坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 10月 22, 2007

神の愛を知らないことは損する

「私たちが神の子供と呼ばれるために、事実、いま私たちは神の子供です。御父はどんなに素晴らしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです」(第一ヨハネの手紙1:1)
神様の愛を知らないことは、どれほど損なことか、考えたことがあるでしょうか。クリスチャンになってしばらくは、神様の愛についての感動が深くあります。しかし、時間が経つにつれてその感動が薄くなることがあります。本来は、クリスチャンになれば、時間の経つほど、また献身者であれば、ますますその愛に感動があるべきでないでしょうか。その愛が、罪を犯すことをやめさせ、キリストに似ている者として聖く生きたい、という希望を持たせます。
天国に行くその日まで、キリストに似ていく人生を歩みたい、という希望であふれているだろうか、と思いました。
あの人は若いときは熱心なクリスチャンであったけど、今はということはないだろうか、
と思いました。働きにおいては、目に見える部分は大丈夫かもしれません。
しかし、目に見えない神様への愛は、罪への拒否感、キリストに似ていく喜びはどうか、
と思いました。ますます、神様に愛されていることを知る人生を歩みたいと祈りました。
今日の伝道集会においての私の担当は、教会後方の駐車場の奉仕でした。
その駐車場の奉仕に神おいて、来る人々へ神様の愛を表す奉仕をします。