坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 12月 20, 2007

目的に向かっての人生

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷の無い神の子供となり(ピリピ人の手紙2:15)今朝のQTは「キリストの日に誇ること」ができる人生を語っています。救いはすでに、なされたことであります。信仰による義認はすでに完成されたことです。しかし、その救いをもって歩む聖化の過程は未だにON THE WAYであります。すでに始まっている永遠の命をもって歩む中で、この世にあっても(しかも、邪悪な曲がった世代である)永遠の命を持つ喜びを歩めるのか、という課題があります。そこで、今朝特に私に与えられた挑戦は「傷の無い神様の子供」です。この世で生きるかぎり、傷を数多く受けます。それは、下手をすると毎日かもしれません。子供は傷を受けると涙を流して、その痛みの感情を吐き出します。そこで、傷の浄化作業をします。しかし、大人はそれが難しく傷を数多く持ったまま歩みます。果たして、私はどうか?韓国に戻ってきたときのように笑っているだろうか?と思いました。傷を受けても神様の前に、子供のように「罪の告白」をし、「傷を告白」をしているだろうか、そこには神様にある成長していく子供の姿があります。キリストの日に誇る人生を歩むために、日ごとに「傷の告白」をします。神様の癒しを受け、日ごとに新しくなる人生を歩みます。