坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

土曜日, 6月 26, 2010

危急の時に主が語る人になっているのか?

エレミヤ34;1-11
南ユダ王国の滅亡の時に、ゼデキヤ王に対するメッセージがエレミヤにありました。王に直接に語られるのでなくて、主の預言者に、語られたのです。はたしてわたしは、危急の時に、私は主なる神様が語ってくださる関係でしょうか?神様にメッセージをいただいて生きることが出来、また周りの人々のために用いられる人材でしょうか?神様の大事なメッセージを、危急の状況に、生きるか死ぬか?の状況にある人を助け出せる神様のメッセージを伝えれる人でしょうか?神様の声を普段から聞けるように、生活を設計しているのでしょうか?生活をキリスト中心に、教会中心にしているのでしょうか?それとも、普段は自分の思い通りに生きていざと言うときに慌てふためく人でしょうか?

また、神様の奴隷解放をしながらも、イスラエルの民は約束を、恵みを、あわれみをひっくりかえします。それは、人間として難しいことですし、神様を信じるクリスチャンなら尚更難しいことであり、大きな裏切りであり、罪であるのです。それは、神様の罪の許しをもらっても、人を赦さない、愛さない姿勢です。それは、自分の心の奥底にある怒り、赦していない罪から来るのです。

わたしの心の奥底にある、怒り、傷の癒しを求めます。主よ、わたしはあなたなしには生きていけないものです。自分に絶望します。しかし、主イエス・キリストの十字架の血潮を受けます。主よ、癒してください。この心で主とお話をしていきます。祈り、聖書を読みます。神様の癒しのある日になることを信じます。不利になって神様の約束に立ちます。何故なら、主イエスがそうしてくださったからです。主イエスの恵みを賛美します。

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