坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 10月 31, 2007

自分がかしらになりたいという誘惑

私は 敎會に 對して 少しばかり 書き 送ったのですが, 彼らの 中でかしらになりたがっている デオテレペス が, 私たちの 言うことを 聞き 入れません.
それで, 私が 行ったら, 彼のしている 行爲を 取り 上げるつもりです. 彼は 意地惡いことばで 私たちをののしり, それでもあきたらずに, 自分が 兄弟たちを 受け 入れないばかりか, 受け 入れたいと思う人々の邪魔をし, 敎會から 追い 出しているのです.
愛する 者よ. 惡を 見ならわないで, 善を 見ならいなさい. 善を行なう者は神から出た者であり, 惡を 行なう 者は 神を 見たことのない者です. (第三ヨハネの手紙1:5-8)

何故、デオテレペスは「かしら」になりたがったのでしょうか。神様でなく、神様の立てた教会の指導者でもなく、自分がかしらになりたがったのか、自分の支配する、しきる王国をたてようとしたのか、神様の王国をたてなかったのか、疑問が起こります。
彼は、神様に会っていなかったのでないでしょう。何故、そうなったのでしょうか。
それは、真理の中にとどまらなかった、神様のみ言葉に従わずに、自分がリーダーになろうとした。その結果、教会指導者をののしり、兄弟を受け入れず、受け入れたい人々の邪魔し、教会から押し出すという重大な罪を犯したのです。これはでも、遠い初代教会の話でしょうか。いいえ、今も現代教会でも続く葛藤の話です。
デオテレペスの分裂させる心と自分がかしらになりたい、という行いは、目にも見えて分かる部分でした。逆に、デメテリオの良い心と行いはみなから、真理そのものから証言される行いは真実なものでした。何故、デオテレペスはこうなったのか?
心の深い部分の傷をとりあつかわれなかった、
もしくはそれを取り扱われることを拒否した
心のコンプレックスの克服をしなかった
自我の問題
これは、現代社会の指導者の中にも見られる問題でないでしょうか。
そういう自分も、問題の外だともいえません。私を支配するのはただイエス・キリストのみ
教会のかしらは主イエスであるときに、仕える成熟した信仰者、まことのリーダーになれることを信じ、祈ります。