坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 10月 31, 2007

自分がかしらになりたいという誘惑

私は 敎會に 對して 少しばかり 書き 送ったのですが, 彼らの 中でかしらになりたがっている デオテレペス が, 私たちの 言うことを 聞き 入れません.
それで, 私が 行ったら, 彼のしている 行爲を 取り 上げるつもりです. 彼は 意地惡いことばで 私たちをののしり, それでもあきたらずに, 自分が 兄弟たちを 受け 入れないばかりか, 受け 入れたいと思う人々の邪魔をし, 敎會から 追い 出しているのです.
愛する 者よ. 惡を 見ならわないで, 善を 見ならいなさい. 善を行なう者は神から出た者であり, 惡を 行なう 者は 神を 見たことのない者です. (第三ヨハネの手紙1:5-8)

何故、デオテレペスは「かしら」になりたがったのでしょうか。神様でなく、神様の立てた教会の指導者でもなく、自分がかしらになりたがったのか、自分の支配する、しきる王国をたてようとしたのか、神様の王国をたてなかったのか、疑問が起こります。
彼は、神様に会っていなかったのでないでしょう。何故、そうなったのでしょうか。
それは、真理の中にとどまらなかった、神様のみ言葉に従わずに、自分がリーダーになろうとした。その結果、教会指導者をののしり、兄弟を受け入れず、受け入れたい人々の邪魔し、教会から押し出すという重大な罪を犯したのです。これはでも、遠い初代教会の話でしょうか。いいえ、今も現代教会でも続く葛藤の話です。
デオテレペスの分裂させる心と自分がかしらになりたい、という行いは、目にも見えて分かる部分でした。逆に、デメテリオの良い心と行いはみなから、真理そのものから証言される行いは真実なものでした。何故、デオテレペスはこうなったのか?
心の深い部分の傷をとりあつかわれなかった、
もしくはそれを取り扱われることを拒否した
心のコンプレックスの克服をしなかった
自我の問題
これは、現代社会の指導者の中にも見られる問題でないでしょうか。
そういう自分も、問題の外だともいえません。私を支配するのはただイエス・キリストのみ
教会のかしらは主イエスであるときに、仕える成熟した信仰者、まことのリーダーになれることを信じ、祈ります。

共に仕える

愛する 者よ. あなたが, 旅をしているあの 兄弟たちのために 行なっているいろいろなことは, 眞實な 行ないです.
彼らは 敎會の 集まりであなたの 愛についてあかししました. あなたが 神にふさわしいしかたで 彼らを 次の 旅に 送り 出してくれるなら, それはりっぱなことです.
彼らは 御名のために 出て 行きました. 異邦人からは 何も 受けていません.
ですから, 私たちはこのような人々をもてなすべきです. そうすれば, 私たちは 眞理のために 彼らの 同勞者となれるのです. (第三ヨハネの手紙1:5-8)

教会の献身者だけが、宣教師だけが神様の働き日人なのではありません。真理の同労者として、宣教師を「神にふさわしい仕方」で仕えるものには、真理のための「福音を伝える」同労者となのです。キリスト教の大切なメッセージは、真理と愛です。多くの宗教は、多くの社会は愛と真理が共存することが難しく、もしくはありえない話です。しかし、キリストの十字架は、真理と愛を共存させます。ここで感じたことは、宣教師を「神に対するように」仕えた美しい愛なのです。
私は、何か人に仕えるときに、出し惜しみしていないでしょうか。
また、人を見て判断していることが無いでしょうか。自分のいろんなものを出し惜しみしていないでしょうか。そこには、十字架でしなれた主イエスの感動がありません。

今日、仕える人に心からの愛をもっていきます。

月曜日, 10月 29, 2007

異端や分派にどう対するのか

なぜお 願いするかと 言えば, 人を 惑わす 者, すなわち, イエス · キリスト が 人として 來られたことを 告白しない 者が 大ぜい 世に 出て 行ったからです. こういう 者は 惑わす 者であり, 反 キリスト です. よく 氣をつけて, 私たちの 勞苦の 實をだいなしにすることなく, 豊かな 報いを 受けるようになりなさい.
だれでも行き過ぎをして, キリストの敎えのうちにとどまらない者は, 神を持っていません.その敎えのうちにとどまっている者は, 御父をも御子をも持っています.
あなたがたのところに來る人で, この敎えを持って來ない者は,家に受け入れてはいけません. その人にあいさつのことばをかけてもいけません. そういう人にあいさつすれば,その惡い行ないをともにすることになります.(第二ヨハネの手紙1章6-11)

人を惑わす時代です。それは、面と向かってくる敵よりも、内部からの攻撃や判断しにくい、またに人間の情に訴えてくる、難しい敵が多くあります。教会内部の敵や、異端や分派が多くあります。近代神学は今まで考えても見なかったキリスト教内部の攻撃がもってきました。
キリストの奇跡を信じない、創世記の創造を信じない、などの戦いが起こりました。また、教会観についても、現代社会は大きく揺れたり、日本宣教でも教会の内部で戦いが起こったり、難しい問題が福音宣教を広げる前の難しいチャレンジがあります。
今日のQTは私にとって、非常にタイムリーな御言葉でした。異端や分派に対して、「よく気をつけよ、労苦の実を台無しにすることの無いように」とあります。また、異端を受け入れるな、ということを10節は言います。家に受け入れずに、挨拶もするな、とあります。
まるで、冷たいような気がしますが、その人を憎むのでなく、その教えを憎むこと、受けれいるな、境界線を引くことをいいます。キリストの十字架の共同体を壊す、混乱させる人へ境界線を引くこと、警告を与えることをいいます。私がまず福音の教えにしっかり立つこと、惑わされない人になること相手に影響される人でなく、相手に福音の影響を与える人にならないといけません。分派を引き起こすこと、引き起こされること、警戒を与えます。教会の共同体が、その労苦の実りが台無しにならぬように、報いが大きく受けれるようにヨハネが勧めます。
境界線と警告、そして神様の実りを結ぶために働きます。

土曜日, 10月 27, 2007

永遠の命をENJOYするためには

「あなたがたが、永遠の命を持っていることを、あなたがたによく分らせるためです」
「何事も神の御心にかなう願いをするなら、神はその願を聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です」(第一ヨハネの手紙5:12B,13)
永遠の命とは、何でしょうか。死んでから行く天国から永遠の命が始まるのでしょうか。多くの誤解があります。それでは、だらだらと生きることが永遠の命になります。そうでないのです。
永遠の命とは、神様とつながる、正しい関係を持つことにあります。永遠の命のスタートとは、罪の代わりにイエス・キリストの十字架の愛によって、神様との正しい関係をもてることを信じた瞬間から始まっているのです。それでは、今の私は永遠の命の生活を十分に発揮しているでしょうか。永遠の命を持って、神様の力を十二分に享受しているでしょうか。この世の悪い支配の中でも、神によって守られていることが(18節)宣言されています。祈りは、神様のとの交信(交わり)です。祈りを通して、私の願を神様に知っていただき、御言葉を通して、神様の声を聞き、祈りを答えをいただく神様との関係をもつ生活をしているでしょうか。この地上において神様の力を体験して歩んでいるでしょうか。
私の今日一日が、神様の力によって歩めることを信じます。罪を犯さないで生きれることを
信じ、歩みます。奉仕の隅々まで、神様の力があふれることを祈ります。


金曜日, 10月 26, 2007

神様に愛を告白すること

「神を愛する者は、兄弟を愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています」
(第一ヨハネの手紙4:21)
最近のQTで日ごとに続く素敵な、そして痛いメッセージは「神を愛し、兄弟を愛し」ということです。本当に、そのすばらしいメッセージと同時に、自分がどれほどできていないか、と思います。
心に攻められる思いが起こります。そして、下手をすると自責の念に駆られて落ち込んでしまいます。また、日常の中で「神様への愛」や「兄弟への愛」を馴れ合いになります。
しかし、フレッシュなメッセージをこの朝には黙想しました。
自分は、力いっぱい賛美しながら、神様を愛する、兄弟を愛するといいながらも、
失敗や挫折の連続です。
他人からの目は、自分は何をしているんだ、という判断さえあるような気がするときもあります。
しかし、神様の望まれているのは、私が「力いっぱい、神様を愛する」という告白です。
その告白に、神様の天国の力が望むことを信じて、今日の奉仕をします。
今日の釜山の東西大学の日本語チャペルに臨みます。

水曜日, 10月 24, 2007

父の心がわかる人

愛する者たち、私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。(第一ヨハネ4:7)

偽教師や偽の教えに対して、今日のQT箇所は、「人となってこられたイエス」を告白しない者と教えます。逆に、イエスを告白する霊は、世に勝った者である、それは神の霊によると教えてくれます。人の力、知恵以上のもである神様の霊。人の力や限りのある理性では神様の愛も、救いも理解できないのです。それ以上に、神様の霊が語りかけて下されないと悟れないのです。
実は、今朝のQTはすごく難関なものでした。後半の神を愛する、互いに愛し合うは簡単に黙想できます。しかし、この前半部分からの今日の父なる神様の声を聞くとは難しさを感じました。
後半とどのように繋がるのだろうか。
人としてこられたイエスを告白するとは、十字架にイエスをかけた父なる神の愛を知ること、
悟ることであると、という黙想が与えられました。それが分からないものには、神は分からないのです。 だからこそ、互いに愛し合うわけなのです。
最近の黙想の中で、父なる神の心を知るということが、私にとってマイテーマになっています。
今日の私にとって、働きは忍耐の多いものになりました。
非常に難しさを感じる瞬間もありました。しかし、全てのことを耐え忍ぶ神様の愛で歩めることを
感謝し、賛美します。

何故、大胆に生きれるのか?

愛する 者たち. もし 自分の 心に 責められなければ, 大膽に 神の 御前に 出ることができ,
また 求めるものは 何でも 神からいただくことができます. なぜなら, 私たちが 神の 命令を 守り, 神に 喜ばれることを 行なっているからです. 神の 命令とは, 私たちが 御子 イエス · キリスト の 御名を 信じ, キリスト が 命じられたとおりに, 私たちが 互いに 愛し 合うことです.
神の 命令を 守る 者は 神のうちにおり, 神もまたその 人のうちにおられます. 神が 私たちのうちにおられるということは, 神が 私たちに 與えてくださった 御
によって 知るのです. (第一ヨハネ3;21-24)

何故、人は恐れるのでしょうか。何故、人は心配になるのでしょうか。何故、人は自信を持てないのでしょうか。未知の世界への恐れ、受け入れてもらえるのか分からない対人関係、自分に反対する人、 自分が自分の存在を価値を証明しないといけないかのように、結果をだすことに必死になるのでしょうか。今日は、そんな私に神様と親しい関係を持つものは、神様の友となるものは 神の言われることに耳を傾けるから、神様の御心を行なうときに大胆に、恐れずに生きれることを 教えてくれます。神様への祈りの答えがいただけることを確信していけます。
神様の心を知る者は、神様のみ心にふさわしい祈りをします。
そして、神様の祈りの答えを確信して、期待できます。
また、何故平安を無くすのか、それは神様のみ前に自分がいないからです。
また、神様のみ前にいることを忘れるからです。
子よ、友よ、私はあなたと共にいるんだよ、という愛の声を聞くものに恐れはありません。
また、神様のみ前にいる者に、罪を犯すことはできません。なぜなら、神様に愛されているからです。
自分に対して失礼な人への嫌な思い、自分を傷つける人へのいろんな思いは、神様の不在からくること、神様の愛を忘れていることから、くることを思いました。
今日、私の目の前には奉仕への成功、失敗への恐れがありました。未信者への伝道することにより、 彼の心を害さないか、恐れがありました。しかし、神様のみこえと信仰によってはじめたことを恐れなくすすむことを決意します。

月曜日, 10月 22, 2007

神の愛を知らないことは損する

「私たちが神の子供と呼ばれるために、事実、いま私たちは神の子供です。御父はどんなに素晴らしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」(第一ヨハネの手紙1:1)
神様の愛を知らないことは、どれほど損なことか、考えたことがあるでしょうか。クリスチャンになってしばらくは、神様の愛についての感動が深くあります。しかし、時間が経つにつれてその感動が薄くなることがあります。本来は、クリスチャンになれば、時間の経つほど、また献身者であれば、ますますその愛に感動があるべきでないでしょうか。その愛が、罪を犯すことをやめさせ、キリストに似ている者として聖く生きたい、という希望を持たせます。
天国に行くその日まで、キリストに似ていく人生を歩みたい、という希望であふれているだろうか、と思いました。
あの人は若いときは熱心なクリスチャンであったけど、今はということはないだろうか、
と思いました。働きにおいては、目に見える部分は大丈夫かもしれません。
しかし、目に見えない神様への愛は、罪への拒否感、キリストに似ていく喜びはどうか、
と思いました。ますます、神様に愛されていることを知る人生を歩みたいと祈りました。
今日の伝道集会においての私の担当は、教会後方の駐車場の奉仕でした。
その駐車場の奉仕に神おいて、来る人々へ神様の愛を表す奉仕をします。

再臨の時まで約束を守る理由

「そこで、子供たちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その再臨のときに、御前で恥じ入ることのないためです」(第一ヨハネの手紙2:28)
私たちに日ごとに来る罪への誘惑があります、また、日ごとに来るそうしないと生きていけないから
という理由の現実生活があります。自分への妥協があります。
しかし、それを打ち破り、罪を犯す拒む理由があります、
それは、将来来る大きな栄光、キリスト者が受ける祝福への価値を知っていることです。また、現在生きているキリストにある永遠の命が、どれほど大きいのか感じながら生きることです。私たちの目には、また私の目にはどれほど、目の前の現実や経済、人間関係に縛られ、そこに魅力を感じていることでしょうか。
しかし、聖書は言います。再臨のときに御前で恥じ入ることのないようにと。
さらに、聖書は語っています。真理を知る油そそぎがあなたがたにあったのだと。
油注ぎは旧約聖書では特別な区別された人にのみ、注がれたものです。預言者や王であるとか神様の働きの為に区別されたものにのみ、注がれたものです。
しかし、新約聖書の私たちクリスチャンには全員に油注ぎがあり、
真理を悟り、この世のものと永遠のものを区別しながら生きていけるのです。
素晴らしい力と知恵でないでしょうか。
今日の礼拝の時に、再臨の日までキリストのうちにとどまる価値をもっと知ることを願って礼拝に出ます。

自分がどこにいくのか分らない人生

「兄弟を憎む者は、闇の中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです」(第一ヨハネ2:11)
ヨハネの手紙の主題は、愛です。また、異端に対して福音史的な事実であること、歪曲する異端や偽教師から離れるように伝えます。今日のQTの主題は、再び伝えられる古い命令、新しい命令である「イエス・キリストの真理」である「兄弟を愛すること」を命令します。
しかし、ここで私の心に留まったのは、「兄弟を憎む者は闇の中にとどまっている」ということでした。兄弟を愛さないことは、闇の中にいることです。ということは、自分の罪も自分の本当の姿も、神様の真理も見たくないからそうするわけです。
それは、結局自分がどこにいくのかわからない人生を歩むことになります。神様を知らない人生は、罪を持って歩み続けることになります。また、神様を知りながらも、兄弟を憎む人生を歩むこともありえます。というより、多くの場合こういうことに悩んでいることがあるのでないでしょうか。
誰にでも、自分に中の良い人や話をしやすい人と共にいたいものです。また、自分の気に入れない上司、部下、同僚、時に教会の人さえもそういうことで悩むことがあるのでないでしょうか。
聖書は言います。それは、闇の中を歩み、神様の祝福のゴールへと歩むのがはっきりしない人生だと。今日、私の適用は、私の苦手な人は話さなくなるものです。そこで、自分からあいさつをしようと思いました。多くのことから難しいけど、まずは話すように、こちらから声をかけるようにしてみます。神様の愛を共に祈りつつ、一歩歩みます。

木曜日, 10月 18, 2007

御父との交わり

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです「第一ヨハネの手紙1:3」
今朝から、QTがヨハネの手紙第一になりました。新しい気持ちでのQTにふさわしい御言葉でした。それは、神様との交わりについてでした。1節には、私がじっと見、手で触ったもの、すなわちいのちの御言葉とあります。「じっと見」るような観察や、神様との交わりがあるでしょうか。また、神との交わりがあるといいながら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っていると6節にあります。いのちある神様との交わりを持っているでしょうか。QTの時間だけが神様の交わりだと言うならどうでしょうか。それが、自分の霊性や人格に影響を与えないなら、どうでしょうか。
そこに、いのちはないのです。
神様の前にも、人の前にも恥ずかしい光を歩んでいるのか、と示されます。
イエス・キリストの交わりは、父なる神様の心を持つことです。
父なる神様の心を持てることに、私たちの心は疲れることも無く、勇気や希望を失わずに、
罪への聖いおそれを持って生きることができます。
今日からのQT、そして歩みが父なる神の心を持って歩むこと祈ります。
父なる神の心もって、痛んだ魂や留学生や、今日会う人に仕えます。


水曜日, 10月 17, 2007

信仰の従順は呪いを逆転させる

イエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間、隠されていたが、今や現されて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにためにあるゆるくに人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることが出来る方、(ローマ人の手紙16:25-26)
いよいよ、ローマ人の手紙のQTも今日で終わりです。本当に惜しいような、残念なような気がしますが、明日からのヨハネの手紙に期待します。
さて、今日のQTは異端や分派の人々が、他の純朴な人々をだましていくことに遠ざかりなさい、という勧めから始まります。逆に、信仰に立つ人々は、神様への従順を持って生きます。
それは、善にさとく、悪に疎い生き方です。創世記の始めに蛇にだまされて、神様に不従順したアダムとエバの代わりに、イエス・キリストの従順によって義の勝利ある生き方を得ることが出来るようになりました。それは、私たちの歩むべきロールモデルです。
従うということは、決してイメージの良いものでないかもしれません。
しかし、それはサタンの与えるイメージからくるものです。
従うことは、従属するのでなく、愛する人に対して心からしたくてする幸福な行為です。
主イエスは、神様に従うことが祝福であることを十字架で示してくださいました。
それは、福音の奥義として啓示され、全世界の人々へ伝えられているです。
サタンの不従順から来る呪いを、罪を十字架で従うことで、勝利を下さったのです。
今日、信仰の従順を伝える人として伝道し、祈り、奉仕をします。

火曜日, 10月 16, 2007

誇らしい紹介文

「ケンクレヤにある教会の執事で、私たちの執事であるフィベを、あなたがたに推薦します」
「キリスト・イエスにあって私の同労者であるプリスカとアクラによろしく」
「私の愛するエパネトによろしく。この人はアジアでキリストを信じた最初の人です」
「あなたがたのために非常に労苦したマリヤによろしく」(ローマ16章から)

今朝のQTは素晴らしいキリストにある家族への挨拶で祝福に満ちています。読むだけで素晴らしく恵まれるリストです。最初のメッセージは何でしょうか?

それは、神様に人に推薦される信じられるクリスチャンになれ、ということです。執事のフィベは聖徒にふさわしい仕方で、この人を歓迎するようにと言われています。この人は、多くの人を助け、またパウロ自身を助けたとあります。この人の必要の為に何でもしてあげてください、といわれる信頼度あのです。私は、そのようなクリスチャンでしょうか、そのような執事でしょうか。

また、プリスカとアクラはプロの同労者であり、信仰の夫婦でありました。バプテスマのヨハネの洗礼しか知らないアポロをそっと、皆に恥をかかせぬえように、聖霊のバプテスマを伝え、主の働き人として招いた謙遜な夫婦です。また、この夫婦は名前から推測されるのに、片方は身分の低い、片方は身分のある人であったようで、キリストの福音のゆえに身分も、生活も捨てた夫婦であることがわかります。自分の命の危険を冒しても、パウロを助けたとあります。

同労者とは、自分の命を捨てる人なのです。自分は、同労者として命を捨てているだろうか、

そこまで、変わらずに最後まで共に奉仕しているのか、

また、そのような同労者を何人持っているのか、と黙想しました。

また、アジアで最初にイエスを信じた人とはパウロには忘れられない人であったように思います。

自分は、最初に伝道したイエス・キリストを信じた人を紹介するときに、どれほど胸が熱くなり、

その人が成長するのをどれほど、嬉しく思うことか、と考えました。

また、逆にその人が教会から離れるなら、どれほど痛みがあるのか、と黙想しました。

多くの人の救いと成長の為に祈らずにいられません。

神様の恵みのリストを持って、手紙を書ける聖徒の交わりを目指し、祈ります。

私たちの追及すべき教会(宣教)


また、イスパニャに行く場合は、あなたがたのところに立ち寄ることを希望していましたので、

というのは、途中あなたがたにともにいて心を満たされてから、あなたがたに送られ、そこへ行きたいと望んでいるからです。(ローマ15:22-23)


私たちの教会のクライマックスは何でしょうか、また教会はどこに行くべきでしょうか。それは、未だイエス・キリストを知らない人のところに宣教しにいくことです。未だに、日本の教会が伝道が難しいといわれ(誰が言っているんでしょうね、誰がそうだと思っているんでしょうか)、ても宣教の為に私たちは目を上げる必要があります。今朝のQTから、宣教する教会のモデルをローマ教会へのチャレンジから見ました。使徒パウロの心の、ハートビートが聞こえてきそうな聖書の内容です。
使徒パウロは、ローマ教会の人々に出会うことを希望します。それも、「共にいて心満たされて、イスパニヤに送られたい」と希望するのです。聖徒の交わりはこういうものであることを示しています。
事務的ローマ教会の人々に出会うことでなく、出会うことで心満たされ、また、自分ひとりで宣教するのでなく、祈りに送りだされて、経済的なサポートも受ける必要があるのです。それは、聖徒にゆるされた美しい家族の交わりです。私たちがキリストの愛を受けたのは、宣教師を送ってくれた大きい教会、小さい教会の祈りと献金のゆえです。そこに、神様の働きをなされてきたのです。私たちも、次の宣教地に宣教師を送り出さないといけません。キリストの満ち満ちた祝福はそのようにして運ばれます。特に、私も個人的にアメリカの宣教師と子供のころからお世話になったり、共に開拓教会で奉仕したこともあります。


今朝、私に示されたことは、

①宣教師に感謝すること「それは、宣教師を偶像化することでなく」また、「自分たちの文化を理解できなかった宣教師への不平、不満でもなく悔い改めです」

②聖徒の交わりを私はしているのか、宣教師のためにとりなしているのか

③今日は、サラン教会の所属する大韓イエス教長老会の東ソウル老会がありました(日本で言うと教区でしょうか)。そこでの交わりを大事にすること

④いこいのある交わりをすることでした(32節)

いつの日か、奉仕する教会から宣教師を送り出す使徒時代的な教会を目指して。


水曜日, 10月 10, 2007

違うことは悪いことでない

あなたがたは、信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません」
(ローマ14:1)
今日の聖書箇所は、イエスが復活された日を「特別な日」と考える人々、また、「野菜」しか食べない人々、という別々の意見と行動、そして自分と違う行動や意見を持つ人々を裁く、という問題がありました。そこに、聖書は「裁く人」を信仰の弱い人、またあなたは一体誰なので神のしもべを裁くのか、という既得権利を持つ理由は無いことを話します。自分は誰なのか、という問いかけをします。信仰の成熟した人は「違う意見や行動をもつ人」を受け入れ、愛します。また、それぞれの信仰による確信をパウロは持つように勧めます。

考えると、ローマ教会は一国の首都であり、当時の全世界を支配したローマ帝国の首都です。おそらく、相当な多種多様な人々がいたことでしょう。自由人、奴隷、権利のある人、無い人、考えることのできる人、考えることのできない人、そこで生じた差は非常に大きかったことでしょう。
批判や非難は、当然のようにでたことでしょう。律法と福音の恵みの関係はどれほど理解されたのか、ということもあります。使徒パウロは成熟したクリスチャンは、自分が神様の前に出て確信を持つ人は、他人の権利を侵すことも無いことを示します。
神様の確信を持っている人は他人を批判する弱さで無く、使える成熟度を持ちます。
今日は、私と違うこと、違う人を悪いと思わずに、
使える成熟を持って歩むことを祈ります。

心を何のために用いるのか


「主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません」(ローマ12:14)



私たちの心は、肉のために行くのか、神様のために行くのかどちらかです。中間はありません。霊的な戦いに、引き分けはありません。勝利か敗北のどちらかです。私の心は、神様と人々の前に出て、恥ずかしくない昼間の生き方をしているのか、と思います。
心の中に罪があるときには、神様と人々のまえにでていくよりも暗闇の中にいることを引き出されることを望みません。
今日の私にとって、休日をどのように過ごすのか、というチャレンジがありました。休日を迎えて、そこで自分の休みのために、楽のために使うのか、神様のために使うのか、聖書を読んだり、祈ることに使うことを私の休日を使いたいと思うのか、でした。

私の心は、どこに行くのか、何に用いるのか、と黙想しました。

神様のみ言葉を読むことに、真の休日を迎える喜びを選び取ります。

礼拝をささげる基礎は

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたの聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ12:1)

この聖書箇所は、非常に私個人的に大好きな御言葉の一つです。日曜のみでなく、月曜日から日曜日まで、誰と会っても、何をしても、神様を礼拝する生活を私たちには特権として送られています。しかし、その基礎にあるのは「神様のあわれみ」による救いです。
私たちが礼拝者としての招きは、まず神様が私たちを愛して十字架にかかってくださった根拠によあります。私の何か大きな資格があるからでありません。
礼拝者として招かれた時に、あわれみをかけられたに過ぎない私に愛を下さったからには、それだけの覚悟をして、霊的な招待を受けないといけません。
私が、神様に愛されたことで満足するのでなく、神様のあわれみを受けたものとして
神様への覚悟を持って生きるのです。
何か、神様の前に主張できるものでないです。
しかし、多くの仕事や自分の出来ること、時に奉仕さえも自分のできるものとして主張することが無いでしょうか。また、礼拝者として生きるのは、自分がささげます、とかささげました、というものでなく、神様のあわれみのゆえにささげさせていただく、当然にささげるべきものなのです。そこに、自分の主張はありません。
今日、神様のあわれみを受けたものとして、
8節「熱心に指導する」ことに霊的なささげものとして生きます。