厳しい言葉は待っている神様の愛だ!
エレミヤ26;1-15
神様は23年間語られて、もう待てない、神様の捌きが来るといわれても、再び神様の愛によって語られます。再び、エレミヤを通してイスラエルの民に伝えます。「WOO~何と言う神様の愛」なのでしょうか?この世にいて、イスラエルの民は、神様の民は、神様からのこらしめを受けることができます。しかし、天国に行くときには祝福しかありません。逆に、ノンクリスチャンには楽にこの世を生きているように思えても、神様の警告と捌きを聞かないなら、この世が終わるときに、永遠の捌きがあるのです。この世が、今がチャンスなのです。’今が神様の言葉を聞くチャンスなのです。
神様の祝福の言葉を聞くのは優しいし、嬉しいことです。しかし、きつい言葉を聞くのは難しいことです。傷つくかもしれません。しかし、神様の正しい愛で導かれるときに、正しい、自分の人生を歩めることが出来ます。神様の声を聞かないで生きるときに、罪を招き、回りに罪の影響を与えて、罪、サタンの奴隷となる、その結果はむなしい人生と、神様ののろいが待っているのです。
①私は神様の裁きと凝らし目と聞きたくないような言葉を愛を持って聞いているのでしょうか?
それとも、自分勝手な言葉だけにアーメンといっているのでしょうか?
②エレミヤのように命を掛けて「神様の言葉」を「たえず」そして「あきらめず」語り続けているのでしょうか?今朝、神様の声を聞いて神様の愛を、懲らしめの言葉「省くことなく」語っていきます。まず、私が聞きます。それでこそ、神様に従う人の言葉は、神様を信じる人の、しもべの言葉は違います。神様の言葉を聞く恵みの中に生きます。
ラベル: エレミヤ
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