坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 10月 10, 2007

礼拝をささげる基礎は

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたの聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
ローマ12:1)

この聖書箇所は、非常に私個人的に大好きな御言葉の一つです。日曜のみでなく、月曜日から日曜日まで、誰と会っても、何をしても、神様を礼拝する生活を私たちには特権として送られています。しかし、その基礎にあるのは「神様のあわれみ」による救いです。
私たちが礼拝者としての招きは、まず神様が私たちを愛して十字架にかかってくださった根拠によあります。私の何か大きな資格があるからでありません。
礼拝者として招かれた時に、あわれみをかけられたに過ぎない私に愛を下さったからには、それだけの覚悟をして、霊的な招待を受けないといけません。
私が、神様に愛されたことで満足するのでなく、神様のあわれみを受けたものとして
神様への覚悟を持って生きるのです。
何か、神様の前に主張できるものでないです。
しかし、多くの仕事や自分の出来ること、時に奉仕さえも自分のできるものとして主張することが無いでしょうか。また、礼拝者として生きるのは、自分がささげます、とかささげました、というものでなく、神様のあわれみのゆえにささげさせていただく、当然にささげるべきものなのです。そこに、自分の主張はありません。
今日、神様のあわれみを受けたものとして、
8節「熱心に指導する」ことに霊的なささげものとして生きます。