坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 19, 2010

わたしの心の中に聖書が書かれているか?

エレミヤ31;31-40
神様の契約は、新しい契約とは今までと相手も、内容は同じものです。しかし、相手である人間の私たちが、イスラエルの民が破り続けるので、神様が「新しい契約」を下さったのです。普通、契約を破る者に、新しい契約などありません。破らないために、契約があるのです。破ったら終わりです。関係は終わりなのです。それは全く一方的な恵みを神様は下さるのです。完全に対等な関係で契約をされるものですが、神様と私は違います。それは、罪のための購いも私が用意したものでなくて、神様ご自身が下さった主イエス・キリストなのです。それは、かかれたものでなくてわたしの心にかかれるものなのです。まさに、神様なしにはわたしは生きれないものです。神様の罪の許しを、イエス・キリストへの感謝を私の人生の中に、おいているのでしょうか?聖書をわたしの心の中に書いているのでしょうか?私の人生の中に主イエスの罪の許しが書かれている証があるのでしょうか?神様によって、回復された人生の証があるのでしょうか?それを伝えているのでしょうか?イエスの愛を出会う留学生たちに伝えていきます。

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