坂之上(カルバリ)のキリストSakanoueno Christ

月曜日, 5月 31, 2010

主の回復計画

エレミヤ24;1-10
主が主がであることを知るときに、神様の回復は始まります。神様の回復プログラムは主が主であることを知り、恐れ、主への信頼と、自分への計画を知るときに、神様の自分を回復してくださる祝福を得ることができます。心尽くして神様を知るときになります。神様がその心を下さるからです。神様はわたし二度と引き抜かないといわれます。神様に頼るときに、安心が来ます。神様の回復プログラムの上に歩んで生きます。神様が神様であることを知るこころをくださったかたのに従順して歩んで生きます。神様が回復されるときに、本当の安心が来ます。心を尽くして、神様に立ち返ります。


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日曜日, 5月 30, 2010

主の宣告は命を賭けることを知っているか?

エレミヤ23;33-40
主の宣告だという偽預言者がいます、勝手に自分の都合のいいようにみ言葉を解釈したり、利用する人がいます。しかし、これらの人は神様の裁きへの恐れが無いわけです。逆に、神様のみ言葉へのしと信頼の関係が無いわけです。また、自分のためにしています。
この時代は、「誤った行動をしている人や聖徒への」忠告が出来ないわけです。また、それを言うと逆恨みされます。指摘をしない、しからないことは、実は神様のみ言葉を預かりながらもしないことは、神様のしもべとしての責任であります。責めることをいわず、よい言葉だけ、耳障りの無いことしかいわない、そのことに責任があります。主のみ言葉を宣言するときは、自分の命をかける責任があります。神様の力あるのか?どうかは神様との関係です。神様に命を捧げる思いがあるのかどうか?です。主の命のみ言葉を受け取ったら、命を欠ける価値があります。そこには、永遠の命があります。主のみ言葉があるところには、命があります。

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土曜日, 5月 29, 2010

私の人生の中に生きて働く神様の言葉

エレミヤ23;23-32
神様は、神様の言葉は、近くにあるから(何でも答えられたから)神様の言葉でなくて、とおきにあると神様の言葉ではない(今日の気分は神様に祈りたくない、祈りの答えがなさそう、感じられないから→感じるからかどうが危険です。)信仰は気分ではありません。神様は感じられるから、神様ではなく、確かにおられる方であり、真理なのです。神様はそこだけにおられる、空間に縛られる神様ではないのです。感じる、FEELINGや気分で縛られる神様なので無いのです。自分の気分でなくて、聖書に、十字架に、自然の中に表されて、創造され、今も治めている神様は、わたしの現実を作り変えられる方なのです。神様の言葉を読み、宣言し、賛美していきます。神様の言葉を私の人生の中で、天地に満ちる神様を賛美する一日となります

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木曜日, 5月 27, 2010

怖れがあってこそ平安がある

エレミヤ23;13-22
逆説ですが、まことの神様を怖れているときに、まことの平安が来ます。まことの神様の権威にひれ伏しているときに、他の偶像にひれ伏しません。まことの権威にひれ伏しているから、他の何かの圧迫にも恐れがありません。何か悪いことをしているから、他に、人間に恐れるのです。神様の声を聞いて、正しく行動するときに、他への人間的な計算や恐れがなくなります。神様と言う本当に従うべき権威にひれ伏すときに、自分と言う偶像や世間と言う権威に恐れが無く、負けることがありません。神様の声を聞いているときに、従う人は続いて神様の声を聞きます。神様の声を聞いている人には説得力があります。まことの権威の下に生きる人は、平安があります。神様を怖れて生きます。

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まことの牧者であるイエスと偽宗教家

エレミヤ23;1-12
偽の宗教家と本物の違いなんでしょうか?それは、関係です。神様との関係を持っているのか?仕事して関係をもつことを面倒くさっているのか?ということです。仕事をこなして、その場にいるだけのなのか?大きな違いが有ります。そして、一番の大きな違いは、自分のためにするのか?神様のためにするのか?そして、神様の人は、仕える人です。その人として主イエス・キリストは人の姿を取り、十字架での仕える、自分を捨てる姿をとって来られたのです。だからこそ、二度と怖れることのない、不安の無い人生を歩むことが出来るのです。自分を主張している人に、自分の国をもとうとしている人に、どうして任せることが出来るでしょうか?まことの牧者なる主イエス・キリストが来られたのです。メシアなるイエス・キリストが私の人生を治める、愛を持って治められる、わたしの罪をきよめられる、その祝福を受けます。その主イエス・キリストに従って生きます。したがって、仕える牧会をしていきます。

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水曜日, 5月 26, 2010

神様の最大の秘密作戦が開始された

エレミヤ22;20-30
神様は南ユダ王国の王であるエコヌヤが「神様の右の指であってもはずされる」と言われました。そして、その立場やアイデンティ、神様の祝福の王座の家系が閉ざされる、と言われました。もしも、神様の声を聞かない人生を歩むなら、不従順の人生を歩むなら、それは悲しみを最後にもってきます。最後には、自分の人生の歩むべき立場や祝福までも持っていかれるのです。そして、人々はこの無い祝福の無い、一生栄えない男と記録されるのです。そんな人生を誰が歩みたいのでしょうか?そして、バビロンへ連れて行かれてそこで一生を終えるのです。そこで、詩篇を歌うのです。誰が、からかわれて主への歌を歌えるのか?となるのです。しかし、バビロン行くことは神様の回復プログラムのスタートです。神様のことを思い出し、悔い改めて、神様の子であるイエス・キリストの来られることを待ち望むチャンスなのです。まことの唯一の王であるイエスが来られることをスタートする神様の最高の秘密作戦、それはわたしたちを罪から救い出される作戦のスタートなのです。神様の前に、わたしの主、王である方に従います。愛し、ゆるし、従います。


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火曜日, 5月 25, 2010

神様と一緒に飲み食いせよ


エレミヤ22;10-19
人は、勘違いをしていることがあります。日本人がそうなのかもしれません。宗教を持っている人は、特にクリスチャンは「貧しいことがきよい」という誤解です。ところが、南ユダ王国のヨシヤ王はイスラエルの霊的な状況が難しいときに、宗教改革をした人です。しかし、彼は神様と共に飲み食いをして、したげられている人を哀れみ、神様の公儀と正義を行ったと評価されているのです。神様共に人生を喜ぶことに、隣人への愛があります。そして、そこには自分の人生をSHAREする教授する喜びがあるのです。同じ難しい状況で、親と子でどうしてこうも違えるのでしょうか?形だけの宗教生活でなくて、人生を生きているキリストとの関係なのです。神様の愛は分かち合えば分かち合うほど、自分に帰っていく、増えていく愛です。神様の愛の生活を享受します。

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月曜日, 5月 24, 2010

憐れまない者は一番良い物を無くす

エレミヤ22;1-9
神様は、憐れみの無いものを、公儀の無いものから、杉材をとっていくといわれます。日本人にはそんなに感じが無いかもしれませんが、中東やイスラエルでは杉の木は、最高の木材でソロモンが神殿を作るときに、わざわざ外国の王に頼まないといけない貴重なものであったことが分かります。神様の愛と祝福をもらって、自分だけのための人生を歩む人は一番良い物を、一番自分の大切にしているものを無くします。神様の愛を分かち合う人は、もっと多くのものを、祝福を得ます。神様の祝福を分かち合う日曜日を過ごします。

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日曜日, 5月 23, 2010

人生は選択だ!


エレミヤ21;8-14人生は、選択です。神様の下さった道を選ぶのか?命の道を選ぶのか?死の道を選ぶのか?選択です。そのためには、どうしたらいいのでしょうか?神様の関係を深くもつことです。愛の関係です。神様のみ言葉が絶対的に信頼できる、愛する方であることを信じることです。
また、クリスチャンとしてのアイデンティをまっすぐに生きることです。それは、神様の恵みを受けて生きるものの姿です。自分の生きるべき道を見失わずに、進む人生の喜びです。神様の命の道には、苦しくても喜びがあります。神様の命があるところには、奇跡と生産があります。現実は変わらなくても、主イエスの命があります。罪に負けません。神様の命の道を歩みます。

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土曜日, 5月 22, 2010

人生の最大の問題解決は罪の回復

エレミヤ21;1-7
ゼデキヤ王は、今まで人に頼り、神様に頼ってきませんでした。彼は、神様の預言にも聞かずに、エジプトと同盟しました。そして、神様に苦しいときの神頼みをしました。苦しい時に神様に頼ることは悪いことではありません。いいことでしょう。しかし、一番大事なことは、人間関係の回復無しに人に頼むこと無いように、神様の関係を回復せずに頼むことです。神様との関係回復をせずに頼めるでしょうか?それは、利用するだけの関係であり、その時だけの神様です。わたしの中で神様をそのように扱うことは無いでしょうか?神様の関係を持つことこそが、神様によって、自分の罪が許されることが、一番の人生の問題の解決であることを信じているのでしょうか?神様に罪赦されたことを、一番に喜び歩みます。

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金曜日, 5月 21, 2010

苦難の中で主イエスに歌うと消せない火が下る

エレミヤ20;7-18
主のみ言葉を伝えることで、拒否されることが数々あります、迫害されることがあります。主のみ言葉を伝えることで、不利益をこうむることがあります。ノンクリスチャンだけでなくて、時に同じ立場のはずのクリスチャンからもこういう厳しい痛みを傷を受けることがあります。そういう中で、もう黙っていようと言うことがあります。神様に不平や不満を言うことがあります。エレミヤもわたしたち以上に厳しいことを受け、傷つけられえ、しかも彼の伝えた実言葉は神様の民であるはずのイスラエルに悔い改めのメッセージを伝えたのです。それが、歓迎どころから命の危険までさらされ、絶望に陥ったのです。しかし、エレミヤの違うところは、わたしたちの学ぶべき教訓は、神様に「私の人生は絶望のうちに終わるのか?」と神様に打ち明けたところです。神様に全ての心の状態を、感情をそのままに話したところです。主に向かって歌い、賛美したのです。絶望の中で神様に自分の人格を気にもせず、打ち明ける人には、神様のみ言葉が来ます。それは、いろんな絶望を除去し、神様のみに頼る、神様への熱い賛美を起こさせ、神様のみ言葉が黙っていられないくらいに熱くします。わたしの胸を熱くさせる神様なの愛で、賛美します。苦難の中で、心傷ついた中で、神様の癒しを受けます。悔い改めます。主イエスの愛をほめたたえます。

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木曜日, 5月 20, 2010

同じ立場の人からの迫害を恐れるな!

エレミヤ20;1-6
エレミヤは、偽預言者によって、宗教家によって、同じ立場のはずの人に迫害され、殺されかけます。それは、真理を語る人は必ずしも歓迎されると言うのでなくて、石を投げられ、迫害され、批判されます。また、言われも無い非難や、誤解や、事実無根の汚名を着せられます。しかし、神様は今日わたしに言われます。宗教家の言われも無い、同じ立場の人からの攻撃や迫害を恐れるな!と言われるのです。時に、神様の言葉や真理を語る人を人は恐れます。偽りを明るみに出されることや、自分の立場を揺るがされることを恐れるのです。わたしの怖れるべきことは神様であり、神様の真理に従うことです。逆に、それがはっきりしない人は、人を恐れます。神様のみことばを語ることを堂々とします。神様の言葉を恐れずに語ります。神様のみ言葉の真理にある人としての態度をもちます。エレミヤの態度は、堂々として、相手の神様の裁きを伝えています。わたしも神様のみ言葉にある者として、人を恐れるのでなくて、神様を怖れて行きます。人に出会います。

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水曜日, 5月 19, 2010

神様の計画を全部得たいのか?それとも一部だけ使いたいのか?

エレミヤ19;7-15
神様の声を聞かないことに、どれほど損をしている感覚があるのでしょうか?または、神様の声を無視することにどれほど恐れがあるのでしょうか?神様の裁きを恐れているのでしょうか?そして、

①神様の計画に全部従う気持ちでしょうか?それとも、半分や一部だけしたがって自分の欲しい部分だけ歩もうとしていないでしょうか?自分の主人は誰でしょうか?自分を支配する悪い主人でなくて、神様の十字架の愛に従う自分でありたいと思います。主イエスが全てをわたしに下さったように、わたしも主イエスの全てをささげます。主の宮で、礼拝される時に語れる言葉にどれほど命をかけて聞いてるのでしょうか?どれほど、主の御心を語る思いで仕えているのでしょうか?主イエスを愛して仕えているのでしょうか?主イエスが全てでしょうか?主イエスを愛して仕えます。

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火曜日, 5月 18, 2010

わたしの心は混ざり物が無いか?

エレミヤ19;1-6神様は、バアル偶像に捧げた谷に向かって「思いつきもしない」ことだといわれ、徹底的な裁きを行われます。今日、わたしに与えられた恵みは神様を礼拝しながらも、他の偶像に仕えたイスラエルの民のように、混合宗教生活がある危険を思いました。それは、

①遠い宗教儀式でなくて、わたしの心の中に、悪魔にこの世の霊に持っていかれてる、ものや、偶像がないかと言うことです。神様以上に頼るものが無いか?ということです。②神様に礼拝をささげないなら、この世に自分の関心や時間を持っていかれます。③神様を礼拝しているから、他の罪を犯しても少しは大目に見てくれるだろう、という考えがあります。そんなことはありません、神様は純潔な方であり、恋愛関係のように自分だけを愛する喜びをお互いに享受する関係なのです。④まことの礼拝の一番の問題は、30%、50%の礼拝、従順です。それは無いのです。100%の悔い改め、100%の礼拝なのです。
わたしの心は、人生は、生き方は混ざり物が無い人生でしょうか?それとも、宗教生活をしていて礼拝をしたから、他のこともしていい、多少は見逃してくれる、と思う人生でしょうか?礼拝以外の他の時間は別、ということでしょうか?神様以外に愛しているものは無いでしょうか?神様への愛を持って一日を過ごします。

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月曜日, 5月 17, 2010

あなたを自分を「おとめ」のような価値として生きているか?

エレミヤ18;13-23
主イエスは、あなたのことを、わたしのことを、「おとめイスラエル」と呼ばれます。神様の「おとめ」であるわたしとして、気高く、尊く、大事に、きよく、汚れの無い人生を生きているのでしょうか?それとも、むなしいものに人生を破壊されていないでしょうか?むなしいものに、時間を費やしていないでしょうか?永遠の神様の導かれる人生ではなくて、築かれていない、神様の準備されていない道へ歩んでいないでしょうか?神様の導かれる道は、既に計画されている道です。神様の乙女としての自分の価値ある人生を歩んでいきます。神様の計画された人生を歩んで生きます。

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日曜日, 5月 16, 2010

神様の言われることに素直に聞く準備が出来たのか?


エレミヤ18;1-12
神様は言われます。あなたの行いを改めてるのか?①「わざわいを思い直すのか?」それとも、②「しあわせを思い直すのか?」と言われます。神様の声に聞き従うのか?わたし、わたしの目の前に悪を行うのか?と言われます。それをわかっていても、「だめだ、わたしたちは自分の計画に従い、おのおのわるいかたくななこころのままに行うのだから」と自ら言う12節にあります。はたして、人間の心の弱さ、かたくなさを見るときにどのように行動すべきなのでしょうか?神様は、陶器師としてわたしを作り変える、と言われます。それは、本当は自由に作られるのに、わざわざ、わたしたちに語りかけてくださり、わたしを神様の子供として、人格的に扱ってくださいます。今朝、神様の声に聞き従う、従順な姿勢と愛を持って仕えていきます。神様の愛の声を聞く姿勢が、神様の声を御言葉を通して、状況をとして、人を通して聞きながら、神様の愛と幸福へ進んでいきます。


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土曜日, 5月 15, 2010

自分の出入りすることを聖別せよ

エレミヤ17;19-27
今日の聖書箇所は、
①安息日を聖別せよ
②主の言葉を聞け
そして、繰り返される単語が③門です。門となんでしょうか?人の出入り、です。仕事や家のことや家族のことで、出たり入ったり、します。日常の非常に大きな作業です。そこへの神様のメッセージがあります。その部分に於いて、礼拝を成功させよ!と言われるのです。神様との関係に祝福され、成功するものは人生に於いても大きな、永遠の祝福を受けます。

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金曜日, 5月 14, 2010

どんな時に神様を離れる危険があるのか?

エレミヤ17;12-18
主を捨てるもの、主から離れるものに、みな恥を見ると言われます。命の泉なる主なる神様から離れたからだ、と言われます。何故、そんなことをするのでしょうか?そんなことを知っているにもかかわらず、離れるのは何故でしょうか?それは、「自分が主人公になる」時に起こることなのです。自分に、集中するときにおこります。不信仰は、自分にFOCUSがあたり、主語は「わたし」なのです。自分を自生、自制することを知りません、最近の親の一番悪い教育は何でもしてあげて、自分ですることや、忍耐することを教えないことです。大変なときに、何でも助けてしまい、自分の足で生きることを教えないことです。自分のしたいことを抑えれない、自分のものを上げても、他の人にあげる喜びを、愛を知らないことになるのです。主イエスの愛は、徹底的に自己否定と自ら与える愛と喜びに溢れていました。今日の聖書のみ言葉はさらに、聖職者や牧者に向かって語られます。それは、専門的に神様に仕える人がこのような危険にいつもあることを教えます。神様のしもべは、いつも「あわれみ」と「癒し」と「救い」に渇いています。何故なら、自分の罪深さを知り、自分が自己中心で居ることに痛みがあり、そのままでいれないからです。神様の救いと恵みと、憐れみを求めます。わたしを作り変えてください。神様のゆえに、自己を自制して神様の恵みを求めます、その愛を分かち合います。

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水曜日, 5月 12, 2010

あなたの人生は罪が刻まれるのか?主への信頼が刻まれるのか?

エレミヤ17;1-11
神様は「ユダの罪は、鉄の筆と、金剛石のとがりでしるされ、彼らの心の板と彼らの祭壇の角に刻まれている」と言われます。罪は、決して消すことの出来ないものです。また、その影響は「彼らの子達に、アシュラ像を覚えている」と言われるほどのなのです。罪は決して消すことも出来ず、しかもそれは自分で終わるだけでなくて、周りへの悪い影響になって行くのです。その結果は、自分の大事にしていた財産、宝を失って、敵に渡すことになります。そのような人生を誰が生きたいのでしょうか?心が主から離れるものは、人間にだけ頼り、②しあわせが訪れても、会うことがありません、しかし、主に信頼するものには、神様の祝福と人間からの祝福もあります。どうしたらいいのでしょうか?今日の聖書箇所に急に現れるように感じる箇所が9節にあります。それは、「人の心は何よりも陰険で、直らない、誰がそれを知ることが出来よう」とあります。それは、わたしたちの心が主についていないかぎり、直すことの出来ない、癒されることの無い心であることを教えてくれます。神様についていてこそ、自分の人生の思いや心が深く知られ、生き方の行いの実を結ぶことができるのです。果たして、私はどうでしょうか?最近思ったことは、担当牧師になると「横から何かアドバイスやまずいことをしている時に言ってくれる人がいない」ということです。上から言われることは「神様のみしか」いないということです。これは、本当に大変で危険なことだと思いました。私自身も神様の前に謙遜さが無い、心の陰険なものだからです。直せない心を神様に癒し続けてもらっているものです。また、もう一つを教えられたものは「人を見る哲学」です。それは、人の心は陰険であり、人間的に期待するものでなくて、どこまでも主の癒しと赦し愛の対象であり、それが必要であるということなのです。どこまでも、主イエス・キリストの十字架によって赦され、愛されて、神様の心についていくものであることを信じ、祈ります。主イエスにある交わりの中に生きます。

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火曜日, 5月 11, 2010

神様がわたしの主であることを知る

エレミヤ16;10-21
罪とは、私たちが、神様を捨てて、離れることです。神様の律法を守らないことです。それは、偶像礼拝や他の宗教と違って、それを守らないと呪われると言う恐れでなくて、わたしを最高に幸福にすると言う神様の愛なのです。それを守らないときには、自分の損なのです。そこには何よりも、最高の良いものを提示されたのに、拒否されている神様の痛みがあります。本当は強要してもいいのに、神様はまずは人格的な関係を望まれます。その結果、他の国に移されて「救いと導きの神」から「義と裁きの神」となられます。しかし、変わらないものがあります。それは、回復を望まれている神様の愛なのです。イスラエルの南ユダの人々はわたしたちは神様の下さった相続地に汚れと罪をもたらし、汚しているものに、神様に隠させるものはありません。罪を隠すことは出来ないのです。愛する関係のもの同士に隠せるものはありません。まして、全能の神様に隠すことなのできないのです。神様の愛は、わたしを回復に向かわせ、その力なる神様に出会わせます。わたしの名が主であることを知る、と言われます。神様は主なのです。わたしの主なのです。わたしの主なる神様への賛美をささげる一日にします。なります。

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月曜日, 5月 10, 2010

結婚して、子供を生むのは良いこと?悪いこと?

エレミヤ16;1-9
今日の聖書のみ言葉は、長くわたしにとって意味の分からない神様の言葉でした。長く、神様の思いが分からない話でした。それは、結婚するな!子供をもつな!、と言う言葉でした。そして、悲しみのある場所の人へ慰めをするな!ということでした。字義的な解釈をするのなら、どうなのだろうか?と思いました。もちろん、犬に気をつけろ、ということばを聴いてそのままで町で犬に気をつける人はいないでしょう。それは字義的な解釈と違います。もともと、神様の祝福は「うめよ、ふえよ、地を満たせ」という生殖についても、大きな祝福を与えられて、家族の結婚を最初に作られたの神様です。動物と違って結婚と言う制度を尊く、価値のある、神様の愛を味わえる場所として造られたのです。それでは、今日の聖書箇所はどう解釈し、理解すればいいのでしょうか?それは、「ここで」という意味をとることに係っています。それは、神様のいない場所で、神様の主権を認めない人生で、「結婚することや子供を生むこと、葬式や悲しみ、喜び」の無いことを語っているのです。神様の意図やわたしへの最高の計画を無視して、捨てている人生の痛みや悲しみや、失われたことを神様がどれほど悲しんでおられるのか?どれほど、損をしていて、悲しみをもたらしているのか?それが、神様の心であり、回復を願っておられるために、厳しい裁きを下されたのです。わたしは今日も神様と共に生きる道を歩んでいるのでしょうか?神様と共に生きるからこそ、愛の結婚が出来、神様のおらえる地で、おられる人生で、子供を生み、育てる祝福が、創世記の祝福があるのです。神様と共に生きる一日を歩みます。

ラベル:

あなたは自分を幸福にする言葉を離さないはずだ!


エレミヤ15;-10-21普通、わたしたちは自分たちに聞こえのいい言葉や、耳障りのいい言葉に、心を傾けるのでないでしょうか?しかし、本当の言葉は時に心に痛いときがあります。神様の言葉は真実です。神様の言葉は状況が今すぐに変わらなくても真実な約束の言葉です。普通、わたしを必ず幸せにする、ということばをもらったら、それを大事にするのでないでしょうか?しかし、人間はそれを疑い、神様に文句を言います。今の現実に、自分のタイミングで解決して欲しいからです。わたしもそうです。しかし、神様は御言葉を喜ぶことを言われます。それは、神様との関係です。神様との関係を喜ぶなら、どうでしょうか?人間同士でも、信じる友人同士との関係なら、今すぐに解決できない問題を共に悩むのでないでしょうか?その人自身を信じて進んでいくのでないでしょうか?神様の関係も、その力ある名前にうえに、その方と交わる、共に生きる喜びのゆえに歩むのでないでしょうか?自分を周りの人が、とりなしの人として周り中が、頼りにされるその日まで、ぼろぼろの状態であっても、神様のあなたを幸福にすると言う約束のみ言葉を握って、宣言し、幸福と喜びの中で生きます。

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日曜日, 5月 09, 2010

人でだめなら神様の子しかいない(切り札はイエスだ!)

エレミヤ15;1-9
わたしたち人間にとって、最高に柔和であった人を(モーセ)最高に預言者であったサムエルをもってしてでも、ユダには救いが無いと言われます。とりなしの手がいないといわれます。それほどまでに、神様の救いがないと言われます。さらに「わたしはあわれみに飽いた」とさえ言われます。しかし、この世の中で、あわれみを持っている人がどれほどいるでしょうか?あわれみ、という言葉さえも探しにくいほどなのです。しかし、神様の究極的なあわれみは主イエスが使わされることによって表されます。この世で最も嬉しいことは何でしょうか?それは、主イエスの十字架によって神様の前に人が戻ってくることです。この世で最も悲しいことは何でしょうか?主イエスを拒んで神様から離れていることです。それが、まさに罪なのです。主イエスのもとに生きる一日を歩みます。

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土曜日, 5月 08, 2010

一人の魂のために痛んでいる主イエス

エレミヤ14;13-22
神様の心は痛んでいます。それは、一人の魂が罪の中にいるときに、わたしよりも、わたしたちよりも、裁きをされる神様の心が痛んでいるのです。偽預言者と偽宗教家の違いは、愛による痛みがあいてあるのかどうかです?罪の告白が、自らあるのか?罪の宣言してでも、相手のために罪の悔い改めを伝えれるのかどうか?です。偽預言者は、相手への愛が無く、自分をよく思われたいための綺麗な言葉しか言いません。それは、罪をもつ人間の本質です。しかし、まことの神様の愛をもつ人は相手のために涙があり、愛を持って祈ります。伝えます。神様の愛を持って魂のためにとりなします。

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金曜日, 5月 07, 2010

私の人生のど真ん中にイエスをおけ!

エレミヤ14;1-12
私の人生の中に、イエスは何処を占めているのでしょうか?一番の中心でしょうか?それとも、はしでしょうか?それとも、ある時はイエスが中心であり、ある時はイエスがはしに追いやられることが無いでしょうか?苦しい時に、主イエスを中心として頼っているのでしょうか?苦しいときにも、他のもの頼り、主イエスを恨んだり、神様に文句を言ったりしていないでしょうか?神様をおいてわたし中心に生きたら、滅んでしまいます。今は、苦しくても神様と共にいるなら、助けもあるし、神様の計画の仲で、尋ねることもできます。しかし、主イエスと共にいないのなら、地獄です。神様に祈っても聞かれならない、こんな苦しいことはありません。私の人生のど真ん中で、イエスをお迎えする祝福を宣言します。賛美します。このTORRANCEで神様の臨在の中で行きます。

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水曜日, 5月 05, 2010

隠すものが何も無い関係

エレミヤ13;20-27
神様は「あなたのすそを顔の下までまくるので、あなたの恥ずべきところがあらわれる」と言われます。当時の服はしたからうえまで一つですから、まったく隠すものが何も無いようになってしまいます。そこで、淫行を行ったことや、あなたのいななき、あなたの淫行のわざまでがと言われます。罪は霊的なことであり、そこから非常に具体的な、現実的なものへつながります。また、肉体的なものです。隠すものが何も無い関係は地上ではどんな関係でしょうか?それは、夫婦の関係です。親子の関係でも大人になると隠すものや別のことがあります。しかし、夫婦は隠すものがありません。果たして、私は神様の前に、隠すことが無い関係でしょうか?それは、本当に難しいものです、リアルな神様との関係が有ります。主イエス・キリストの十字架なしには、そのとりなしなしには、決してでることのできない人間です。心から愛します。主イエス・キリストの愛で仕えて生きます。何よりも、愛する関係から罪をきよめていただきます。

ラベル:

火曜日, 5月 04, 2010

否定的なメッセージをどう聞くか?

エレミヤ13;12ー19
今朝の早朝祈祷会でこんな話を聞きました。「エレミヤ書は否定的で、暗い部分が多いけど、聞きにくい部分で、その神様からのメッセージをまともに受け取るなら、自分からその暗く、否定的な罪が、その暗い人生が無くなる」という話です。名文だと思いました。自分の中の混合主義が無くなるという「神様よりも尊いものや、お金、生活の心配、家族」をなくしていくこと、神様以外の偶像をなくす話です。今朝、わたしに与えられたメッセージは

①神様の警告をないがしろにするな!神様ご自身を侮るな!→知っているつもりで神様の警告を聞き流すな!

②人のことや教会の働きなどで、自分の内面を無視して、神様との聖い関係を失うな!

③神様に聞く姿勢を失うな!

④神様の声を聞いてないて、悲しみを持っているのか!

⑤神様の悲しみの心でとりなしているのか?

神様の中で、ひごとに悔い改めているのか?日ごとにきよく生きているのか?生きようとしているのか?神様の聖霊の日によって明るみの仲で歩みます。


ラベル:

神様のあわれみは「AGAIN」だ!

エレミヤ2;14-13;11
神様は、人々を「根こそぎ」引き抜かれても、それでも「再び」憐れまれる方です。この世の中に、そんな愛が何処にあるのでしょうか?引き抜かれるほどに腐っている人をもう一度愛する人が何処にいるのでしょうか?何処にその人をもう一度、用いようという人がいるのでしょうか?異邦人をも、救いへ導かれる神様の愛があります。世界宣教への導きが既に始まっているのです。既に、神様の計画がスタートしているのです。神様の熱い愛が、すでにとどまることが無くスタートしているのです。溢れてきているのです。そして、二番目の箇所は

①エレミヤの従順は、「すぐに」すること「主の言葉どおり」に実行することなのです。

それは、従順の基本的な姿勢を示しています。そこに、神様の語られることがあります。

神様の言われたことは、非常にUNIQUEで現実的な、預言でした。それは人間的には理解の出来ないものだったかもしれません。馬鹿な?と思えるものだったかもしれません。しかし、神様の理解しにくいことにも、従順して歩んで生きます。

②神様は偶像に仕えることを役に立たない人生と言います。それは、作った偶像を言うのもならずに、自分の欲望や自己実現を言うかもしれません。それが、神様への従順を邪魔しているのです。実を結ぶ人生を止めているのです。

③しかし、神様はそんなわたしに強要する従順でなくて、「愛を持って人を結ぶ」

ことをされます。神様の従順を愛を持って答えて、人にも愛を持って答えていきます。強要でなくて、愛を持って結んでいきます。

ラベル:

月曜日, 5月 03, 2010

自分の一番愛する人を渡す気持ち

エレミヤ12;7-13
神様は、愛するイスラエルの民を、家を捨てて、相続地を捨てて、わたしの心の愛するものを敵に渡した、と言われます。これは、どんな気持ちでしょうか?人間的には、神様からの責めを負わされているような気がします。怖い神様を覚えます。もしくは、神様の裁きの怖さを覚えます。しかし、それは自分の愛する人を敵に渡してしまうことは、どんな気持ちでしょうか?神様にとってそれは、自分の愛する友人や家族や、子供を、愛する妻を、愛する配偶者を、渡してしまう、不安や痛みなのです。想像してみると分からないでしょうか?神様はわたしを失った意味で、来るってしまうほうどの痛みで無いでしょうか?しかし、無理やりにわたしたちを扱うのでなくて、人格的に扱ってくださいました。そのために、罪に陥り、罪のとりこになってしまったわたしを残念に見て、寂しく思われた神様、警告を厳しくされた主、しかし、わたしたち人間はそのまま歩んでしまいました。神様はわたしを敵に渡す代わりに、イエスを敵に渡されて、救いだされました。神様の愛はどんな愛でしょうか?その神様の愛の前に、悔い改めて歩んで行きます。今日はJUBLIEE CHの祈祷会のスタートでした。神様の前に悔い改めの祈りをしていきます。日本人の魂のために祈っていきます。

ラベル:

日曜日, 5月 02, 2010

ASK HIM

エレミヤ11;8-12-6
悪者が栄えるときに、どうしたらいいのか?というテーマがあります。それに対して、わたしたちはうらやんだり、栄えることに、妬みがあったり、神様の裁きが無いのか?という疑問があったり、します。それに対しての答えがあります。それは、神様にエレミヤが尋ねると言う場面でした。わたしたちは恨んだり、悪人の栄えに対して、不平や怒りを述べても、それが周りの人に対してのことが多いのでないでしょうか。神様に謙遜に尋ねる姿勢があるのでしょうか?苦難にどのように対応するのか?困ったことにどのように対応するのか?それは、神様に尋ねる姿勢、その関係が有るのか?ということでした。今朝、神様にわたしへのスケジュールを尋ねて一日をスタートします。

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土曜日, 5月 01, 2010

実を結び人生は、偶像を捨てるか?神様に戻るかだ!

エレミヤ11;9-17
今日の聖書箇所は、「神様があなたの声を聞かれない理由」でした。しかし、それは私たちが、私が神様の声を聞かれないところから始まります。そして、わたしの願いをなしたいために、偶像を作ります。偶像とは、単なる像だけでなくて、自分の願い成就であったり、自分の息子や、自分の主人であったり、します。そのために自分のために作るものが、利用するものが偶像なのです。偶像がわたしと神様の関係を邪魔しているのです。神様は「わたしの愛するものは何をしているのか?何を企んでいるのか?」それでいて、神様にささげものをして、苦しみを避けれると思っているのか?と言われます、神様はきついことを言われます。しかし、本当のことを言われます。人間は相手がまずいことをしている、と知っていても、言いません。また、言われたくありません。それは、非常にきつい話なのです。神様との礼拝は、儀式をすればいいのでなくて、関係なのです。心なのです。心の中にある偶像を捨てて、神様を愛するのかどうか?実を結び人生は、神様につながっているのかどうなのか?です。神様の裁きは根こそぎです。回復が出来ないまでに、なったからです。イスラエルへの祝福は、異邦人へと行きます。しかし、それでも神様の愛の回復はイスラエルに戻ってくる日が来ます。神様の愛の関係を取り戻すために、悔い改める人生を歩みます。

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