいます 一方の人たちは愛をもってキリストを傳え,私が音を 弁證するために 立てられていることを認めていますが, 他の 人たちは 純眞な 動機からではなく,黨心をもって,キリスト を 宣べ 傳えており, 投獄されている 私をさらに 苦しめるつもりなのです.すると,どういうことになりますか. つまり, 見せかけであろうとも, 眞實であろうとも,あらゆるしかたで,キリスト が 宣べ 傳えられているのであって, このことを 私は 喜んでいます.そうです,今からも喜ぶことでしょう.(ピリピ人の手紙1章12-18)
主イエスキリストのために苦難受ける人生は、かえって信仰の確信を強め歩ませることだと今朝のQTは語ります、本当にすごい話ですよね、自分の過ちで無く牢獄に入るのに、福音のために入れることを喜ぶことは、福音のために生きる人の自由です。また、力です。現代に、私にかけるのは殉教をする犠牲を払うことに弱いことであると思いました。また、福音を伝えるのに一致をもって、教会の指導者を認め、愛を持ってすることであります。しかし、パウロは党派心を持ってする人にも福音が伝えられるなら、喜ぶというのです。私にとって、与えられた適用は「あの人が伝えても駄目だ」という批判する心を悔い改めることでした。彼にとって福音を伝えることは、それらの人間関係や問題に比べればたいしたことでないことでした。自分にとって、福音を伝える以外にどうでもいい問題に心をとらわれることがどれほど多くあるのか、と思いました。福音を伝える力と自由を味わいます。