坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

水曜日, 6月 30, 2010

終わりの時に来られたイエス

ヘブル人への手紙1;1-5
神様は色んな方法で神様の民たち(クリスチャン)に語られます。旧約聖書の時代は?
WHO:イスラエルの父祖たちに向かって
HOW:多くの預言者や、幻や夢を通して
THROUG:多くの部分に分けて(完全な形でなくて、別々に)
WHEN:むかし
新約聖書は
WHO:万物の創造者、世界を創られたイエス・キリスト
WHEN:この終わりのとき
HOW:神様の子なるイエス・キリストが肉を持って現れたくださった。すべてを示してくださったイエス・キリストによって、罪が赦されて、今も大能の座に着かれています。イエスは万物を創造されて、今も治めている方です。罪をきよめ、権能の座に着かれています。その主イエスの栄光の中に、罪きよめられて生きることを感謝して歩みます。

ラベル:

火曜日, 6月 29, 2010

いつも、絶えず、神様の前に立つことがヒケツだ!

エレミヤ35;12-19
いつも、絶えることなく、神様の前にたつことが、わたしたちの人生のヒケツです。それは、目覚めていない人生と違って、神様の前に自分が弱い存在であり、罪ある存在であり、神様なしでは生きていけない存在であることを知ることです。毎日、神様の前に出るしかないことを実行しているのでしょうか?出て行くことは、緊張があります。日ごとに、主イエス・キリストの十字架によって神様の前に出て行っているでしょうか?万軍の主に、喜ばれる人生を歩んでいきます。

ラベル:

月曜日, 6月 28, 2010

神様からいただく代々続く家訓

エレミヤ35;1-11
レカブ人には、代々続く家訓がありました。それは、神様から直接にいただいた家訓でした。酒を飲まずに、代々家を建てずに、天幕暮らしをするという神様からの命令でした。それは、寄留している場所に一生すむために、末永く住むために歩むために、神様が下さった命令でした。それを先祖が守ったように、彼らも一生守っていたのです。はたして、私は一生涯もっていくべき基準をもっているのでしょうか?神様の言葉を一生が一守っていく基準としてもっているのでしょうか?神様にあってこの地上の生涯は寄留者である、という意識を持って歩み、価値観を持ち、悩み、生きているのでしょうか?また、そのような信仰の影響を次世代に、自分の子供たちに、日曜学校の子供たちに、伝えているのでしょうか?信仰の影響力を回りに与えて、模範となっているのでしょうか?

ラベル:

日曜日, 6月 27, 2010

神様の民として生きないときに滅びが来る

エレミヤ34;12-22
神様が、奴隷を解放せずに再び、奴隷として扱ったイスラエルの民(クリスチャン)への裁きが今日の箇所です。神様の民として、神様の法律を守らず、人間として誠実でない人に、神様の民としての人生を歩まない人へ、神様の裁きが下ります。罪の奴隷であったわたしを神様が主イエスの十字架で自由にしてくださったのに、何故、人を再び奴隷にするのでしょうか?恵みで人を自由にしてたのに、(しかも同国民です)何故、再び自分の利益のために、奴隷へと戻るのでしょうか。それは、自分の古い罪の性質です。昔の人間の自然の性質である罪へ、人を嫉妬し、嘘をつき、自分の利益のためだけに行き、行動する自分に戻るのです。そのままに自然にしていたら、神様の人としての性質を忘れ、人間としての罪ある自分に戻るのです。しかも、自然にです。簡単に、イエス・キリストの十字架によって罪の奴隷から解放されて、義の奴隷となったことを忘れるのです。それは、滅びの人生を行き、滅びを神様から受けるのです。神様の民として、クリスチャンとしての性質を持っていきます。主イエスの十字架の罪の許しに感謝します。賛美します、人を赦し、愛していきます。

ラベル:

土曜日, 6月 26, 2010

危急の時に主が語る人になっているのか?

エレミヤ34;1-11
南ユダ王国の滅亡の時に、ゼデキヤ王に対するメッセージがエレミヤにありました。王に直接に語られるのでなくて、主の預言者に、語られたのです。はたしてわたしは、危急の時に、私は主なる神様が語ってくださる関係でしょうか?神様にメッセージをいただいて生きることが出来、また周りの人々のために用いられる人材でしょうか?神様の大事なメッセージを、危急の状況に、生きるか死ぬか?の状況にある人を助け出せる神様のメッセージを伝えれる人でしょうか?神様の声を普段から聞けるように、生活を設計しているのでしょうか?生活をキリスト中心に、教会中心にしているのでしょうか?それとも、普段は自分の思い通りに生きていざと言うときに慌てふためく人でしょうか?

また、神様の奴隷解放をしながらも、イスラエルの民は約束を、恵みを、あわれみをひっくりかえします。それは、人間として難しいことですし、神様を信じるクリスチャンなら尚更難しいことであり、大きな裏切りであり、罪であるのです。それは、神様の罪の許しをもらっても、人を赦さない、愛さない姿勢です。それは、自分の心の奥底にある怒り、赦していない罪から来るのです。

わたしの心の奥底にある、怒り、傷の癒しを求めます。主よ、わたしはあなたなしには生きていけないものです。自分に絶望します。しかし、主イエス・キリストの十字架の血潮を受けます。主よ、癒してください。この心で主とお話をしていきます。祈り、聖書を読みます。神様の癒しのある日になることを信じます。不利になって神様の約束に立ちます。何故なら、主イエスがそうしてくださったからです。主イエスの恵みを賛美します。

ラベル:

金曜日, 6月 25, 2010

昼も夜も変わらない人生のルール

エレミヤ33;14-26
神様は、わたしたちのために昼も夜も代わらない神様の契約を新たに下さる方です。神様の慈しみは、憐れみにによって、永遠の礼拝の場を与えてくださり(ダビデの王座が永遠なのはイエス・キリストによる十字架から来ます)そこから人生の回復が来ます。わたしのうちに昼も夜も変わらない神様の契約によって、人生が回復していきます。そのRESOURCEは神様の憐れみから来ます。わたしは裁かれて仕方が無かったのに、神様の哀れみによってゆるされて、礼拝するものとされたのです。これからは、わたしのわがままや願いが主人でなくて、ダビデの子孫としてこられた、謙遜な王様であるイエス・キリストが、十字架のイエス・キリストがわたしの主人です。わたしの王です。追うなるイエス・キリストを賛美します。神様のみ言葉によって私の人生を回復されることを祈ります。礼拝が回復されて、御言葉に頼って。、主に叫び、祈ります。私の人生のルールは御言葉です。主の真実な約束のみ言葉を信じます。主のみ言葉を握って歩みます。

ラベル:

木曜日, 6月 24, 2010

主に向かって叫んでいるか!

エレミヤ33;-1ー13
苦難の時に、難しいときに、ちょっとした問題にぶつかるときに、私は誰に向かって助けを、頼みを求めているでしょうか?また、誰に向かって、不平や不満を言っているのでしょうか?それとも、自分ひとりで悩んでいるのでしょうか?わたしの知らない、理解の超えたことをされる方に「叫んでいる」のでしょうか?偉大な方の素晴らしいみわざを見ているのでしょうか?ただ単に自分で一人で悩んでいるのと、偉大な神様のみ技を見て、自分の廃墟のようになった人生が、自分の町が回復して、繁栄するのを見ているのでしょうか?また、何よりも罪からの回復こそが一番の祝福であることを知っているのでしょうか?自分が罪からの回復によってこそ、人生が回復し、偉大な神様によって反映できることを信じます。主に向かって、わたしの悩みや問題、そして課題への知恵を求めます。

ラベル:

水曜日, 6月 23, 2010

罪の多い時代、人々にはもっと愛と恵みが必要だ!

エレミヤ32;36-44
逆説的かもしれませんが、罪の多い時代、誘惑の多い時代、間違ったことが堂々とはびこり、誰も何も言ってくれない時代、かえって、神様の愛が恵みがもっと必要な時代であります。神様はそんなイスラエルの民に、神様の民に、クリスチャンに、怒りを持って(神様の怒り、なんと恐ろしい言葉でしょうか?)散らされた人々を、回復され、集められ、安からに住まわせるといわれます。何と言うことでしょうか?神様の民となり、わたしの神様となってくださるのです。それは、ただ主イエスの十字架による恵みです。わたしの力ではありません。感謝します。

①私の人生の、価値観アイデンティが回復されるのです。

②繁栄が元通りになるのです。元通りになることがこの世の中にあるのでしょうか?壊れた人間関係はいくら誤っても、壊れた溝はそのままです。

③しかし、イエスの十字架だけは、回復し、その元通り、それ以上の祝福をもたらします。

④神様はこの国に植えるとあります?安全で、この地に定住できるのです。なんと安全なことでしょうか?なんと、将来への導きがあることで、期待できる人生の祝福でしょうか?

⑤土地を買って、銀で買って、証人を立てよ!とあります。この地での人生に、天国への人生へ、未来の神様の計画を立てて生きれるのです。なんと、幸福があることでしょうか?

⑥神様がおられる幸福であり、神様の関係が回復した喜びであり、神様の力による喜びです。神様の仲にある安心です。

はたして、私は周りの人々に「安らぎ」を与えているのでしょうか?罪を犯す人に、罪で返しているのでしょうか?愛と恵みで返しているのでしょうか?

また、わたしの神様、神様の民として告白できる証は何でしょうか?真面目に、真摯に神様のことを言葉と行動で明かしているのでしょうか?

そして、神様の土地を買っているのでしょうか?未来への投資、神様の計画を信じたささげものがあるのでしょうか?本当にこれは勇気と祈りがいります。主よ、ささげます、主の地を示してください。


月曜日, 6月 21, 2010

エレミヤ32;26-35
神様は清い方です。神様は続けて警告されます。その神様にできないことはありません。神様は侮られる方ではありません。神様はさらに、礼拝の場所で偶像礼拝が何されたこと、罪があることを徹底して除かれる方です。神様意外に頼るものや偶像があること、ダブルスタンダードがあることを嫌がられる方です。今朝、悔い改めます。神様だけにきよめられること、神様の前にいることをします。先週、先々週と神様の前に、礼拝の場所で、椅子にておいて祈る時間が少なく過ごしました。神様のMAXを経験する祈りと礼拝、賛美の場所をもって行きます。

偉大な神を知るとささげる

エレミヤ32;16-25
偉大な神様を知ると、その神様の前に裁きと祝福があることを知ると、その神様の御言葉にしたがって行動することになります。エレミヤは神様が全能であること、神様のみ手を賛美し、その恵みを千代に報いる方であることを語り、神様の真実さを告白し、神様のみ言葉どおりに、神様の計画を信じ、あの畑を買って証人を立てよ、といわれたことを話します。わたしにとって偉大な神様への従順と未来への希望を持って投資をしていきます、また、証にしていきます。偉大な神様を伝えていきます。

ラベル:

日曜日, 6月 20, 2010

神様の言葉を語り続ける理由、未来への投資をせよ!

エレミヤ32;1-5
神様の御言葉を、主なる神様からの預言を何故、語るのか?とユダの王ゼデキヤは語ります。バビロンに支配されたときにさえも、ユダの監視の庭に、監禁されたときも、エレミヤは語ります。何故、神様の言葉を語るのでしょうか?それは、状況によって左右されるものでもなく、人の権威や圧力に動かされるものでもなくて、神様の言葉がわたしたちの状況や未来を解説し、わたしたちを動かす最高の権威だからです。主の言葉を語れないのは、言い訳するものでもなく、また説明できない、ものです。主の言葉を語るときに、神様は不思議なことをされます。それは、エレミヤに土地を買え!という命令であり、将来への計画を示すものでした。回復を示すものでした。それは、しかしこれからバビロン捕囚に行くのに、イスラエルの土地を買うとは、また保証人をつけて、公式的なものを準備し、長く保存していくものでした。それは、自分に、自分の子孫への神様にある投資でした。現実とは、全く会わないものでした。はたして、わたしは神様にある投資を何をすべきでしょうか?

Q:神様にある投資とは、ひとつは捧げ者の献金

Q:そして、ひとつは土地を買う、家を買う、ものです。現実的にありえないことですが、神様の導きと信仰を持って進んでいきます。アーメン、主を信じます。

ラベル:

土曜日, 6月 19, 2010

わたしの心の中に聖書が書かれているか?

エレミヤ31;31-40
神様の契約は、新しい契約とは今までと相手も、内容は同じものです。しかし、相手である人間の私たちが、イスラエルの民が破り続けるので、神様が「新しい契約」を下さったのです。普通、契約を破る者に、新しい契約などありません。破らないために、契約があるのです。破ったら終わりです。関係は終わりなのです。それは全く一方的な恵みを神様は下さるのです。完全に対等な関係で契約をされるものですが、神様と私は違います。それは、罪のための購いも私が用意したものでなくて、神様ご自身が下さった主イエス・キリストなのです。それは、かかれたものでなくてわたしの心にかかれるものなのです。まさに、神様なしにはわたしは生きれないものです。神様の罪の許しを、イエス・キリストへの感謝を私の人生の中に、おいているのでしょうか?聖書をわたしの心の中に書いているのでしょうか?私の人生の中に主イエスの罪の許しが書かれている証があるのでしょうか?神様によって、回復された人生の証があるのでしょうか?それを伝えているのでしょうか?イエスの愛を出会う留学生たちに伝えていきます。

ラベル:

金曜日, 6月 18, 2010

私の人生に、神様の奇跡の道しるべがあるか?

エレミヤ31;21-30主の祝福は、この世でつかれた魂を癒し、しぼんだ魂を満たされます。それは、このバビロンの支配にあっても、万軍の主なる神様が宇宙の支配者であり、イスラエルの民を(クリスチャンを)回復させ、元通りの回復をしてくださるのです。この世の中に、元通りと言うのはありません。しかし、聖なる、義なる万軍の主がそれをなさるのです。私の人生に、万軍の主なる神様がなされた、あかしがあるのでしょうか?人生の道しるべがあるのでしょうか?神様の与えられた信仰とは奇跡そのものです。神様にある眠りは、心地いいものです。その日を期待している、今日の神様の奇跡を体験しているのでしょうか?神様の奇跡を体験する、今日を、明日を期待していきます。

ラベル:

木曜日, 6月 17, 2010

神のはらわたのわななきに私は無関心でないか?

エレミヤ31;10-20霊的な死は、神様の愛への無関心と無感覚に陥れます。また、霊的な怠惰は神様の愛に慣れっこにします。そして、世の中に関心や興味や価値観を起き、そこに時間を過ごさせます。しかし世の中は、苦しみがあったときに一時的に逃げ場があっても、それを変える力はありません。また、世の中の楽しみは、一時的なのもで、永遠に続くものではありません。世の中のものはいつか無くなり、足りなくなるものです。しかし、神様は、悲しみを喜びに、足りないものを、満ち足りようにされる方です。神様の愛は表面的なものでなくて、骨までしみる、心の揺れ動くまでなされるものです。また、神様は罪を犯しているわたしに、全ての人に、「わたしの大事な子」喜びの子、将来に希望があるといわれます!状況がわたしを作るのでなくて、神様の愛の関係と計画がわたしの未来を創造されることを知り、主イエスにある愛を持っていきます。神様の愛の声を聞いて、この世の中で神様の愛を叫んでいきます。

ラベル:

水曜日, 6月 16, 2010

荒野の中で、永遠の神の愛に出会え!

エレミヤ31;-1ー9
神様は、わたしたちを正しい道に戻すために、「荒野」に導かれることがあります。荒野とは、自分で仕事を立てたり、長期的な計画を立てて、人生を設計したり、自分で全てをすることが出来ない、神様のみに頼るしかないことを教えられる場所なのです。そこは、孤独で辛い場所かも知れません。しかし、そこでこそ、神様の永遠の愛に出会えます。それは、祝福の場所なのです。神様の誠実を尽くし続けた人格にお会いできる場所、時間なのです。荒野はずっと続く、永遠の場所なのではありません。神様は、畑を耕し、神様を礼拝する場所に戻されます。神様の回復のところと祝福の場所に戻ることが出来ます。「再び」そして「立て直してくださる」のです。その神様にだけ頼る準備が出来ているのでしょうか?主のもとへ叫び、賛美する準備が出来ているのでしょうか?わたしのアイデンティの回復は、礼拝の回復からです。礼拝の回復を叫ぶクリスチャンとして、牧師として歩んで生きます。生きた供え物としていきます。ローマ12;1

ラベル:

月曜日, 6月 14, 2010

感謝と喜びが溢れる

エレミヤ30;12-24
その日、主の回復は「わたしたちの努力」でなく、人の助けでもなく、「神様のあわれみ」から始まります。傷は癒されにくく、打ち傷は痛んでいることを、恋人が忘れるような(愛する人が忘れ、愛される人からも忘れられること)が癒されるのです。何故なら、主イエスがわたしたちを忘れ、捨てることは無いからです。神様の愛がわたしたちを回復するときに、生かされているだけでも、喜びなのに、感謝なのに、という究極的な回復が来ます。そして、自分の尊厳が神様の愛に生きるときに、真理に歩むときに回復されます。その日の回復とは、主イエスが十字架によってわたしの罪を負われたことを通して、神様と私が近づくことから始まります。神様のあわれみからがスタートなのです。究極の回復とは、神様の礼拝の回復です。神様に近づくために、いのちを掛けているのでしょうか?神様の民となっているのでしょうか?私は神様に近づくために、神様を愛し、人を愛し、教会を愛して、ゆるしているのでしょうか?神様の喜びと感謝が溢れる人を期待して、教会の奉仕を計画を持ってしていきます。

ラベル:

その日を期待して人生を設計せよ!

エレミヤ30;1-11
神様の「その日」回復される日が来ます。その日を期待して、神様の人生を設計しているのでしょうか?その日を期待して、神様の言葉を余すところ無く語っているのでしょうか?罪に支配されず、神様の救いによって、神様の義にのみ仕えているのでしょうか?また、この地上で神様の建てられた権威によって、生きているのでしょうか?神様の計画の仲で、希望を持って祈り願い求めているのでしょうか?教会の会堂と、事務室、神様の地を与えてくださることを祈ります!ハレルヤ!主の日を期待して、設計して生きます。

ラベル:

日曜日, 6月 13, 2010

偽者が良いか?神様が良いか?

エレミヤ29;24-32
偽預言者は、自分勝手に預言し、神様に人々を反逆させます。それは、大きな罪です。何故なら、神様に反逆させたからです。偽のよいことや勝手な自分のときを、都合よく言われます。わたしたちの神様が主人であるならば、自分のタイミングでなくて、自分の願いどおりでなくても、神様も最高の良い物を準備されています、それは「よいこと」を与えようとしていることです。どちらが自分にとって得なことでしょうか?神様のよいものでないでしょうか?

Q:今は、苦しくても神様の最善の良い物を信じて、今を生きているのでしょうか?長い目で、神様の目で見ようとしているのか?見えなくても、よき神様を信じているのでしょうか?

また、人を陥れるためにどれほど時間を使っているのでしょうか?わたしはそのような時間を過ごしていないでしょうか?教会のためだといいながら、自分の主張や義を言っていないでしょうか?自分が死なずに生きていることが無いでしょうか?偽預言者になっていないでしょうか?

Q:人の復讐に、神様にお任せしているのでしょうか?神様が真理を持って明らかにしてくださることを信じているでしょうか?

JUBILEE COMMNUTY CHURCHも霊的な攻撃があります。

霊的な武装をしているのでしょうか?

真理を明らかにされる神様の勝利にゆだねます!

神様の目で見る牧会をしていきます。明日の礼拝に神様のビジョンと聖霊の油そそぎがありますように



ラベル:

木曜日, 6月 10, 2010

エレミヤプロジェクトは始動していた

エレミヤ29;1-14
エレミヤを通して、神様は語られました。それは、罪からの回復プログラムです。
①バビロン捕囚に連れて行かれて、自分のクリスチャンとしてのアイデンティを悔い改め、取り戻し、神様への賛美、礼拝への渇望を取り戻すのです。
②バビロンの繁栄のために祈れ、これは自分たちの国であるイスラエルを滅ぼした国であり、悪の象徴でありますが、この世で生きる中で、神様の用いられている国です、それは裁きのために用いられた国です。また、そこでの従順の生活、この世の権威、建てられているものの仲で生きる生活であり、訓練でもあるのです。
③住み着き、子供を生み、その実を採って食べよ、といわれます。
④神様の計画は災いでなくて、平安であり、希望を与えるものであったのです。
わたしにとって、このエレミヤの黙想は2008年度からこの10年度まで続いて語られた、神様の計画であったのです。ハレルヤ!主イエスを賛美します。神様の回復プログラムを通して、クリスチャンとして、人生を立て、家族を創り、主に使える人生を下さる主イエスを賛美し、歩みます。なんと、わたしは神様の大きな、偉大な計画を知らずに、意識せずに歩んだことでしょうか?神様の計画を知り、賛美し、呼ばれたところで礼拝します。

ラベル:

水曜日, 6月 09, 2010

真理は必ず明らかにされることを信じよ!

エレミヤ28;12-17
偽預言者の最後について、聖書は語ります。それは
①人を惑わす偽預言者には必ず神様の捌きがある。
②真理が必ず明らかにされることを信じて歩め!偽預言者が栄えるのに、人気が有るのに、惑わされるな!また、神様の前に不平や不満を言うな!その一時的な価値観に揺るがされるな!
③苦しい状況の中でこそ、神様の声を聞いて生きよ!バビロンに支配を与える、ゆるされる神様の計画と心を信じて歩め!バビロンのような悪い帝国に於いても支配をゆるされ、神様の栄光と裁きを、義を愛を示される方の計画を信じて歩め!
神様のまことが強調される人生を従い歩みます。私が人生の中心でなくて、神様が私の人生の中心であられることを告白し、信じます。アーメン。一番安全神様の中で歩みます。

ラベル:

エレミヤ28;1-11
人のこうあったらいいな、とか、こうなったらいい、というほんわかした願いとは、神様のみ心は違います。神様の予言は人のこうあったらいいなと言う願いと違います。それは、全能の神様との思いを計画を取り違えるものです。エレミヤと偽預言者であるハナヌヤがいます。神様の前で、神様を礼拝する場所で、嘘を、人間の勝手な願いを言う人がいます。もちろん、人間的にはエレミヤも願うイスラエルのバビロンからの解放です。バビロンの支配によって、捕囚にされたくないのは、人間として当たり前のことでないでしょうか?神様の預言は基本的に、裁きであり、悔い改めの勧めであります。それは、決して人間的に聞きたくない、あってほしくない話であります。そのようにならない話を信じ、また願いたいことです。しかし、神様の真実を伝えること、それを宣言することを覚えるときに、偽預言者への違うことも伝えないといけないのです。もちろん、自分がでなくて、神様ご自身が真実を明らかにされます。真実をあきらかにされる主に祈り、主の真実を信じ、伝えます。

ラベル:

月曜日, 6月 07, 2010

まことの預言者には、愛と関係がある

エレミヤ27;12-22
まことの預言者と偽預言者を区別するのは、主イエスへの「愛」と「関係」があるのか?ということと、共同体への「愛」という「関係」があるのかどうか?です。それは、18節にあるように「万軍の主への執り成しの祈り」をするはずである、ということから分かります。まことの預言者ならば、神様の宮への礼拝、そして共同体への愛があるはずなのです。それは、片方だけがあればいいのでありません。神様への礼拝、神様への愛、関係そして民たちへの愛と関係が有るはずなのです。しかし、勝手な、人間の耳に聞こえのいい預言やメッセージをする人は、その後どうなってもいいので、自分がよければいいので、勝手なことをいえます。そこには、責任がありません。神様への礼拝と共同体がある人には、そのようなことが言えません。せきにんをもって、関係を持ち、自分のこととして歩みます。今日、神様にある愛と関係を持って、メッセージを伝え、とりなしの祈りをします。

JUBILEE共同体への神様の愛と関係を持って歩みます。

ラベル:

偽預言者と本物の違いは主人が誰か?

エレミヤ27;1-11
預言者が本物かどうか?それは、自分が主人なのか?それとも神様が主人であって、神様の言われることを信じて、従順しているのかどうか?です。そして、もっとも驚くべきことは「バビロンを主人」として仕える時代のことです。また、神様はバビロンのNEXTの時代のことも語っています。神様の計画は、自分の力や計算にあわなくても、従うことです。今朝のわたしへの黙想は、こうです。バビロンのような悪い帝国へも、神様の用いられている間は、従い、神様の声を聞く時をもたないといけないのです。今日は、この世の権威にも、神様の前に従い、歩んでいきます。目の前に難しい権威にも、従って行きます。そして、バビロンの後に来る支配、そして、何よりも神様の支配を期待して歩みます。

ラベル:

日曜日, 6月 06, 2010

神様のみ言葉への反応

エレミヤ26;16-24
神様のみ言葉を聞くことは、反応があります。それは、宗教的な専門家だから聞けるのでなくて、かえって自分が職業的な宗教家になっていることがあります、ここでは、長老たちがかえってエレミヤを救う場面が出来てます。また、イスラエルの王でもヒゼキヤが神様の言葉を聞いたときに、恐れたのです。しかし、ウリヤが預言したェホヤキム王は逆恨みをして、彼をエジプトまで追いかけて殺しました。私は神様の言葉を恐れているのでしょうか?それとも、人を恐れているのでしょうか?神様の救いを一番大事にしているのでしょうか?一番信じているのでしょうか?神様のみ言葉を聞いたときに、自分を正当化して拒否することは無いでしょうか?神様のみ言葉を聞く人は必ずいます。信じているでしょう亜k?現実を恐れずに、神様の言葉を素直に聞いていきます。神様のしもべとして神様を恐れて、したがって生きます。わたしの痛い部分を愛を持ってつかれる主イエスの前に受けとめ、神様の守りを受け取ります。そこに、真の回復と神様の哀れみがあることを感謝して、賛美します。

ラベル:

土曜日, 6月 05, 2010

厳しい言葉は待っている神様の愛だ!

エレミヤ26;1-15
神様は23年間語られて、もう待てない、神様の捌きが来るといわれても、再び神様の愛によって語られます。再び、エレミヤを通してイスラエルの民に伝えます。「WOO~何と言う神様の愛」なのでしょうか?この世にいて、イスラエルの民は、神様の民は、神様からのこらしめを受けることができます。しかし、天国に行くときには祝福しかありません。逆に、ノンクリスチャンには楽にこの世を生きているように思えても、神様の警告と捌きを聞かないなら、この世が終わるときに、永遠の捌きがあるのです。この世が、今がチャンスなのです。’今が神様の言葉を聞くチャンスなのです。


神様の祝福の言葉を聞くのは優しいし、嬉しいことです。しかし、きつい言葉を聞くのは難しいことです。傷つくかもしれません。しかし、神様の正しい愛で導かれるときに、正しい、自分の人生を歩めることが出来ます。神様の声を聞かないで生きるときに、罪を招き、回りに罪の影響を与えて、罪、サタンの奴隷となる、その結果はむなしい人生と、神様ののろいが待っているのです。


①私は神様の裁きと凝らし目と聞きたくないような言葉を愛を持って聞いているのでしょうか?


それとも、自分勝手な言葉だけにアーメンといっているのでしょうか?


②エレミヤのように命を掛けて「神様の言葉」を「たえず」そして「あきらめず」語り続けているのでしょうか?今朝、神様の声を聞いて神様の愛を、懲らしめの言葉「省くことなく」語っていきます。まず、私が聞きます。それでこそ、神様に従う人の言葉は、神様を信じる人の、しもべの言葉は違います。神様の言葉を聞く恵みの中に生きます。

ラベル:

金曜日, 6月 04, 2010

霊的な指導者のすべきこと、教えるべきこと

エレミヤ25;30-38
牧者は、霊的な指導者です。れいてきなしどうしゃのおしえるべきことは何でしょうか?
①礼拝です、それは、場所を暖める礼拝儀式でなくて、神様に出会う礼拝でないけません。その礼拝への心構えはどうでしょうか?遅れていかないでしょうか?目上の人や、大事な人や、愛する恋人に会いに行くのに、服装にも気をつけるのが、礼拝にはどうでしょうか?最高の、最愛の、最善をなされる方にどのような態度でしょうか?
②また、礼拝であったら、いい意味での緊張と喜びを持ってその人の話を聞き、神様に一番の態度で話をしようとしないでしょうか?神様の声を聞くことに正確であろうとしないでしょうか?
神様の声を聞いて、生きる、養育をしていきます。
③祝福によって、幸福な人生を生きるクリスチャンになります。教会が幸福でないと、どうして、人を呼べるのでしょうか?
④教会は家族のように、家族は教会のように。愛し合う共同体を作らないといけません。それは、神様がご自身が三位一体の方であり、人格をもたれて交わりをされる方だからです。一人では愛することが出来ません。礼拝するのと同じ姿で、同じ心で、教会でも家庭でも愛さないといけません。
⑤教会は、宣教する共同体です。私たちの人生は、終末論的な人生です。このよにずっといるのでなくて、主イエスが再び来られるのを待ち望む人生です。ですから、地の塩として世の光として、この人は違う!この人に出会って良かったという祝福の人です。その人がイエス・キリストの来られるまでイエスの愛を伝えないと周りの人が滅びることを死って、イエスの愛を伝えないといけません。
霊的な指導者として教えられれ、伝えていきます。

ラベル:

木曜日, 6月 03, 2010

すべての人々にリバイバルを

エレミヤ25;19-29
エジプトの全ての人々に、全ての王に、混血の人に、アラブの人に、島々の人に、それは例外なくという意味です。神様の裁きは誰にも例外なく訪れます。誰にも、神様の前に罪人でないひとはいません。神様の清さは、侮られることではありません。神様の裁きは決して避けれるものではありません。神様からはどこからも、誰からも、離れて隠れることは出来ないのです。神様の願いは、何でしょうか?神様の愛のメッセージに答えて生きることです。神様に従うときに、自由があります。神様に従わないときに、罪の奴隷となり、裁きがまっているのです。わたしを縛る心の傷、罪や、不従順から自由になるために、かみさまとともにいます。神様の下へ歩みます。神様と共に集中した人生を歩みます。神様の願いは、神様の前に悔い改めることです。愛へ戻ることです。主イエスの飲んでくださった神様の怒り、のろい、あざけり、をあがめ賛美します。主イエスにあって今朝も立ち戻ります。

ラベル:

水曜日, 6月 02, 2010

神様の思いは裁きをしたくない愛だ!

エレミヤ25;12-18
神様の愛は、全ての人々を裁きたくない思いです。神様はイスラエルの民だけでなくて、異邦人の民も裁きたくありません。しかし、神様の愛にそむき、神様から離れて、その警告や裁きにも応じない人々に、神様は何度も愛の鞭を振るわれます。最後の裁きの時には、バビロンもさばきの道具として用いられましたが、彼らの罪も神様の裁きが訪れました。神様の永遠の裁きへの恐れを持っていきます。また、何よりも、わたしのために裁きを飲んでくださった主イエスの十字架を思います。興趣イエスの前に、経済的なことや主イエスに仕える人生をきよさを求め、人間関係に従順を求めて歩みます。悔い改めて一日をスタートします。

ラベル:

火曜日, 6月 01, 2010

23年も語る神様の愛

エレミヤ25;1-11
今朝の黙想で一番心に迫ったのは、神様が「23年もエレミヤを通して語られたこと」そして「23年も聞かなかったイスラエルの民、クリスチャンたち」最後に「聞かれないのに語ったエレミヤの従順と厳しい人生」です。はたして、クリスチャンであるイスラエルの民、そしてエルサレムという礼拝する場所さえも、南ユダ王国にとって最高の求心ポイントであった礼拝する場所がエルサレムにあることさえも、除かれて、そのアイデンティを失ってしまう状況があります。23年といえば、赤ちゃんが青年に育つ時間です。大人になる時間です。また、神様は、別に23年間だけ語っておられたのではありません。ずっと永遠の神様が、天地を創造された時間からずっと語ってくださったのです。今日の恵みは、こうです。
①永遠の神様がわたしを忍耐してくださったように、私も忍耐を持って神様の愛を語ります
②23年間も語っておられて、それに従ったように、わたしのエレミヤのように従い、語り続けます
③神様の民として、クリスチャンとしてのアイデンティを持って生きます。
④神様、わたしのこの地をTORRANCEを、IRVINEを、WESTWOODを与えてください。SANTA MONICAを与えてください。神様の礼拝する場所にしてください

ラベル: