坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

木曜日, 6月 17, 2010

神のはらわたのわななきに私は無関心でないか?

エレミヤ31;10-20霊的な死は、神様の愛への無関心と無感覚に陥れます。また、霊的な怠惰は神様の愛に慣れっこにします。そして、世の中に関心や興味や価値観を起き、そこに時間を過ごさせます。しかし世の中は、苦しみがあったときに一時的に逃げ場があっても、それを変える力はありません。また、世の中の楽しみは、一時的なのもで、永遠に続くものではありません。世の中のものはいつか無くなり、足りなくなるものです。しかし、神様は、悲しみを喜びに、足りないものを、満ち足りようにされる方です。神様の愛は表面的なものでなくて、骨までしみる、心の揺れ動くまでなされるものです。また、神様は罪を犯しているわたしに、全ての人に、「わたしの大事な子」喜びの子、将来に希望があるといわれます!状況がわたしを作るのでなくて、神様の愛の関係と計画がわたしの未来を創造されることを知り、主イエスにある愛を持っていきます。神様の愛の声を聞いて、この世の中で神様の愛を叫んでいきます。

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